色欲の紫の鉤爪
序章 (1) 異変
「来ると思った」
そう言ったケファはいつもより崩した笑みを浮かべ、三善のふわふわした頭を撫でた。今日はこの後スーツを着るつもりなのだろうか、黒い色をしたスラックスに白のシャツというなんとも珍しい恰好をしていた。
――何年も、ずっと、ずっと待っていたものが。今、手の届くところにある。
三善はその事実にただ茫然とするばかりで、ろくに言葉が出なかった。気を抜けば瞳から涙が溢れそうになるのを必死に堪え、目の前の現実をひたすらに受け入れようとする。
「そこに突っ立ってないで来いよ。朝飯くらいは食わせてやる」
言われるがままに、三善は彼の部屋に入っていった。
しばらく部屋を開けるためか、最低限の家具くらいしかものがなかった。
そういえば、と三善は思う。
小物の搬出は数日前に済ませており、必要のないものはほぼ売り払っていたはずだ。簡素な部屋の隅に大きなキャリー・バッグが開けっぱなしの状態で放置されているのを発見する。
三善はそれを見て、思わずきゅっと目を細める。
――もしも、このまま何もしなければ。
しばらくキャリー・バッグをじっと見つめていると、三善は背後から「おい」と声をかけられた。
「頼むから食ってくれないか。片付かないだろ」
食卓に目を向けると、ふわふわのオムレツとサラダ、それからなぜかホットケーキが並んでいる。この日は「最後だから」とケファが妙に張り切っていたのを思い出した。
促されるままに食卓に座り、いつも口にする祈りの言葉を述べる。そしてフォークを手にすると、右手の薬指に嵌めた指輪とかち合って小さく金属音がした。
さて、これからどうするべきだろうか。
三善はサラダを口にしながら考える。本当ならば今自分が身に置くこの状況を一から整理してから行動すべきだろうが、正直なところ彼にそんな時間は残されていない。ケファが旅立ち、そして姿を消すまであと五時間しかないのだ。それならば、まずはケファを飛行機に乗せないことだけに注力するのがよいだろう。
なんと言ったら彼は諦めてくれるだろうか、と三善が考えていると、いつの間にか眉間に皺が寄っていたらしい。
「なあ。なんでそう、うまくなさそうに食うの? お前は」
フォークを持つ手が止まり、しばらく硬直したままだった三善に気がついたのか、やや不服そうにケファが言う。
「そんなこと、ない」
「ならさっさと食ってくれ。普通にしてくれよ、頼むから」
まあ、こうして二人で並んで食事を摂ること自体が普通ではないのだが。
気を取り直し黙々と料理を口にしていた三善だったが、唐突に何か思いついたらしい。動かしていた手を止め、ゆっくりと声をかけた。
「ケファ」
「ん?」
「ホットケーキの材料についてだけれど、ひとつ提案がある」
その物言いに、ケファはもそもそと野菜を咀嚼しつつ首を傾げている。
「提案?」
「みりんだ。みりんを入れてくれ」
みりん? とケファがさらに怪訝な顔をする。
「みりんって、égard sucréのことか」
「そうだ、そのみりんだ」
一体何故……と言いつつも、ケファは椅子に無造作にかけていた上着のポケットからメモ帳を取り出すと、整った字でそれをメモし始めた。
「よく分からんが、覚えておく」
「うん、そうしてほしい。おれはそっちのほうが好き」
そうか、とケファは頷くと、メモ帳を上着のポケットに再び収める。
「しかし、よくそんなものを知っているな。お前、自分でホットケーキ焼かないだろ」
三善は内心ぎくりとしつつ、それを悟られぬよう子供っぽいへにゃへにゃした笑みを浮かべた。とりあえず笑っておけばなんとかなるだろ、というかなり雑なやり口である。変なところで察しのいいケファだが、己のこの表情には弱かった、はず。そんな過去の記憶を思い返しながら、三善はケファの反応を伺う。
ケファは紫の瞳を一瞬三善へ向けたが、すぐに手元へ視線を落とした。
「ま、多分俺が知らないところでブラザー・ジョンあたりに食わせてもらったんだな。あとで礼を言っておくよ」
そうだ。そうしてくれ。
三善はほっと肩をなで下ろしつつ、ふかふかのホットケーキにナイフをあてる。きれいな焼き目のそれをゆっくりと切ると、ふんわりとした甘い香りと湯気が立ち上った。一口サイズに切り、口に含む。
――妙な違和感があった。
今ケファはなんと言っただろうか。三善は改めて彼の発言を思い返す。
――多分俺が知らないところでブラザー・ジョンあたりに食わせてもらったんだな。
ちょっと待て。
三善は思わずフォークを動かす手を止める。
この時点では、「姫良三善とジョン・アーヴィングの間になんの関係性もなかったはず」ではないか。
***
ケファは初め断ったようだが、結局押し切られる形でホセに空港まで送ってもらうことになったらしい。三善も一緒に連れて行ってもらえることになり、運転手より先にふたりで後部座席に乗り込んだ。
外出手続を済ませ、少し遅れてホセが現れた。今日はもともと休暇を取っていたらしく、聖職衣でもスーツでもなく、黒いハイネックのセーターを着ていた。黒い上着は左手に携えたまま、やや小走りでこちらに向かってくる。
「あいつ滑って転ばねえかな」
ケファがぽつりと言ったその時、凍っていた地面に足を滑らせ、ホセは後ろに反りかえっていた。転びはしなかったが。
「滑ったな」
「ああ、滑ったな」
二人で言う。そして笑う。転べばよかったのに、面白いからとケファは何気にひどいことを言っている。いつも通りのリアクションで、三善はほんの少しだけ安心した。
運転席が開き、不服そうな表情でホセが顔を覗かせる。
「ちょっとあなたたち。今笑い者にしましたね」
「凍っている道なんか走るからだ」
「ひとがせっかく待たせてはいけないだろうと気を遣っているのに……。というか、手続きが遅れたのはほぼヒメ君のせいなんですけど」
「おれの?」
「あなたがブラザー・ジョンなしに外出するの、結構大変なんですよ。そのあたりをもう少し考慮していただきたく」
適当にあしらいつつシートに乗り込むと、扉を閉める。ゆっくりとシートベルトを締めると、車はのんびりと走り出した。まるで別れを存分に惜しもうとしているかのような、恐ろしいくらいの惰性運転だった。
三善は今までのことを頭の中で順番に並べ、ぼんやりと考え事を始める。
ケファやホセの言葉から察するに、「今の姫良三善はひとりで外出するのが困難な立ち位置におり」、「なおかつ三善の行動にジョン・アーヴィングが少なからず絡んでくる」ようだ。総合して考えると、やはり今自分の置かれている現状は一〇〇九三回目とはなにか違うらしい。
具体的に言うと、おそらく、現在既に「姫良三善は大司教に就任している」のだ。こうなると話は早く、ジョンは三善の側近に落ち着いているのだと想像がつく。そうなるとケファの立ち位置が分からないが、前回のことがベースにあるとすれば、三善が教皇就任時点で教育係の任を後退させられたのだと考えるのが筋だろう。
ちらり、と三善はケファへ目を向ける。
車内では相変わらず、ケファとホセがしょうもない口喧嘩をしていた。ここしばらくホセと「目玉焼きにかける調味料」について大いにもめていたケファだったが、その三善の様子を案じてか、唐突に話を振ってみた。
「そういえばヒメは塩コショウ派だったな」
「え? ああ、そうね……」
というか、と三善は言う。「目玉焼きに何をかけたっていいじゃないか。おれは塩コショウも好きだけど、そのほかにケチャップも中濃ソースもタルタルソースもかける。卵の可能性は無限大だと、おれはそう思うね。いずれにせよ、頂いている命だ。大事に扱うべき」
そう答えると、三善は再び自分の殻に籠る。
そんな回答に驚いたのはケファとホセである。まさか茶番とも言える話題に三善が本気の回答をするとも思っていなかったし、いつもと比べても様子がなにかおかしい。
「……三善、怒ってる?」
ケファが恐る恐る尋ねるが、三善はその問いかけすら気づいていない。ひたすら流れる景色を眺めては、憂いを帯びた目をゆるゆると細めため息をついている。
ケファの表情が曇ったのを、ホセは見逃さなかった。
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