第2章 足りないものと成長と

17. 冬の1日



―――♪


……眠い。寒い。


「…う」


時刻は7時半。気温は7℃。布団を引っ張って口元まで覆い隠す。

7℃ってなによ。寒い。怠い。冷たい。冷える。起きたくない。動きたくない……でも起きないと。1時間はかかるし遅くても9時前には出ないと間に合わないから…ううん。"あおさき"なら遅れてもいいかも。


「…うう」


そもそも…あたしがここまで疲れなきゃいけない理由がわからない。学校行ってお仕事行って学校行ってお仕事行って…それもこれも出席日数とかいうシステムが悪いわ。昼過ぎに授業が終わるのはいいの。その代わりにお仕事入るのがよくない。ほんとによくない……起きよう。


「…はぉ」


今日は土曜日。長い一週間もようやく終わり。

今年のぶんの声当ては全部終わっているのに、まだまだやることが多い。サイン会に舞台挨拶に各種イベント。

年度末に諸々詰め込んでくるのやめて。身体に悪い。あと心にも。


「おはよー」

「日結花、おはよう」

「あれ、ママは?」

「もう仕事に行ったよ」


顔を洗って軽くうがいを済ませてからリビングに入った。部屋にはソファーでテレビを聞き流しながらノートパソコンを開くパパが一人。キッチンを挟んだこちら側のテーブルに朝ご飯が置いてある。


「そっか…パパは?」

「僕は今やってるよ」


人差し指でパソコンの画面を指差して言う。

今書いてたんだ…お休みなのによくやるわ。


「今なに書いてるんだっけ?」

「『外カフェシリーズ』の新巻だね」


お茶碗にご飯をよそい、おかずを電子レンジへ入れる。

『外カフェシリーズ』とは、あたしのパパこと江水こうすい正雲しょううん――本名は咲澄さきすみ正道まさみち――による小説。あるカフェの新米マスターが日本中のカフェを巡って自分のカフェ力を高めるお話。

カフェ力とかいう意味不明な単語は出てくるし、コーヒーも紅茶も出さないお店はあるしで、斬新な設定が結構面白い。


「ふーん。今度はどんなお話なの?いただきます」

「はは、それは言えないな。でもヒントだけ。今回はカレーのお話だよ」


キャベツメインの野菜炒めに目玉焼き。納豆とお味噌汁。それに白いご飯。ヘルシーな朝食を食べ進める。

それにしてもカレーか…。


「あむ……カレーって…カフェよね?」

「うん」


はーお味噌汁美味しい。あったかい。身にしみる…幸せ。


「…ふぅ。よくわからないし、今度本ちょうだい。読むから」

「おーけー。完成したら渡すさ」


カレーのお話って…カフェの料理になるのよね。個人経営なら確かにカレーもあったりするし、別におかしくないけれど…まるまる一冊それで使い果たすのは絶対おかしい。


「…ん」


カレー食べたくなってきた。お店で食べたい。インドカレーとか香辛料効いたやつ。


「そうだパパ。テレビ変えるわよ」

「いいよ。はい、リモコン」

「ありがと」


今日の天気が知りたくてチャンネルを回す。ちょうど天気予報をやっている番組があった。それによると今日は曇りのち雨らしい。午後から降る予報で、折りたたみ傘必須とかなんとか。


「…雨」


お仕事に行く気が失せた。

外に出るのに雨とかやる気でない。濡れるのも嫌だけど、寒いのがもっと嫌。冬の雨は冷たすぎるのよ。


「…そういえば、日結花も今日は仕事かい?」


目線は画面のままに問いかけてきた。


「うん…ちょっとラジオしてくる」


そう。ラジオをしに行く。わざわざ時間かけて電車でね。花道町はなみちまちとか遠すぎる。もっと近い…歩いて10分くらいのところにしてほしいわ。


「そっか…遅くなるかな?」

「うーん…」


どうだろ…いつも通り二本録って、それから来週の話色々しないといけないし…知宵とご飯も食べると考えたら…夕方くらい?


「5時前には帰れると思う」

「なるほど。じゃあ杏の方が早いね。夕飯はどうする?」

「食べる」

「わかった。伝えておくよ」


適度に日常会話を挟みつつ食事を進めた。

食べ終わり、食器を片付け、身仕度を済ませていく。歯磨きをしっかりした後に時間を見ると、時計の針は8時を回っていた。


「…やば」


時間がない。洗面所に戻って化粧水と乳液をささっと塗る。それから部屋に帰って、まず化粧下地を。次にファンデーションをちょこっと取って頬中心にさらさらっと。眉毛を軽く整えて、まつげにアイラインを入れて終わり。

アイシャドウもマスカラもいらないわ。アイシャドウ入れるほど目立たせる必要ないもの。マスカラだって派手すぎよあんなの。


「んー…」


チークは…入れなくていいや。どうせマスクで行くしリップもなしで。結局いつも通りにナチュラルな軽いメイクになったわね。時間は…。


「…ふぅ」


さっきから10分しか経っていない。

余裕だった。さすがあたし。あとは…服か。

膝丈えんじ色のスカートにタイツ。上は薄手のインナーに厚手のシャツとカーディガン。コートはボアで。下着はシンプルにノンワイヤーのブラとはきこみ深めのショーツ、と。

ヒートテックはいらない。電車内とか暑いし、無駄に汗かくのも嫌だわ。

着ていたパジャマを脱いでその下のインナー(さらさら生地の伸びたTシャツとパンツ)も脱いでさっさと着替える。最初は下着を…。


「…むぅ」


姿見で自分の下着姿を見た。

ショーツは基本色ベージュに薄いオレンジが内側で透けて見える…ただでさえ胸が薄くて子供っぽいのに、生地がおへそ下まであるせいで余計子供っぽくなった…いつも履いてるレギュラーショーツだとここまで脇丈長くないし、もっと大人っぽく見えるのよ。足だって長くすらっとなるから全身見てもそれっぽくなるわ。でもこれじゃあ…いえ、暖かさのためよ仕方ない。誰も見ないから…大丈夫。

視線をそらして服を手に取る。着々と着替え、クリーム色のカーディガンを着たところで肌寒さはだいたいなくなった。

コートは外に出てからね。一応手袋も準備だけしておきましょ。

手袋を昨日準備しておいた鞄に詰め込み、薄茶色のコートを手に取る。時刻は8時半。


「…ふぅ」


お手洗いを済ませ、忘れ物のチェック。お財布とミナカと手帳とペンケースとハンドタオルと…ん、全部あるわね。

あとはマスクをつけて…よし行こう。


「いってきまーす」

「いってらっしゃい」


階段を降りてリビングに顔を出して一言。返ってきた声に対して手をひらひら振って、玄関でコートと靴を履く。


「うーさむっ」


外は寒かった。予想より空気が冷たい。

手袋持ってきてよかったー。この寒さは手がかじかんじゃうわ。

いそいそと手袋を身につけ、ようやく出発。



はー着いた。疲れた。なんだかんだ電車の遅れもなく時間通り9時40分に到着できた。

これに関してはいいのよ…それより、1時間弱かけてここにきただけで疲れ果てるのどうにかしてほしいわ。

5分ほど歩いてフィオーレのスタジオにたどり着いた。鞄から取り出したICカードを受付の人に見せ、首からぶら下げる。エレベーターで五階まで行って部屋に入った。

このスタジオの構成は、音響部屋の手前に一つ横長の見学部屋みたいなものがあって、そこから音響機器のある部屋と収録用防音室に繋がっている形。


「おはよーございまーす」

「おはよう」

「おはようございます」


挨拶の声は二つ。一つは峰内さんで、もう一つは篠原さん。


「もうみんな集まってる?」

「ええ。でも時間はまだ大丈夫だから急がなくてもいいわよ」

「わかった」


ガラス越しに知宵の姿も見える。高凪たかなぎさんと話でもしているみたい。音響室の方では史藤しふじさんと城園しろぞのさんが真剣な顔で話し込んでいる。篠原さんに軽く会釈だけして、さっさと防音室に入った。


「おはよー」

「おはよう」

「おはようございます」


部屋にいた二人に挨拶して席に着き、コートは脱いで椅子にかける。


「さ、じゃあ始めるわよ」


あたしが落ち着いたのを見計らって、話を切り出してきた。今日のあたしとは正反対で、知宵にしては珍しくやる気に満ちている。


「最初なにするの?あたしなんにも聞いてないんだけど」

「私も知らないわ。高凪さん、何をするんですか?」


あんたも知らないのか…さっき話してたことなんだったのよ。いやまあ別にいいけど。


「ええとですね。まずは決めること決めてしまいましょう。資料を見てください」


なるほど。ラストショーのことね。資料っていうと…机の上のこれか。大まかなスケジュールが書いてあるみたい。あと、あたしたち担当時の段取りも。


「基本の流れはいつもの収録と変わらないのね」

「ま、トークショーだし。こんなもんじゃない?」

「それはいいのだけれど…この"フリートーク"の多さをどうにかしてほしいわ」

「あー…」


"あおさき"イベント特有の長時間フリートーク。

ラジオ収録のときはお便りを読むからそこまで難しいことじゃないのよ。…イベントだと、話題の発端は全部あたしたちになって難易度が跳ね上がる。ていうか面倒くさくなる。

二人で高凪さんを見ると、ぽけーっとした顔で適当なことを言ってきた。


「フリートークですか…お二人なら大丈夫ですよ!」

「…相変わらずの丸投げですか」

「…知宵、諦めましょ。今さら言っても意味ないわ。結局いつもこんなんでしょ」


なんだかんだなんとかできてきたから大丈夫。実際フリートークならいくらでもできるのよ。ほんとにめんどくさいだけで。


「ええ、わかってる。言ってみただけよ。それで、フリートークの次は即興劇かしら?」


知宵の言った通り最初にフリートークして、次に即興劇。そのあとまたフリートークして、青空詩吟のコーナー入って、コラボトークと相手番組合わせた即興劇が入って、最後に軽いフリートークして終わり。

…こう考えると半分くらいはフリートークになるのね。


「即興劇っていうと、"なみはな"の二人も後々のやつは一緒にやるんですよね?」

「はい。ですので4人で演じてもらいます」


4人か。あ、組み合わせってどうなるんだろ。


「この即興劇ですけど、私たちと"なみはな"の対抗ですか?」

「いえ、それぞれの組み合わせすべてやってもらうつもりです。順番は決めていませんが」


聞こうと思ったら先に知宵が聞いてくれた。

組み合わせ全部。…となるとそこそこ時間必要になると思うんだけど…。


「それですと、時間足りなくなりませんか?」

「そこは大丈夫です。長めに取っていますので」


また先に聞いてくれた。助かる。

時間にも余裕があるなら問題なし。"なみはな"も見知らぬ相手じゃないから大丈夫。そもそも、"なみはな"の片方智美だし。


「そういえば、"なみはな"の方には色々連絡通ってるんですか?」

「先週しましたよ?」

「じゃあだいたいの話は伝わってるんですね」

「はい」


なら安心。向こうは向こうで自分たちの担当があるから伝えることは伝えておかないとね。智美はともかく、花絵ちゃんにはきちんとしないと。


「あとは…何か話すことでもある?」

「え、んー…」


話っていっても…フリートークも即興劇も青空詩吟も全部当日に決まるものだし、"あおさき"のイベントにこれ以上決められることなんてないわ。


「なさそう?」

「そう、よね…高凪さん、他に何かありますか?」

「あといくつかありますよ。一つは時間管理のことですね」


苦笑いで返された。どうやらまだまだ話があるらしい。

あたしと知宵が完全に忘れているって…なにかしら。そんな気になることあった?


「時間管理?」

「はい。スケジュールに書いてありますけど、集合時間は10時です」


はっや。ちょっと朝早くない?なんでそんなに早いのよ…うわ、ほんとにスケジュールに書いてある。全然見てなかった。騙された。


「なんでこんなに早いんですか?あたしたちのイベント13時からですよね?」

「日結花の言う通りです。クリスマスですよ?もっと寝させてください」

「…あんたそれ理由になってないわよ」

「そうかしら?十分な理由だと思うけれど」

「ただ寝たいだけでしょ」

「ええそうよ?」


悪びれず言い切る知宵から視線を移す。

最近の知宵は遠慮がなさすぎてよろしくない。"あおさき"をストレス発散の場にするのはやめた方がいいと思うの。ここにいないスタッフ含めみんな生温かい目で見てくるし…変に子供扱いされてる気がする。


「お忘れのようですが、前番組のイベントに参加するんですよ?」

「「…あ」」

「…はぁ。本当に忘れていたようですね」


忘れてた。たしかにそんな話を聞いた記憶がある。なんかその場でボールにサイン書いて観客席に投げるサイン大会やるとか言ってたかも。

忘れてたのはあたしが悪いけど、そのやれやれみたいなポーズと表情やめて。すごいムカつく。


「…そんなのもあったわね。知宵覚えてた?」

「いえまったく。サインボールで何かすると聞いたのを今思い出したところよ。あなたは?」

「あたしも同じ。サインボールを客席に投げる話だったわ」

「…その場で量産する、という話だったかしら」

「そそ。それ」

「…またよくわからないイベントね」


…正直あたしもめんどう。突然やることが増えた気分。サインするのはともかく、客席に投げるのがしんどそう。ボール投げなんてもうずっとしてないわ。


「さて、思い出していただけたところで、時間についてです。おそらくお二人が呼ばれるのは11時半前後になるでしょう」

「うん」

「ええ」


知宵と記憶のすり合わせを終えたところで、タイミングよく高凪さんが口を開いた。


「それまでに"あおさき"のトークショーについての話をして、コラボ用の衣装や打ち合わせをする必要があります。13時からの"あおさき"まで大きく時間を取れませんから」


メイクしたり服着替えたり…そんな時間かからないと思うんだけど。"あおさき"の打ち合わせだってどうせ30分もかからないわよ。


「ですので、余裕をもって10時集合としました」


…うん…まあいいわ。どうせなに言っても変わらないし、暇だったら知宵とフリートークの話でもしとけばいいし。先に準備済ませておくに越したことはない


「わかりました。当日は10時ですね」

「はい。お願いします」


知宵も納得したようで、小さく頷いて手帳に書きこむ。

あたしも書いておこう。


「あとはコラボでやることですが、先ほどお二人が話していたサインボールで合っています」

「あ、やっぱり」

「…サインボールはわかるんですが、その趣旨はなんですか?」


たしかに。謎だわ。どこまで遠くに投げられるかの競争…とか?


「ええとですね。サインボールそれぞれにタグがついていて、持っている人の場所がわかるそうです。座席にはそれぞれプレゼントが振り分けられていて、サインボールの位置によってもらえるプレゼントが変わる仕組み…らしいです」

「…そんな高性能なイベントだったなんて」

「プレゼント…」


驚いて言葉に詰まるあたしとは対称に、どこか神妙な顔をして呟く知宵。

予想以上に派手なコーナーだった。遠くに投げるとかそんな単純なコーナーじゃなかったわね。驚き。


「遠くにも飛ばせるよう機械も用意されているみたいですよ」

「…そうですかー」


もうなにも言わない。肩の心配がなくなっただけラッキーと思っておこう。


「高凪さん」


何か考えていたらしい知宵が声をかけた。

相変わらず真剣な顔をして、重要な話でもありそうな様子。


「そのコーナー、私たちもできませんか」

「無理です」

「な、なぜですか!?」

「今さら変更は効きません」

「いつかできませんか?」

「……史藤さん、どうですか?」


別に大事でもなんでもない話だった。

この子のことだから、プレゼントがほしいとかそんな感じのことを考えているんでしょう。お仕事でもらえればそりゃいいけれど…そう簡単にいかないと思う。

高凪さんが史藤さんに聞いてるところが証拠。


「無理じゃないですか?」

「ですよねー」


はいやっぱり。だと思った。そんなお金かかりそうなこともう一回できるわけないのよ。


「…理由を聞いてもいいですか?」

「今回のは会場が特別だからね。タグとの組み合わせが使える、いつもより高い会場なんだよ…」


史藤さんの声が静かにフェードアウトしていった。

納得。会場が特別だったのね。もしやるなら今回だったってこと…んー、ちょっともったいない。でも仕方ないわ。これこそ今さらってものよ。


「…はぁ。お金の問題ならしょうがないですね」


最後にぽつりと呟いて、この話題は終わり。

でもあれよね。今回のコーナーじゃないけど、そんな感じの新しいことしてもいいかもしれないわ。


「それじゃあ、最後に。時間は厳守でお願いします。特に終わりの時間。毎年のことですが、スケジュールが詰まっていますので、その辺りを考慮してコーナーを進めてください」

「わかりました」

「わかりましたー」


そんなこんなで、来週のことは話し終えた。時間も当日の流れも完璧。

ここからは収録。軽く休憩入れて、まだ読んでないメールとか選別しないと。一昨日、昨日に届いたのとか目通してないから。収録で読むかどうかは別として、とりあえず仕分けよ仕分け。

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