5
ドラゴン使いは口を閉じた。しはらく両方とも黙ったままで、水の音と人々の声が反響するのが聞こえるだけになる。出来ることなら、向こうの方に見える泉の中のエンベリクの像の優しい眼差しで、喋ることによって再び開いた傷を癒して欲しかった。
「……どうしたらいいか、私だってわからない」
と、震えた声が降ってきたのでローザは思わずそらしていた視線をカレンに戻した。
「考えたけど……わからない。ちょっとどころか沢山考えても、どうしたらいいかわからないのよ。結局直接話そうと思ったけど、私には出来なかったわ」
今にも泣き出しそうな表情、弱気な台詞。ワルトブルクのドラゴン使いの心は、先程の認識のおかけでまだ強いままだった。そんな火術士に腹が立って、思わず立ち上がって相手と同じ目線で言う。
「何でそんな弱気なこと言ってるの。出来なかったなら、何回も何回も繰り返しやろうとすればいいじゃないの! あなたを見ていたから、私だって最近そう思うようになってきたのに……トレアンを笑顔にさせる方がトレアンに口付けするより難しいのよ!」
彼女が、はっとした顔で見つめてきた。その瞳から遂に涙がぼろぼろとこぼれ落ち、再び口を開きたくなる衝動にかられて言う。
「羨ましいわ。あなたはそこにいるだけでトレアンを笑顔に出来るんだから」
彼女にはなれないし、彼女の替わりを務めることも出来ないかもしれない。だが、彼女のようになりたかった。そこにいるだけで人を笑顔にさせてしまうような優しく明るい人になりたかった。
「私も、あなたみた――」
ローザが言おうとした時だった。
「先生を、いじめるなっ!」
声と同時にひゅん、と音がして、ドラゴン使いは反射的に体を反らし、横に飛んで短槍を構える。見れば、何人もの子供達がそこに立っていて、皆顔を怒りに歪めている。少年が一人、何かを投げたような体勢でこちらを睨みつけていた。
「……いじめた? 私が?」
彼女は腹の中に何かどす黒いものが流れ込んでくるのを感じた。小さな集団を睨みつけると、その中で今度は少女が口を開き、かん高い声を出した。
「だって、先生、泣いてるもん!」
「そうだ、お前が先生を泣かしたんだ、このドラゴン使い!」
「先生みたいに術が使えないから武器に頼ってる癖に!」
ワルトブルクのドラゴン使いは激しい怒りを感じると共に、混乱してもいた。何故、自分がこのように悪く言われなければならないのだろうか? カレンは、勝手に泣いただけで何もまだ自分を否定するようなことは全く言わなかったし、逆に愚痴のようになってしまった自分の言葉を逃げることなく聴いてくれたのだ。
「……本当にただの子供なのね。術が使える人間が偉くて、武器を使う私が何であなた達よりも下だって言われなきゃいけないわけ? 自分達が特別だとでも思ってるの?」
そう言い放てば、一人が激昂して拳を握り締め、叫んだ。
「うるさい、うるさい! 人間の術士を馬鹿にするな!」
そして詠唱の声とともに、自分の方へ火の玉が飛んできた。
ローザは、それをいとも容易くかわす。同時に短槍をひゅん、と唸らせ、刃の切っ先を水路に突っ込んで水に濡らした。涙を拭おうともせず呆然とする火術士の前で彼女は再び短槍を構え直す。
武人でしかない、と言うのだろうか? 心は今、先程飛んできた火の玉よりも勢いよく熱く燃え盛っていた。ドラゴン使いは口の端だけで嘲笑う。
「……私達を、鍛錬してきた肉体を、馬鹿にするんじゃないわよ」
短槍を強く握り直し、睨みつけてくる子供達を可笑しく思う。
「一人ずついらっしゃいな。それが平等ってもんでしょ、青二才!」
すぐさま、炎の塊が正面に飛んできた。彼女は迷いなく、短槍の切っ先でそれを真っ二つに切り、弾いた。弾く前にそれは水路の水のおかげで消え、穂先を突っ込んでおいて正解だったと瞬時に思う。
「くそ……っ、ずるいぞ!」
少年の歯ぎしりする姿が見えたが、ドラゴン使いは手加減せずにその小さな手を短槍の底で打った。痛い、と声が上がるが、先に手を出してきたのは向こうだ。
「一人と一人なら何をしても構わないのよ!」
「……じゃあ次はあたしがいくわ!」
かん高い声とともに嫌な予感がして、ローザは短槍を石畳の隙間に突き刺して地面を蹴った。反転した視界の中に黒い茨がひしめき、彼女は咄嗟に空中で短槍を石畳の隙間から引き抜いて数回薙ぎ払う。着地した所だけ茨が消え、そこでまた穂先を使って数本の茨を切り、消した。少女の顔に恐怖の色が浮かんだのが見える。
「――甘いのよ!」
隙を見逃すことなく、ワルトブルクのドラゴン使いは再び短槍の底を操り、今度は左肩に打撃を与え、少女を地面に転倒させた。
「――や、やめて!」
と、その叫び声が意識を向けていたのとは別の方向から聞こえたので、彼女は我に返って視線を動かす。子供達は最初に向かってきた少年と少女をかばうように立ち、それが目に入ってきた瞬間にはカレンに左腕と肩を押さえられていた。
「……どっちも、やめて。私はいじめられていたわけじゃない、大切なことを教えて貰っていただけなの」
「でも、先生!」
小さな集団の中で一人が叫んだ。納得がいかないと言わんばかりの勢いで身を乗り出して訴える様子は何処か今の自分達と重なるものを思わせる。
「このドラゴン使い、自分は術が当たってないのに手とか肩とか攻撃してきたんだ。槍の先だったら、絶対に血が出て――」
「先にこの人を攻撃したのはあなた達でしょう!」
その言葉に、子供達は皆が喉に何か詰まったような顔をした。ローザは自分の腕をまだ掴んだまま離さない彼女に、何か別の感情を覚える。それは感動に似ていたし、また勝利の喜びにも敗北の後の悔しさにも通じていて、人間をもっと身近に感じて次の言葉を待った。いつの間にか人がぞろぞろと集まってきている。
「……槍の底だったのは、この人が手加減をしてくれたからよ。あなた達に青二才なんて言葉はふさわしくないわ、術を使う資格もないぐらいひどいことをしたんだから」
涙の跡はまだ新しくその頬に残っている。しかし、その青い瞳は力強く、また怒りに満ちていて、それはまるで青い炎のようだった。
トレアンのことさえなかったら。ドラゴン使いは思った。トレアンさえいなかったら、私は絶対にこの人ととても仲良くなっていた。そんな思いが心の中を駆け巡った。もし自分が男だったなら、間違いなく彼女を愛していただろう。
「術を使う以前の心構えがなってないわ、私ももう少し厳しくする必要があるわね」
それから、カレンは少しだけ緩んだ表情のローザに向かって言った。
「ありがとう、私ももっと頑張ってみるわ。だけど……」
小さな集団をちらと見やって、このことは集会で報告させてもらうわと言い放ってから、彼女はワルトブルクのドラゴン使いの腕を解放して囁く。
「負けないから。それだけ」
若い先生は十数人の子供達を無理矢理引き連れ、人々の中にあっという間に紛れ込んで見えなくなった。短槍を持ったまま彼女はそれを見送って、次に自分がかなりの数の人々に見られていることにはっと気がつく。
何人もの人間と、視線が合った。いたたまれなくなってそらしても、また別の人間と目が合った。このまま帰ってしまいたい気分になったので、ドラゴン使いはくるりと人々に背を向けて光の門の方を向く。
ひゅん、という風を切る音が、しかし再び聞こえたので、咄嗟に短槍を持つ手を上げて飛んできたものを弾いた。石畳の上に落ちたのは、同じ色をした石。
「すげえ、本当に避けた」
面白がっている声がして、思わずまた町の方を向く。人々の中に紛れていた仲間のドラゴン使い数人が、石を投げたその若い男の方を向き、駆け寄って取り押さえようとした。
「じゃあ、これはどうだ?」
「こっちからも行くぞっ」
しかし、方々で同じような調子の声が上がって、ローザは先程と同じように石畳の隙間に槍を突き立て、宙に上がった。空と地面が逆になった世界の中で黒髪の人々が何かを止めようとしていて、しかしそれは上手くいっていない。すぐに体をひねって着地し、彼女は一度に三つの方向を見ながら最初の男に突進して、短槍の底であっという間にその体を石畳の上に叩きつけ、仕上げに組み伏せて上に乗ってやった。
「すごいわね、本当に避けられないなんて」
「ローザ!」
叫んだのは、森の中の湖でしか捕れない魚を売りに来ていたリンドブルムのクラウスだった。それを無視して、ワルトブルクのドラゴン使いは尚も言い続ける。
「さっきの子供以下の人間だわ。私達のことを何だと思ってるの? 体が大きくなる頃から、朝は早くから昼が過ぎるまで、森の中の町を獣から守る為にこうやって武器を振り回しているのよ。アドルフなんて、あなた達三人と互角に戦えるぐらいなんだから」
「ローザ、その辺にしとけ」
リンドブルムのドラゴン使いがすぐ近くまで来て、彼女の肩と腕を掴んで若い男から引きはがした。やられた方の顔は引きつっていて、口をぱくぱくさせている。
「嫌だ……こんな奴、切り裂いて向こうの泉の中にでも捨ててきてやるわ!」
「落ち着けローザ! おいハインツ、こいつから短槍を取り上げてくれ!」
「クラウス、腕を押さえておれ!」
ラインラントのドラゴン使いもそこにいて、すぐさま駆け寄ってきて固く握っていた筈の短槍をいとも容易くローザの手から引っこ抜いた。悔しさのあまり、ワルトブルクのドラゴン使いは涙を抑えられなかった。さらに怒りが沸き上がってきて、彼女は叫ぶ。
「私達を侮辱したわ! こんな奴、殺してやる、殺してやる!」
「今日はもう帰らせろ、後はわしが取りつくろっておくから――」
「……わかった、ハインツ。恩に着るぜ」
彼女はもがいた。もがいたが、クラウスの手を振りほどくことは出来なかった。肩に脱臼癖のある男の癖に、力だけはあった。それが悔しくて、何度も何度も叫んだ。穏やかな性格のハインツではなかったが、壮年のドラゴン使いがこれからするであろうこともわかっていた。だから、声が枯れてもいいと思いながら叫んだ。
「殺してやる! 人間なんて、命乞いしなさい、人間なんて、苦しめてやる! いつか絶対に、殺してやる!」
「在るべき場所とは、一体何処なのだろうな、オーガスタ」
旅立ってから、三十と五日を数えていた。
彼らは未だラライの無人の地にいた。狩りをして、宿屋で調理して、食べる。そこらの草も摘んで食べてみた。意外と口に合って、それからは肉と一緒に近くの小さな泉の水を使って煮込んだりした。
「さあ。前はここがその“在るべき場所”だったのだけれどね」
オーガスタは人の姿を気に入っていて、ずっとその格好をしている。トレアンが術を解こうとすると抗議するので、仕方なくそのままなのだ。
あの、ラライの民達の声を聞いてからも、この町の探索を続けていた。宿屋の地下からは変色している装飾のついた古い木箱から、六冊の薄い書物が見つかった。分断の書、統合の書などと書かれている表紙から察するに、アミリアより前の時代のものであるらしい。書物自体も相当古ぼけていて、うっかりすると破けてしまいそうなほど劣化していた。何となく必要なさそうなことがわかって、また地下に戻しておいたけれど。
「……見るものもなくなったようだし、帰る頃か……」
そう呟いて倒れた柱の上に座れば、銀髪の少女が背後から体に腕を回してきた。
「もう帰るの? その“場所”ってのを探すべきでしょう」
「いや、どうも他に思い当たる所がなくてな……」
彼は振り返ってその長い髪を撫で、ここぞとばかりに抱きついてくる自分のパートナーを足から抱え上げて、太ももの上に座らせる。そのまま後ろから腰に手を回してやると、オーガスタはくすくす笑いながら胸にもたれてきた。
「やっぱり、この姿はいいわね。貴方が大きくなるから、トレアン」
「……帰りたくない訳はこれなのか」
「ええ、ずっとこうしていてもいいかなって思うわね、愛しい人」
そう言って笑うと、突然腰に回されていた手が引っ込められ、代わりに抱き上げられて地面に下ろされた。何の心変わりかと思って彼を見上げれば、すっくと立ち上がって遠のいた鳶色の瞳が全く笑っていないことに気付く。
「……帰ろう、オーガスタ」
その言葉の後にトレアンの右手から光が放たれ、しまったと思う暇もあまりないままに少女は元の大きなドラゴンの姿に戻っていた。冷たい瞳が、射るように見上げてくる。
「あら、やっぱり気に入らなかったのね、そんなに嫌いかしら?」
そう言ってやると、ドラゴン使いはそっけなくこう言い放った。
「そなたは人ではない」
「……ちょっと悪ふざけが過ぎたかしら。でも残念だわ」
彼が呆れたように溜め息をついて、ドラゴンはふんふんと笑うように鼻を鳴らす。
「……冗談ならそう聞こえるようにしてくれ、全く。だから帰るぞ」
そう言って、レフィエールの兄が一歩足を前に踏み出し、広場の中心へ向かおうとした時だった。
「早く、急ぎなさい」
突然の声に、彼らは振り返った。しかし、誰かがいると思ったそこには、誰もいない。不思議に思ってあたりを見回しても、何の気配もなかった。
「大変です。在るべき場所へ、戻りなさい。風が――」
胸騒ぎがした。声の言う通り風が吹いて、トレアンは思わずオーガスタと視線を合わせる。何かが起こっている。そんな気がして仕方なかった。
彼は急ぐことにした。転移の術は今まで使った中でも最高の出来だった。
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