序章 (3) 君の名前
翌日。
三善は気晴らしのために聖典をめくっていたが、すぐに飽きてしまったらしい。頁を静かに閉じると、壊れ物を扱うかのようにそっと机の上に置く。
長年使用している革張りの聖典は、既にあちこちが擦れており、かなり汚れていた。表紙に書かれた文字も手にした当初は金の箔押しとなっていてとても綺麗だったのだが、今はそれらもすっかり剥がれ落ちてしまった。Bibleの文字は既に申し訳程度にしか残っていない。正直、一体どんな形の文字だったか思い出せない域に達していた。
あれはその程度の価値だったのだろうか。ちらりと不穏なことを考えたが、三善は否、と首を振る。
変化とはそういうものなのだ。自分が変わり続けるように、この聖典も変わっただけだ。そう思えるほどに、彼はこの本と長い時間を共にしてきたのだった。
そんなことを考えていると、私室の扉を誰かが叩いた。
「どうぞ」
声をかけると、顔を覗かせたのはホセ・カークランドだった。真っ白な聖職衣に、緋色の肩帯。思えば、三善が知っている彼は初めからこの恰好をしていた。
自分が彼と出会うよりも前から、彼はこの色の聖職衣に袖を通し、その真摯な眸で世界の行く末を見つめて来た。遙か遠くにいるべき人物だと思っていた彼は、いつの間にか近くにいた。再び気が付いたときには足並みを揃えていて、今日を境に彼を追い越そうとしている。不思議なものだ。これは経験してもきっとその良さが分からない類のものなのだろう。
ホセは独特のアイボリーの瞳を三善へ向けると、微笑みながら言う。いつも通りの穏やかな表情だ。
「主席枢機卿が御目通りしたいとのことです。どうかお支度を」
「厭だな、ホセ。まだおれに敬語を使うのはよしてくれ。せめて式典が終わるまでは」
いつも通りでいてくれないか、と。
どうせあと一時間ちょっとで、長らく親しんだ『姫良三善』の名とはお別れなのだ。だったら、思う存分にそう呼んでほしい。
そう思っていると、ホセは何も言わずとも理解してくれたらしい。ふっと安堵にも似た表情を浮かべたかと思うと、いつもより優しい声色で、
「ヒメ君」
と噛みしめるように呼んでくれた。
「他のプロフェット達はもう準備はできているのか? 特に『十二使徒』と『守護聖人』あたりは」
「ええ。本部の職人たちが徹夜で拵えてくれたようです。あなたの衣装も、彼らの衣装も」
「そっか。ならいいや」
三善は乾いた笑みを浮かべると、今まで座っていた椅子から立ち上がる。彼もまた、正装で臨むべく着替えてはいた。しみひとつない、真っ白い聖職衣だ。しかし司教のそれとは異なり、襟元や袖口など、至るところにさりげなく金糸で飾りが施されている。
「よくお似合いですよ。あなたのご尊父様を思い出します」
ホセがそんなことを言うものだから、三善はすっかり困ってしまった。
「ホセ。親父は、どんな人だった?」
彼に会ったのはたったの一度きり。最低限の会話のみ交わしただけので、その人となりはよく知らない。なんとなく諦めの悪い性格は彼に似たらしい、というところまでは察したが。
ホセはそうですね、と慎重に言葉を選び、
「内面はあなたに非常によく似ています。まあ、時々傲岸不遜な面はありましたが……時々思います。あなたの隣にわたしではなくあの人がいたならば、それが最善だったのだろうと」
よせよ、と三善は首を振る。
「あんたがおれの父親だろ。譲らねえよ」
「そしてその減らず口はもう一人の父親に似てしまったと。否……兄、ですか。あのひとは」
「おれは家族にだけは恵まれているな、本当に」
そこまで言うと、三善は椅子の背に無造作にかけていた緋色の肩帯を引っ掴んだ。こちらも聖職衣同様、いつも身につけているものよりも格段に上質なものだ。それを首にかけると、「曲がっている」とホセに駄目出しをくらった。
渋々直してもらうと、三善の耳元でホセが囁いた。
「ところで、あなたの教皇名ですが。ヨハネス
「ん? ああ。親父と一緒の名前は嫌だったんだ。だからと言ってペテロは暗黙の了解で避けるべきだし」
「『事実』なのにね」
「あれは借り物だからな」
そう、ケファの――と呟きかけて、三善は口を噤んだ。
ホセは苦笑しつつ、眠そうにしている三善の両肩を叩く。ヒメ君、と呼びかけながら。
「どこまでいっても、あなたが『姫良三善』であることには変わりない。その名前に込められた願いを、絶対に忘れないで」
逆に戸惑ってしまったのは三善のほうだった。別にホセ自身が名前を変える訳ではないのに、とも思う。しかし、育ての親としてはそのあたりが非常に気がかりだったようだ。それを、三善は否定したくない。否定すべきでもない。
ホセは言う。
「三善。――
「……言われなくても」
照れくさくなってしまったのか、つい、と三善はそっぽを向いてしまった。「名前にGoodを表す字がふたつも入っていれば、黙っていてもいい名前だろうが」
そうですね、とホセは笑う。
本当に、その通りだった。彼の名を口にするたび微かに感じる願いの強さ。その名を与えたであろう『あのひと』は、今後絶対に三善が苦しい立場に追いやられることを見越していた。だから『あのひと』は三善が生まれたとき、己の真名を与えなかったのだろう。それを与えてしまえば、三善の人生の可能性が狭められてしまうから。
己の手足となることを望みつつ、同時に僅かな選択肢を残していくとは。『あのひと』はどこまでも残酷で、傲慢で。色々言いたいことはあるが、これだけは伝えておきたい。
そしてホセは思うのだ。
今日、あなたの子が旅立ちます。どうか、成長した彼のことをどこかで見守っていてください――と。
そうしていると、戸を控えめに叩く音が聞こえてきた。三善が許可を出すと、そこからジェイがひょっこりと顔を覗かせた。
「ミヨシ君、ジェームズ君が来たけど、どうする?」
三善の表情が、途端に険しくなった。
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