4

と、突然彼女は向かって来るエルフを視界の中心に据えたまま、人間達の言葉を口ずさみ始めた。







  ――炎と氷の司りし かの森

    そこに訪れるは 予言の使者

    悠久の時を生きしその種族は

    西の世界を夢見させ

    人々を惑わす悪となる


    忌むべきは何ぞ

    我らを惑わし旅立たせ

    今や洞のようになりし処に

    仕立て上げし者なり

    長き耳持つ能力者なり――







「……犬人族の間ではそのように言われているのですか?」


 セナイ=フィルネアは少し悲しそうな表情をして、二人の前で立ち止まった。その左手には杖が携えられており、先端の欠けた輪の中で何か実体のない光が渦巻いている。


「わたーくし達は、コボルティアーナでーす。あなた、それでも長く生きる、人でーすか?」


 暗誦していた歌を終えてエルフの言葉を聞いたジャンヌは、激しい口調でそう言った。セナイの表情が一瞬凍ったが、彼はすぐに視線を泳がせてごくりと喉を鳴らす。たった今礼儀知らずだと侮辱されたことはわかっていた。しかし、彼は謝罪の言葉を紡いだ。


「……申し訳ありません、他意はなかったのですが……私の名はセナイ=フィルネアと申します」


「コボルティアーナのボワナ族の、わたーくしはジャンヌでーす」


 漂い始めたどことなく険悪な雰囲気に、セスはまた一歩後ずさった。過去に一体何があったかは知らないが、彼らの仲は良くない。傍から見ていて、それは明らかだった。そして、どちらも相手に対して失礼だと思えた。


 と、コボルティアーナが口を開く。


「……何で、人間の町にエルフ、いる?」


「……南に住んでいた者と共にここまでやって来て、彼らを手伝って暮らしているからですよ」


 エルフは柔らかい表情を保ったまま答えた。流石に千二百年も生きていれば、表情を盾のように自由に造り出すことが出来るようになるのかと、闇術士は思う。セナイの心中は不満で一杯の筈だ。


「……そうなのでーすか。では、あなた、この町で一番偉ーい人では、ないでーすね?」


「偉い人……何かあるのですね? この町の人々に伝えるべきことが」


 ジャンヌの問いかけの意味するものを即座に汲み取り、エルフは言う。言いたいことが言いやすくなったのに少し気を良くしたのか、彼女の表情が少し緩んだ。


「伝えなければいけなーいこと、ありまーす。この町で一番偉ーい人、知ってますか?」


 言われた方は顎に手を当てて少し考える。この町に偉い人などいない。あるのは、互いを平等に結んでいる絆だけだ。今はそれでいいかもしれないが、しかしそれは後のことを考えると大きな問題でもあった。だが、それは彼のような余所者が決定すべきことではない。かといって、今や増えに増えたこの町の人々を一ヶ所に集めて決定を下そうとしても、何らかの争いが起こることは明らかだった。


「この町は皆が皆偉い人ですからねえ……」


 そして何となくセスの方を見た。何か思いつきませんか、と視線で訴えられかけた闇術士は目を見開いてエルフを見返すが、言葉の代わりに相変わらず意味ありげな視線が返ってくるだけだ。


「えっと……うーん、何となく、なんだけど」


 ジャンヌがこちらを向く。ああ逃げられないな、と一瞬で悟り、咄嗟に思いついたことを口走った。


「……強いて言うなら、さっき君に話した例のエンベリク=ヒューロアの子孫のミストラルさんちのギルバートさんなら……村だった頃はヒューロアの村って、ここは呼ばれていたりもしたみたいだけどね、噂だけど――」


「会えまーすか、今すぐ!」


 彼女の金色の瞳がきらきら輝き、尻尾は左右に勢いよく揺れていた。セナイが口の端を少し上げたのが見えて、そこで彼はエルフがまんまと逃げたのを悟ってしどろもどろになる。


「いや、あの……ギルバートさんは今石を切り出しに行っているんだ、風使いだから……だから……その、というか、エンベリクの子孫が沢山いてその中の一人ってだけで、何もこの町で一番偉いかって言われても、人間的にはいい人で皆も僕も好きだけどね、だからって――」


「わたーくし、ギルバートさん、その人帰ってくるまで、待ちまーす。皆に好かれーているのなーら、問題はあーりませーん」


「――だからってそんな統率するような、人ってわけじゃ、ないんだ、けど……」


 セスの声は最後には尻すぼみになって儚く消え、エルフのくすくす笑いが彼の気持ちを残念にさせた。雰囲気が少しやわらいだところに、好奇心を抑えられなくなった人々が数人寄ってきてジャンヌに話しかけたりしている。コボルティアーナっていうんだって? さっきの話を聞いていたんだけどさ、随分遠くから来たそうじゃないか。


 これで彼女もしばらくは暇潰しが出来るだろう。ギルバートが代表だと思い込んでいるが大丈夫だろうかと思いながら、闇術士は軽く溜め息をついて辺りを見回した。


 向こうの方からカレンとテレノスが喋りながらやって来るのが見える。彼らは間もなくこちらに気付くだろう。セナイは人々を見守るような眼差しを向けている。







「トレアン、トレアン」


 柔らかな声が自分を呼び、彼はそっちを振り向いた。見上げれば、短い黒の髪に端正な顔立ちの背の高い男が微笑んでいる。


「父さん」


 嬉しくなって笑いながら、その腰に向かって手を伸ばした。すぐに大きくて温かな腕が伸びてきて、あっという間に地面から高く離される。それが楽しくて思わず歓声を上げると、今度は地面すれすれまで落とされた。


 腹の大きな黒髪の女が、その傍に立って同じように微笑んでいた。遊んでもらった大きな腕から解放されると、次はその人の元へ駆け寄る。肩に触れる女の手も温かくて、大きな腹に耳を当てると何かの存在を感じることが出来た。


「もうすぐなの?」


「ええ、きっと男の子よ。ほら、今蹴ったわ!」


 女は幸せそうに笑って、しっかり手を当ててごらんなさいと言った。言われる通りにしてみると、なるほど時折とん、と衝撃が伝わってきて、不安でくすぐったかった。


「母さんは痛くないの? 蹴られてるんだよね」


「あなたの時も痛くなんてなかったわよ、トレアン」


 少し控えめに笑ってみた。今までとは何かが違う、そして何かが変わってしまう不安が心の何処かにあった。ただ、それが一体何なのか、自分はわかっていなかったのだ、この時は。それと同時に、何かに期待するようなわくわくした気持ちもそこにはあった。


「トレアン、トレアン」


 また、呼ばれた。


 振り返ると、伸びてきた髪の向こうには、また先程の短く黒い髪に端正な顔立ちの、自分が父と呼んだ人が椅子に座っていた。少し老けただろうか、今度は穏やかな笑みがその鳶色の瞳の奥にちらついている。唇は弓を下に向けた時のように結ばれていた。


「髪が伸びたんじゃないのか?」


 近づいていっても、父は抱き上げてはくれなかった。


「……そのうち結ぶから、大丈夫だよ」


 自分の声が少しすねたようになったのがわかった。優しく諭すような声が体を包むようにこちらへ向かってくる。


「そういう問題じゃあ、ないだろう?」


 途端、ひゅんと風の音がして、視界を少し遮っていた黒髪がはらりと房になって下に落ちた。首元がすうっと涼しくなったので慌ててそこに手をやると、伸びていた筈の髪がない。くすくす笑う声がして、思わず目の前の男を見つめる。


「ほうら、これですっきりしただろう?」


 まだ小さな弟が、何があったのだろう、泣き出してその声が響いていた。母の子守唄が聞こえ、活発に歩き回って何でも手に取る幼子をあやしている。


 しかし、泣き声はおさまらなかった。大きな声だったそれが次第にすすり泣きに変わり、そして再び自分を呼ぶ懐かしい声がする。子守唄はいつの間にか消えていた。


「トレアン、トレアン」


 それは掠れて、弱々しかった。


 振り返りたくなかった。しかし、そこで振り返らなければ、これが終わらないことを自分の体が知っていた。だから、嫌だったにも拘らず彼は唇を噛み、その人を振り向いた。


 端正な顔立ちはやせこけ、肌には生気が宿っていない。しかし、その鳶色の瞳は生きていた。哀しみと強い想いがその中で揺らめいていた。


「……父さん」


 自分の声は震えていた。床に寝る人を見下ろしているだけしか出来ないのが情けなかった。


「お前のせいじゃない……トレアン、そんな顔を、しなくても……いいんだ」


「でも――」


「いいかい……聴きなさい、トレアン」


 父の右手が動き、思わずそれを両手で握り締める。大声を上げて泣きたかった。


「……大切な人を、大切に、しなさい。お前が出会う人は、全て……お前と同じ生きて……いる人だから、絶対に、優しく……どんな髪の色でも、目でも、肌でも、外見……でも、大切……」


 だが、泣くという役目は既に弟に持っていかれていた。ただ歯を食いしばり、右手を握る両手に力を込め、絶望の中で何かにひたすらすがってその言葉を心に刻みつけることが、今の自分に出来ることだった。


 この人は、ずっと大きな希望だった。


「忘れないで……でも、辛くなったら、我慢しなくても……いいから」


「父さん……約束するから、僕は……大丈夫だから――」


 父が苦しみの中で、ふっと微笑んだ。


「トレアン……テレノスも、愛しているよ、我が息子……それでも、辛いなら……北へ――」


 互いの瞳の中の光が一つになったかと思えた。


 一瞬だけそれは強く明るく輝き、そしてふっと消え、父は目を閉じた。







 北へ。


 それだけが、トレアンの頭の中を支配していた。


 もしかすると、テレノスもあれを覚えていたから、北へ海を見に行ったのだろうか?


 あの日声を上げて泣くことが出来なかった自分がすぐそこにいた。必死に顔を歪めて唇を噛んで、両の手を強く握り締めている憐れな少年。今の自分は辛くない、幸せだと抱きしめてやりたかった。


 しかし、それは覚めてしまった。あの少年の笑顔を見ることは出来ない。安心した表情を確認することも出来ない。その代わりに、成熟した体で自分の熱を、彼は起き上がって感じていた。


 すう、とテレノスの寝息が聞こえる。


 あどけないその表情に愛しさを感じ、兄はその頬に軽く触れた。その彫りの深さは、今はもういない母に何処となく似てきている。弟がまだ光の届かぬ水の中にいた時、彼はその存在を恐れてもいた。しかし、弟は決して恐ろしい存在であることはなく、むしろ限りなく優しさを受け継いだ愛すべき人であった。


 北へ。もう一度、父の言葉が彼の頭の中にこだまする。


 しかし、自分は辛くない筈だ、トレアンはそう思った。どうしてあのようなことを夢に見たのだろうか? 三十日も弟と離れていたからだろうか。今まで当たり前だったものが急に変わって、再び戻ったからだろうか。失って、戻ってきたからだろうか。


 そうか、と彼は一人呟いた。


「失う辛さが恐いのか……」


 そして、その後に何故か微笑んだ。苦笑とも言えた。


 トレアン=レフィエールは立ち上がった。上着を身につけ、腰を縛り直す。テレノスを起こさぬようにそうっと外に出て、星の光を浴びた。


 心配はさせない方がいいだろう。白くてやわらかい石を見つけて拾い、戸の内側にそれをこすりつけて文字を書いた。カツカツと音が響いて弟を起こしてしまうのではないかとひやひやしたが、心配は無用だった。書き終えると、そうっと戸を閉めて彼はオーガスタの元へと行こうと歩き始めた。兄は急ぐ性質だった。


 自分がいなくてもちゃんと生活出来るだろうか。このドラゴン使いの町の人々は、医者が突然消えたらどうするだろうか。そう思いもしたが、すぐに彼は打ち消した。大丈夫だ、弟なら自分が作った薬の扱い方は知っているし、上手くやってくれるだろう。







  テレノス=レフィエールへ

  三十日ほど北へオーガスタと行くから、

  その間の留守をよろしく頼む。

  道のりはヴァリアントに訊くから

  心配する必要は全くない。

  通ってくる患者には薬を渡しておくよう、

  そして食事は保存してある鹿でも食え。

               兄より







 夢を見て、レフィエールの弟は起きた。兄と共に、他のドラゴン使い達やカレンやタチアナ、セスや他の出会った人々と共に歩いていた。しかし、自分だけ足に絡みつく何かに捕われて、動けなくなった。皆、自分を振り返りながら進んで行ってしまった。


 それは悪夢だった。居心地の悪さと窓からの日の光が同時に襲ってきた。隣で眠っていた兄の姿はない。既に外へ出て薬草でも採っているのだろうかと思いながら、先程の悪夢を振り払うかのようにテレノスは勢い良く起き上がって、戸口へ向かった。


「……何、これ」

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