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肩から離れかけた手が、すっと背中に回るのがわかった。優しい声が耳元で何かを囁いたが、何を言ったのかよくわからない。ただ、そのままずっと温もりの中に包まれていたい、とカレンは思って、自分の腕を彼の首筋に巻き付けた。自分の髪を勇気付けるようにすいてくれる、テレノスよりも少し小さなその手がとても愛しかった。
鼓動の音に、彼女は目を閉じる。思っていたよりもがっしりとした肩幅だった。柔らかな声が奏でる旋律は、きっと子守唄なのだろう。
セスの開けたドラゴン使いの町と人間の村を繋ぐ歪んだ空間はそのまま、まだそこにある。誰もが自由に行き来し、テレノスも兄が作って置いておいた薬を両手にせわしなく動き回っていた。あたりはすっかり暗くなったが、ヒュムノメイジの誰かが灯した明かりが地面を照らしていて、喋る声は絶え間なく聞こえていた。何処かで、子供の泣く声がする。
自分の家に運んだ怪我人達は大丈夫だろうか? そう思い立って、彼は急ぎ足でそちらの方向へ足を向ける。同時に朝から何も食べていないせいで腹が鳴り、自分の兄は何か作ってくれているだろうかと期待をした。
果たして、家に入ると食べ物のいい匂いが鼻をついた。口の中を潤しながら怪我人の様子が安定しているのを確認して、両手に持っていた薬の壺をコトリと棚の上に置く。兄の、医者としての専用の部屋で、棚の向かい側にもう一つの戸があった。彼はロウソクに火をつけ、それを持つ。
ラインラントの壮年のドラゴン使いが腰を痛めて通ってくるよなあなどと思いながら、テレノスはもう一方の暗闇に包まれた部屋――多分兄とカレンがいる筈だ――をひょいと覗いた。そして、思わず大きな声が出る。
「――おおっ、兄さん?」
トレアンがびくりと顔だけ振り向いて、それから人差し指を静かに唇に当てる。次いで、彼は自分の腕が抱く人間を見た。
「寝ているのかい?」
弟がひそひそ声で訊くと、兄はこくりと頷く。同じ声の調子で言った。
「動くと起こしかねないから……明かりが付けられなかった」
すまない、という謝罪の言葉にこんなことを言ってみる。
「じゃあ、もう手込めにした、ってわけか」
「違う、誓って私は何もしていないぞ……カレンが色々心配して泣き出すから、自然の摂理としてこうなったまで――不可抗力だからな、勘違いするな――」
カレンをしっかりとその腕に抱いたまま、彼は憤慨して言った。弟はそれにはいはい、などと適当な返事をしながら、炉の上の鍋に手を出す。
「腹減った、食べるよ」
「ああ、好きにするといい」
相変わらず声を出さずに喋りながら、兄弟は食事を始めた。トレアンはテレノスに椀を用意させ、彼女を出来るだけ起こさぬよう気をつけながら食べ物を口に運んだ。無理な体勢で生理的な欲求を満たすのも何だか可笑しく思えてくる。彼女は目を覚まさない。
いくつもの聞き慣れない靴の音と、見知らぬ人の聞き慣れない音程の絶え間ない喋り声。食事を済ませてふうと溜め息をついてから、兄は自身の腕の中で眠る彼女の寝顔を見た。そして、思う。
自分達の知らないものはもうそこまでやってきているのだ。
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