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家に入ると、何だかその空間が異様に広く思えた。そこで、ああやっぱり帰って来るのではなかったとカレンは思った。
自分より三歳ほども年下の妹のことを想う。どうしてあの時止めてやれなかったのかと自分を悔やんだ。どうして両親も友人達もあの子を止めてやらなかったのかと皆を恨めしく思った。しかし、本当は自分だってわかっている。タチアナは自分の意思で九つも年上の男の元へ行ったのであって、それがなければもっと厄介な争い事が起こっていたと言っても間違いはなかっただろう。わかっていたから、トレアンにも腹が立った。彼はイスティルを脅して南の村のことを吐かせたのだから。
自分の身勝手な考えに溜め息をつきながら、彼女は腰につけていた短剣二本を外して、壁に取り付けた木に掛けた。今から思うと、昨日の水浴びの時のレフィエールの兄を想う気持ちは一体何だったのだろう。
「トレアン……」
口に出して、呟いてみる。今まで聞いたことのない珍しい名前なだけに、それは口の中で特異な響き方をした。そうだ、あの男を脅した程なのだから、今回も妹を連れ戻すことが出来た筈だったのに。
窓の外を見た。昼も大分過ぎて、ドラゴン使いの町と、もう町になろうとしているこの村を繋いでいる空間が、日の光をうけてきらきらと輝いている。もう戻らないと言っていた南の村の人々は、ギルバートの風を足にかけてもらい、石切り場とこことを往復していた。絶え間ない話し声と子供のはしゃぐ声が聞こえ、ヴァリアントが水を撒き散らすのが見える。
タチアナは、同じ町になる所でもずっと端の方に行ってしまった。もう会えないという訳ではなかったのに、何故か腑に落ちない。術士でもない男から妹を引き離し、連れ戻すことだって出来る距離なのに、それをしても無駄なのかもしれないと心の何処かでわかっていた。
あの子のいない家なんて、私の家じゃない。カレンはぽつりと呟いてみて、再び深い溜め息をついた。自分がどうにかなってしまうくらい、水の好きな妹が心配で心配で仕方なかった。あの男は、信用に足る人間だろうか? ドラゴン使いよりも信じられない、と今なら言えてしまうだろう。
私はちゃんと信じているのだろうか。レフィエールの兄弟を、ドラゴン使いの友人達を。不意にそう思った時、閉めた戸を控えめに叩く音が聞こえる。
「……誰?」
そう訊くと、戸の向こうから落ち着いた若々しい声がした。
「私です、セナイ=フィルネアです。少々よろしいでしょうか?」
「ええ、開いてるわ」
戸が控えめに開いて、砂色の頭と長めの耳がその隙間からひょいと覗く。話したい気分ではなかったが、この丁寧な対応の客を追い返すのも気が乗らなかったので、彼女は窓の外を見たままエルフを迎えた。
「……もしかして、お邪魔しましたか?」
「いえ、そんなことはないわ。今お茶を淹れるから、そこの椅子にでも座ってて」
カレンはカップを二つ出して、部屋の隅の下に置いてあるポットを手に取る。ふと、トレアンと自分とどちらが茶を淹れるのが上手いかしら、などと思ってしまった。物音を一切立てずに座った客に向かって、一杯を差し出す。
「……いい香りですね、ありがとうございます」
「多分トレアンほどじゃないけど」
美味しそうに茶を一口飲んでから、セナイが意外そうに言った。
「そんなに美味しいのですか、彼のは。貴女のでこんなに落ち着くのに」
「トレアンは何でも出来るのよ」
自分で言って、何となく可笑しくなって少し笑う。彼女も茶を一口すすり、そこでエルフが柔和な顔つきで自分を観察しているのに気付いた。
「そう言えば、今日は何の為にここへ?」
すると、セナイはまるで少年のような屈託のない微笑みを見せ、言う。
「ああ、ただ……どうされているかと気になったので」
全く個人的な世間話ですよなどと笑い、彼は窓の外を見る。ウォーテルドラゴンの作る噴水は虹を作っていて、とても楽しそうだ。
「そう言えば、まだお名前をうかがっていませんでしたね」
それを聞いて、彼女は確かにその通りだったと気付いて、言った。
「カレン=ミストラル、火術士よ」
「ああ……炎ですか」
会話が途切れて、外の人々の声が一層よく聞こえるようになった。タチアナは、今晩ちゃんと屋根の下で眠ることが出来るのだろうか? ここらの平原は、野犬や狼がうろつくこともある。石の壁に囲まれていない限り、決して安全とは言えなかった。そんな時に、術士はその術で自分を守るのだけれどと思って、今のように術を何度も使うことが、以前自分が妹に言った“いざという時”なのだと気付いた。
「――その昔、私の妻は出会った時に炎と水を使役していました」
と、セナイが呟いたので、カレンはその横顔を見る。トレアンとは違う種類の美しさがそこには宿っていた。
「火も水も?」
「ええ。光は炎に勝てず、炎は光に屈します。それと同じように、水は闇を伴い、闇は水よりも深い。アズベルダの分断は正しかったといえますね」
「双子の話のこと?」
「そうです、レフィエールとクロウの話です。貴女は私の本を読んだようですね、どうやら」 彼女は控えめに笑ってみせた。
「面白かったわ、考えさせられた。人ひとりが国や町を動かして守ることの大変さが、よくわかったわ」
エルフは相変わらず笑顔でそうですか、と言って、また一口茶をすする。
「私にとっても貴女にとっても、思わぬことになってしまいましたね」
彼の言葉が石の屋根に吸い込まれて消えた。二人は同時に窓の外の人々を見る。ドラゴン使いも人間の中に混じっていて、石を積む作業なんかを手伝っていたりした。
沈黙で居心地が悪くなってきたので、カレンは口を開く。
「私の妹がね」
セナイが頬に落ちてくる髪を掻き上げながら、こちらを向く。
「トレアン達の……ドラゴン使いの町に侵入してきた盗賊を、氷の術でほとんど倒したことがあったの。大切な仲間を失った人が、仇を討つ為にここへ攻めてきたわ。妹は……タチアナは、その人に……イスティルに会って、言ったのよ。復讐したかったら村の人を巻き込まないで、あたしに全部ぶつけて、って言ったの……死なない限り、その人が人を傷付けないのなら何でもやる、ってそう言ったのよ」
エルフの沈黙が、彼女の次の言葉を待っていた。トレアンに向かって言った時とは違って、今は不思議と落ち着いていることに自分でも驚いていた。この人には、茶のように人を落ち着かせる何かがある。純エルフだからなのだろうか、長年生きてきた者の放つ独特のものが、薬のように心を鎮めてくれているようだ。顔に似合わない老いが、その深い緑の瞳の中に宿っている。
「きっと貴女の妹は大丈夫ですよ」
と、不意に彼がそんなことを言った。カレンはそれに顔を上げ、どうして、とかすれた声で問うた。
「どうしてわかるの?」
「相手は兵士、それに比べて貴女の妹は聞いている限りではとても優秀な水魔法使いです。力で劣ることはまずありませんし、何より……彼女自身がそのように望まれたのでしょう? 私が目の前にしている貴女の中には、強い一本の芯が通っているように感じられます。そして、いつも何処かに余裕を持っていて、自信に満ち溢れている。姉妹や兄弟とは、家族とは、よく似るものです」
少しだけ、あの兄弟と似ているような気がした。今のレフィエール家に血を流しているだろう本人であるからその通りなのかもしれないが、人を安心させる優しくて力強い言葉の中には、世代を越えて宿る何かがあった。
「……そうかもしれないわね」
彼女はふっと笑って、ありがとう、と言った。
「いえ、お礼を言われるようなことはしていませんよ」
セナイが優雅に首を振る。何か言うのを止めるように上げられた手が穏やかに揺れて、顔は困ったような笑いを浮かべていた。カレンはそんなことを気にせずに、目の前の人に向かって言う。
「あなたの言葉のおかげで、何だか大丈夫だって思えてきちゃったわ。そうよね……心配するぐらいなら、いっそ会いに行っちゃえばいいしね」
言って笑うと、エルフも愉快そうに笑みを返してきた。
「それはいい考えですね……どちらにしろ、お役に立てたようで光栄ですよ、カレン」
「――もう、人間にはついて行けん」
アドルフはトレアンを少々恨んでいた。
「ハインツに賛成だ、昨日まで我らと共に戦っていた相手をあっという間に受け入れてしまうなど、論外だ。我らが西の村の者を手助けした意味がないではないか」
この大きな問題の解決を自分に一任するなんて。頭領は家の長達がぶちまける不満を黙って聴きながら、そう思う。人間達に向かって仲間が不満を持つのは当たり前だ、昨日まで武器を交えていた者と今日から仲良く出来るなどという調子の良いことなど信じられない。それこそ、彼らが結託して次はレファントの森を手に入れようと画策しているかもしれないのだ。
「だけどさ、ここで和解しておいた方がいいような気がする、俺は」
「若造が、何を言う」
と、兄の代わりに集会に来ていたテレノスがそんなことを言ったので、ハインツと言われた壮年のドラゴン使いが彼をギロリと睨みながら強い口調で言った。
「お前はあのような調子の良い者共に同調する気か――」
「落ち着いてくれ、ハインツ=ラインラント。よく考えてみてくれよ、たったそれだけの理由で人間と仲良くしたくないのかい? カレンとかとは仲良かったくせに?」
レフィエールの弟も負けじと言い返し、相手をしっかりと見返す。若造だからって俺を侮るなよ、と彼はまた吐き捨てた。
「都合が悪くなったら相手のいいところさえ見ようとしないんだから。気高き戦士が聞いて呆れるさ」
「き、貴様――」
数人がいきり立つハインツをただちに押さえ、アドルフは目だけで立ち上がった新米騎乗兵を睨んだ。
「口を慎め、テレノス=レフィエール!」
「あのような身勝手な者達をそう簡単に許せるものか! その態度ひとつで人は信用を失って孤立していくのだ、誠実さの足りぬ輩は信頼がおけん! 真に戦うべきはあのような輩だろう!」
ラインラント家のドラゴン使いは怒鳴り、そこにいる半数以上の仲間もまた、厳しい表情で彼の意見に同意を示していた。だが、テレノスは全く臆することも動揺することもなく再び口を開く。
「本当に戦いたいのか? 今、俺達も人間も望んでいるのは、平和そのものだ。ここで戦ったら多くの人が悲しむんだ、自分の家族がいなくなってもいいのかい? やっと西の村の人とも仲良くなってきたところだったのに?」
数人が気まずそうに顔を見合わせた。
「我らドラゴン使いとしての誇りを何処へ捨ててきた、若造! このまま人間共に侮られてもいいのか、ドラゴンがいなければ何も出来ぬと――」
「ハインツ、テレノス! もういい、いい加減にして頂きたい」
アドルフが遂に怒鳴り、二人は顔を歪めながら怒りに任せてその場に荒々しく座った。頭領は自身の短槍の底でドンと床を打ち、そこに集まった五十人以上の代表達をずいと見渡す。
「――人間を許せる者はどれほどいる?」
大声でそう問えば、テレノスを筆頭に十人余りが起立し、頭領の鋭い鳶色の瞳を見つめた。座る者の中から野次が飛ぶ。
「甘い! 人間を過大評価しすぎだ!」
「本当に彼らを信じ切ることが出来るか?」
「――じゃあ俺達は!」
レフィエールの弟は負けないくらいの大声で怒鳴り、一瞬にして静まった他のドラゴン使いをぎらついた瞳で見つめた。
「俺達は人間から信用されているって、必ず言えるのかい? そんなに信用されたくないのかい、皆は!」
彼は、カレンやタチアナ、セスのことを、西の村の温かい人々のことを思い出していた。やせた土地の中に住んで、何とか今まで生きてきた健気な人々。豊かな森の中に住む自分達ドラゴン使い一族とは違って、厳しい中でどうにか生活しているのだ。
その身に宿る力を術として使いながら。
「豊かなレファントに住んできた俺達と違って、人間はずっとやせた土地で苦労してきたんだ。そんな彼らとこうやって知り合えたのは幸運だったと俺は思うのさ。ここだけじゃない、もっと広い所が知りたいとは思わないのかい?」
全員が沈黙した。テレノス以外の立っている者も、眉間にしわを寄せて口元を引き締めた厳しい表情となる。
「……一理ある」
と、そう言ったアドルフを皆が一斉に見た。頭領は短槍を床に置き、その柄の美しい装飾の紋様を指でなぞりながら言う。
「我々は……食の苦労を知らない。身の危険も知らない。腹が減れば木の実を取り、猛獣が現れれば自ら生まれ持った肉体とドラゴン達とでそれを倒してきた。しかし、人間はどうだ? 最初は己もあまり快くは思っていなかったが、彼らは明日の命を案じ、その為に裏切られ、今まさに他からの信頼を必要としているかもしれない者達だ。今ここで我々が受け入れなければ、それこそ彼らは本気でこちらを潰しにかかってくるだろう。確かに、腹立たしい。だが、ここで我慢しなければ我々の平和も人間の平和も露と消えることになる」
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