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ふっと、視界がぼやけて見えた。彼女の顔の輪郭がわからなくなって、闇使いはもう一度何で、と言う。何故こんなに自分をかばうのかわからなかった。
「あのドラゴンに勝てると思うのかい? 冗談きついよ。あのすばしっこくて強いドラゴン使いに勝てると思うのかい? そんな自信、ないよ。それに、これは君の問題じゃない。僕には家族がいて、負けるってわかってても助けなきゃいけないんだ」
「そんなの、嫌ね、やだね、皆で生きればいいね!」
ジャンヌが右手と肩を掴み、そのまましがみついてくる。
「死んじゃやだね、何があっても、死んじゃやだね、セス」
「……僕はまだ元気だよ」
「セスはもっと、これからずっと、そこで元気にしてると、いいね」
セスはそのしなやかな体に両腕を回し、ぎゅっと力を入れた。人間とほとんど変わらない温かさが悲しみの中にすとんと落ちてきて、何とも言えない気持ちにさせる。こらえ切れずに涙がぽろっとこぼれた。
「……そうなったら、いいけどね」
そう呟けば、彼女はすかさず泣きながら一生懸命言ってきた。
「なったらいい、じゃなくて、絶対そうなるね」
辛かったが、兄弟はアドルフの亡骸をカイザーの元へと運んだ。二人で泣きながら頭領の体とドラゴンの体を、狩りから帰ってきたヴァリアントとオーガスタと共に綺麗にして、それから老使い達のいる所へユーリヒを呼びに行った。
父親の変わり果てた姿を見た幼い息子は、その冷たい体に触れて、父さん、と呼びかけた。見ていた兄弟はまた涙が止まらなくなって、その次には何回も呼びかけていた哀しい子供も泣き出した。
「狩りになど行くんじゃなかった。今日に限って、ここにいればよかった。何てことだ、本当に……何てことだ」
青灰色の戦士はそう言って、既に星が瞬いている空に向かって悲しく吼えた。
トレアンとテレノスはこの町で流行り病が広がった数年前のことを思い出していた。ただ、その時兄は一筋も涙を流さなかったし、弟は現在よりも理性を完全に失うぐらい泣き喚いていた。片方は感情的に、片方は理性的に、二人は成長していた。そして、それを見守ってくれていたのはこの町のドラゴン使い達と、この頭領だった。
あれから時は経ったが、二人はいつまでも数年前のまま、ここに立っているような気がしていた。誰かの死を見ることに関しては、変わっていないようだと思えた。ただ、涙を出すか出さないかの程度の違いが変わっただけで。
「……テレノス」
一人で立っていると倒れてしまいそうだったので、彼らは互いに肩を支え合っていた。兄は弟の右側にいて左手に力を入れながら、震える声でその名を呼ぶ。
「……兄さん?」
「私は……こういう時、どうすればいいのだろう? 前は、他の者が沢山、私達の傍にいた。頼んでもいないのに、何かと気にかけてくれた。それに、テレノス……そなたがいた。だが、ユーリヒは今、一人だ。どの家の者も、老使いと幼い子供を残して、十五の歳以上の者が皆消えてしまった。皆、何処へ行った? 私は、アドルフが以前そうしてくれたように、ユーリヒの面倒を色々と見てやりたい。しかし、今この町で動けるのは私達二人だけだ……消えた皆を探すことが出来るのは、他にはいない」
テレノスは頬に涙が伝うのを感じながら、兄の横顔を見た。それは星の光に照らされて瞳に抱かれた雫までもが美しかったが、全て悲しみで満たされている。
「どうするべきだろう? 西の町へ行くべきなのか?」
「……西の町は、ちゃんと名前がついたよ」
弟は、ユーリヒに視線を戻して言った。見る物を変えるだけで新たに涙が溢れてくるのは何故だろう、と思いながらさらに続ける。
「昔の英雄のエンベリク=ヒューロアから取ったのと、俺達が手伝ってくれたお礼にって、ヒューロア・ラライナって皆呼ぶことになったらしい。で、ここと向こうとを繋ぐ空間に俺達の方から五十日家ごとに交代で、こっちの猛獣が向こうに行かないように番人をつけたんだ」
兄がこちらを向いたのが気配だけでわかった。喋っていた弟は、番人という言葉でローザのことを、次にカレンのことを思い出す。そして、トレアン=レフィエールという一人の男の想いを知りながら裏切ってしまったことを言わなければならない、それを強く感じた。しかし、それを言ったら兄はどんな反応をするだろうか? 自分のことを許してくれなくなるのではないか? 悪い考えばかりが彼の心の中に浮かんでくる。
「……番人、を? 人が増えたのか」
「コボルティアーナ、っていう……狼とか犬に似ている耳と尻尾を持った人達が、ヒューロア=ラライナと交易をする為に来たんだ」
テレノスはぼんやりとした口調で言った。今、彼は隣から兄が消えてしまうことを最も恐れていた。
「コボルティアーナ……そうか……」
兄が自分の肩に頭をもたせかけてくる。この人がいなければ自分は、と思ったことがあるのを彼は恥じた。この人がいなければ、今の自分はなかったのだ。だが、弟は迷っていた。自分のカレンへの想いを言ってしまうべきか、それとも秘めておいた方がいいのか、どちらが兄にとって良いことなのだろう? 彼女に口付けたことだけを隠して言ってしまうこともちらと考えたが、それは卑怯だと心の中で打ち消す。しかし、隠さずに言えば兄は激昂して口を聞いてくれなくなるだろう。
どちらにしろ、自分は兄を既に裏切っているのだ。彼女へのどうしようもない想いと後悔が彼を苦しめ、近しい人が死んだというのにここでそんなことを考えていると気付いた自分も嫌になった。
「――トレアン兄さん」
何かを訊くわけでもなく、彼は兄を呼んだ。自分の肩の上にあった重みが消え、優しく悲しい光の宿っている鳶色の瞳がこちらを見つめてくるのがわかったが、弟は目を合わさなかった。低く深い声が自分の名を呼ぶ。
「テレノス?」
優しい、優しい兄の声。何度も言い争ったけれど、結局いつも自分の所に戻ってきて色々と世話を焼いてくれた、世界でたった一人の家族。もう一度兄さん、と呟くと体がぐっと引き寄せられ、もうわかったから、と言われる。その声はさらに湿り気を帯びていて、耐えられなくて三回目の兄さん、をテレノスは口にしていた。
トレアンの体が再び震え始める。弟は色々な想いを込めて、兄の背中に回した手に力を入れた。きっとレフィエールの力の継承者は自分の思いを知る由もなく、数年前の両親の死とアドルフの為に泣くのだろう。
言わなければ伝わらないことはわかっていた。しかし、自分のせいで流せなかった涙を今流している兄を、自分が妨げることは出来なかった。
シラクサは夜明け前のヒューロア・ラライナの町を走っていた。
ラインラントの一家の前から姿をくらましたのは数日前。自分のこの姿を知っているのは人間達のみ。ドラゴンの姿も人の姿も、どちらも知っているのはカレンとテレノスだけだった。そして今、石畳の町で火術士は身動きが取れなくなった。人間達の言葉を借りればヒュムノドラゴンという種族に分けられることが出来る彼女は、トレアン=レフィエールを探さなければならない、と思っていた。テレノスが、人間の町へ攻めに行っているかどうかはわからなかった。アドルフが殺されるところを陰から目撃し、カイザーの凄まじい最期の声を聞いてすぐに光の門を通ってヒューロア・ラライナの町に来たままだったからだ。
まだ誰も起きていない今のうちに、レファントの町に帰って確かめなければいけないことが沢山あった。そこにいったい何人が、どんな人々が残されているのか? アドルフの息子のユーリヒは? レフィエールの弟は本当に戦争に行っているのだろうか? そして、その兄は帰ってきているのだろうか。
エンベリクの像が目立つ石の泉がある広場を全速力で過ぎた。ドラゴン三頭ほどがゆったりと同時に通れるぐらい大きな光の門が見える。早起きの犬に勢いよく吠えられたが、かまってやる暇はなかった。そんなことをしていたら見つかってしまう。
彼女は空間を抜けた。人の体で息を切らしながらあたりを見回すと、すぐに二つの大きなドラゴンの影が見えたので、思わずあっと声を上げ、叫んだ。
「ヴァリアント、オーガスタ!」
ドラゴンが二頭同時に、こちらへ首を向ける。夜明けの光の中にくすんだ青の色を反射している方が吼えた。
「誰だ!」
シラクサは答える代わりに彼らの元へと走った。どうしても言わなければならないことがあった。レフィエールの兄弟は、間違いなくここにいる。この二頭のドラゴンがここにいることはトレアンもテレノスもレファントの町にいることを表していて、それは今まさに醜い争いの為に消えようとしている大勢の命を救うことが出来る希望の光であった。
二頭のドラゴンの座っている近くの草むらで、その兄弟は眠りから目覚めようとしていた。
「トレアン……テレノス」
「だから貴様は誰だと言っている!」
ヴァリアントが、大きな吼え声に眠りを邪魔されて目をこする兄弟を見つめている少女に向かって再び牙を剥く。そんなことに構っていたくはなかったが、青灰色の戦士は間違いなく三度目に襲ってくると思えたので、ヒュムノドラゴンは自ら光を放ち人の二倍ほどの高さのあるドラゴンに姿を変えた。
「わたしよ、シラクサよ……トレアン、テレノス、起きて。今すぐ起きて」
「あらまあ、シラクサですって? 羨ましいわね、その体」
オーガスタが状況に合わないことをぽろっと言う。それを横目でギロリと睨んでから、テレノスのパートナーは自分の相棒を乱暴に揺り起こした。
「体を起こせ、テレノス。皆を探してくれる良い助っ人だ」
「うう……何だい、助っ人って」
彼の頬にはまだ涙の跡がはっきりと残っている。後から起き上がってきた兄も同じような状態で、焦点の合っていない瞳で二人とも周りをきょろきょろと見回した。シラクサは彼らの為に大きな吼え声を出そうと、すう、と空気を吸い込む。
「あのねえ、皆がいなくなってから一日以上経ったのよ!」
すると、レフィエールの兄弟は一瞬で凄まじい顔つきになって、すぐ後に目をしばたかせて息をついた。一日以上、と兄が呪文のように呟き、そしてやっとラインラントのドラゴンがそこにいることに気がつく。
「シ、シラクサ! そなた、今まで何処にいた?」
「わたしはヒューロア・ラライナの町にいたの! テレノスはここにいたのね、安心した」
トレアンが眉間にしわを寄せた。弟は、何故この黒いドラゴンがこの町で自分を見て安心しているのかわからずに首を傾げ、問う。
「俺がここにいることはあり得ないって言いたいのかい?」
「違う、あり得ないのは他の皆の方だ」
もしかして何も聞かされてないのテレノス、と言って、シラクサはきょとんとする二頭のドラゴンと兄弟の前でこう続けた。
「アドルフとカイザーがあんなことになったのは、皆が人間を信じられなくなったからだ。ワルトブルクのローザ、知ってるよね? その時の番人だったんだけど」
と、兄の表情が凍りついた。弟が彼を振り返り、ヴァリアントとオーガスタは互いに朝日に照らされる金色の視線を交わす。光術士が固い表情のまま口を開いた。
「知っているも何も……ローザは……」
「――兄さんの前の恋人だったんだ」
「そなたは言わんでいい……彼女が、どうした」
ラインラントのドラゴンは束の間その事実に沈黙したが、ためらいを振り切るように首を振って兄の問いかけに答える。
「……ローザが、カレンさんと話してたんだって。その時に、何でか知らないけど、カレンさんが泣いたんだ。それをいじめたとかって向こうのヒュムノメイジの子供達が勘違いしたらしくって……そのうちの二人がローザに戦いを挑んだの。ローザの方が圧倒的に強かったって見てた人は言ってたんだけど」
「ローザはカレンに何を言った? それは聞いていないのか?」
トレアンが話の腰を折って訊いた。シラクサはわからない、と言って大分太くなってきたその首を振る。
「それ、わたしも訊いたんだけど、いじめられたわけじゃない、ってカレンさんは言ってた。で、そのやりあった後にカレンさんは子供達を止めて、何処かに連れて行ったんだって。見た人の話では、その後にローザが……何人かから、石を投げられたんだって」
「な、何だって?」
テレノスが立ち上がった。その鳶色の瞳の中に炎が生まれ、みるみるうちに彼の表情が変わり、あの日かと数度呟いた次にこんなことを叫んだ。
「ローザは子供に怪我させたのかい?」
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