第73話
ソウタは執務室に戻ってきた。リンが不安げな顔をして出迎えてくれた。
「閣下!閣下がご自身が出撃されるというのは本当ですか?!」
「ああ。今度の作戦、俺でなければ駄目なんだ」
「ですが閣下は軍人ではありません!」
「政治的な判断も要求される内容で、機材の操作も俺しかできないからね」
リンは反対するが、ヒトミもエリもすでに承知済みだからと聞く耳を持たなかった。
「でしたら私は閣下の秘書官です!この命尽きるまで、閣下とご一緒致します!」
「君を戦場に連れて行くわけにはいかない。それにリンには頼みたい仕事がある」
「そ、それは何でしょうか?」
「万が一、万が一だ。防衛線が破られてエリ女王の身に危険が迫ったら、君は真っ先に転移門を抜けて、エリたちを受け入れる用意を整えてくれ」
「その命令は、閣下の身の上に万一の事が起こっているのが前提なのですね」
「ああ。そうだ」
「でしたら断じてお受けできません!」
今までソウタの命令を拒絶した事がないリンが、この時初めて語気を荒げて拒絶した事に驚きを隠せないソウタ。
「理由は?」
「閣下の身に万一の事があれば、私は即座に閣下の後を追うからです!」
リンは決然と、ソウタの身に万一があったら自決すると言い放ったのだ。
「馬鹿なことを!」
「閣下の……、ソウタさまの居ないこの世に留まる理由など、何一つありません!」
「リン……。どうしてそこまで……」
リンの激しい想いに、ソウタは戸惑ってしまった。
「ソウタさまは私にとって大恩のお方です。元来眼が悪かった私に、世界が鮮明で、美しいこと、それに触れる機会を与えてくださったではありませんか」
「俺はただ、君に眼鏡を買ってあげただけじゃないか……」
「いいえ!ソウタさまにお会いできなければ、私は常に霞がかったあやふやな世界で一生を送ったに違いないのです」
「私は幼い頃から近視が酷く、幼く死に別れてしまったので、両親の声は覚えていても、顔はおぼろげなまま。そんな私を引き取ってくださった大恩あるワジーレ様のお顔さえ、ご葬儀の時に間近に寄るまで、はっきりわからなかったのです……」
リンは涙ながらに語る。
「そんな私にとって、ソウタさまの下に就くことができたのは本当に、本当に行幸でした」
「周囲のことさえはっきり見えない私を連れて、視察に周らせて頂いただけでなく、異世界のニホンにまで。そして私にこの眼鏡を授けて下さいました。私が最初に鮮明に見た人の顔は、ソウタさまのお顔だったのです……」
「リン……」
「ですから私の心身、そしてこの命は、全てソウタさまのものです。ソウタさまのためであれば、私の身など、どのように扱われても構いません。策略の為に身を売り、命を失うことになろうとも、喜んでお引き受け致します!」
「そんな馬鹿げた事を命じるわけがあるものか!」
「ですがソウタさま、それは全てソウタさまが存命であればこそ、お引き受けできるものです。ソウタさまの身に万一の事があっては、私の生きる意味が失せ消えてしまいます」
「君の命は君のものだ!そんな事を言わないでくれ!」
「もし……、もしどうしても万一の事を前提にした命令を私に下さるのでしたら、それをお受けするのに、絶対に譲れない条件があります」
「それは?」
リンはおもむろに戸に向かって行き、その鍵を閉めた。この部屋の合鍵は宰相であるソウタと、その秘書官であるリンと、女王であるエリしか持っていない。
つまりエリ以外は誰も立ち入れなくなったのだ。
そして誰も入れぬ閉鎖空間となった室内で、リンは意を決してソウタに告げた。
「私にソウタさまのお子をお授け下さい。授かったのが確認できないと、私はソウタさまの身に万一あれば、必ず即座に後を追ってしまいます……」
涙を浮かべて小さく震えながらも笑顔で告げるリン。絶対に生きて帰って欲しいから呑めないと考えて咄嗟に出てきたのか、それとも心から望んでいた事だったのか。
あるいはその両方だったのか。
いずれにせよソウタがリンのその言葉を聞いた時、ソウタの中で抑えていた感情が、火花を散らして解き放たれてしまった。
「わかった」
ソウタは立ち上がってリンを抱き寄せた。
リンは胸を高鳴らせ、息を呑む。
彼女が拒絶しないのを確認したソウタは、勢いのままリンの唇を奪う。
リンは突如として夢にまで見た瞬間が訪れた事に驚くが、事態を受け入れると、逆に貪るようにソウタの口を吸う。
「絶対は約束できないんだ。だけどリンには何としても生き延びて欲しいんだ。だから……」
ソウタは勢いに任せてリンを執務室に併設されていた仮眠室に連れ込んだ。
仮眠室のベッドにそのまま二人で崩れ落ちると、ソウタはリンに、荒々しく覆いかぶさる。
「リン、今ならまだ止められる。本当にいいのか?」
「後悔などするわけが……ありません!」
リンは涙を零しながら、両手を広げてソウタを迎え入れた。
「ありがとうございますソウタさま……。私に世界を見せて頂いただけでなく、抱いてくださるなんて……」
情事を終え、ベッドに横たわっている二人。
本懐を果たしたリンは、ソウタの腕の中で喜びに咽び泣いていた。
「俺にもし万一があったとしても、結果が分かるまでは早まらずに、何があっても生き延びてくれ。今ここで約束するんだ」
「はい……。ソウタさま」
小指と小指で指きりげんまんの約束を誓う。
「もちろんこれは遊びじゃ無い。きちんと責任は取る。それは約束する……」
「勿体無いお言葉ですソウタさま……」
リンは喜びに打ち震えながら泣いていた。
「わ、私ごときは……ソウタさまと釣り合う身分ではありません。女王陛下や将軍閣下とは比較にも……」
「こっちの身分なんて俺の知ったことじゃない。ヒトミもエリも俺の幼馴染で、三人とも向こうじゃ唯の平民だったんだ」
アンジュを送り出した時から、ソウタは腹を括っていた。
それで少しでも相手が満たされ、生き延びようとしてくれるのなら躊躇しないと。結果が実を結んでしまったのなら、その責任は絶対に取るのだと。
「ありがとうございますソウタさま。ですが私は、貴方のお傍に居られれば、それで十分ですから……」
リンはソウタの秘書官として傍に居られればそれでよく、結果を出したとしても愛人扱いで構わないとまで言う。だが、ソウタはそんな事はしないと改めて告げた。
「では、その話はもしもが現実になった時に致しましょう……」
リンは優しい笑顔をソウタに向けた。
「ソウタさまは……怖くないのですか?」
「そりゃあ怖いよ……」
リンは身体を重ねた際に、ソウタが震えていたのを感じていたのだ。
「だけど今度の作戦、俺でなければ駄目なんだ……」
ソウタが震え出したので、リンはソウタを腕で抱いてその胸に埋めさせた。
「怯えたときはこうやって心音を聞けば落ち着くと、亡き母から教えてもらいました。私は奥様や陛下ほど胸が豊かではありませんが、その分、直にお耳に届くかと……」
ソウタは無言でリンに縋りつき、彼女の鼓動と心音に癒しを求めた。リンは優しく受け入れ、その背中を優しくさすり続けてた。
「ありがとうリン」
「こちらこそありがとうございましたソウタさま……」
しばらく休むというリンを残して部屋を出ると、メリーベルが外で待っていた。
「よっ色男!これで何人目だい?」
「冷やかさないでくれよ」
室内での情事は、外で待っていたメリーベルには容易に察せられていた。
「いよいよ本当に戦になっちまうんだ。誰だって死ぬかもしれないと思ったら、自分の想いに正直になるってもんだよ」
「だからメリーベルはいつも自分に正直なのか」
「本当にそう思うのかい?」
そう言うと、メリーベルはソウタを壁に押し付け、思い切り顔を近づけてきた。いわゆる壁ドンだ。
「閣下に拾ってもらってからは、気を使わなきゃいけなくなってさぁ、随分と我慢してるんだけどねぇ……」
彼女の妖艶な香りが、柔らかさが、ソウタの五感を刺激する。ソウタは思わず息を呑む。
するとメリーベルはソウタの股間に軽く手を当ててきた。
「ふふん。まだまだ大丈夫みたいだね……。でもまだ我慢しておくよ。今度の作戦、アタシは絶対に成功するって確信してるからねぇ」
「根拠は?」
「決まってるじゃないかい。閣下が立てて、自ら実行するからだよ。何処に不安があるっていうんだい!」
そういうとメリーベルは無邪気な笑顔を向けて、ソウタを開放した。
「なあに。本当に地獄の釜に飛び込む事になったら、その時は必ず閣下から頂戴するからね。嫌と言われても強引に分捕っちまから覚悟しときな!」
カラカラと笑いかけると、メリーベルは立ち去ってしまった。
「……」
ソウタはそのまま帰宅した。
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