第五章 (12) 卑怯で結構

「久しぶり、三善君」


 かつて肩まであった黒髪は腰辺りまで伸び、同色の修道服がとてもよく似合っている。首に下げた銀十字が瞬いて、それがやたら眩しく思えてしまった。


「あっ、雨ちゃん……?」


 そう、彼女は土岐野雨だ。土岐野橘の実姉にして、かなり貴重な『釈義』を持つプロフェット。彼女はフランスで修業していたはずなのだが、どうして今ここにいるのだろう。しかも本部ではなく箱館に。


 何が起こったのか分からず、三善はぽかんと口を開け放ったまま、それ以上の言葉を紡げずにいた。


「『おかえり』も言ってくれないのね。ひどーい」


 その様子にすっかり呆れ、肩をすくめながら彼女は来客用のソファに腰かけた。三善は慌てて執務室の戸を半開きにし――規則上、神父と修道女が一対一で同じ居室にいるときは原則戸を半開きにする必要がある――、雨の腰掛けたソファまで近づく。


「いや、どうしてここにいるの? 修業は終わったけど正式な配属が決まっていないから、まだしばらくはフランスにいるって言っていただろ」

「三善君が呼んだんでしょ?」

「えっ」

「……なんちゃって。半分は本当で、半分は嘘。橘の様子を見に帰国したら、本部からおつかいを頼まれちゃって」


 なんだか不穏な単語が聞こえた気がする。

 言葉の真意を確かめる前に、再び扉が開いた。今度は橘である。なんだか微妙な顔をしながら執務室に入ったのだが、部屋にいた雨に気づくと「ねっ、姉ちゃん!」と驚愕した声を上げている。


「まさか、なんで!」


 目をひんむいている橘をよそに、当の雨は随分軽いノリで「久しぶりー」と微笑んでいる。橘の様子を見に、とは言いつつも、実際のところは彼には何も言わずにやってきたのだということが分かった。


「タチバナ。どうした、用があったんだろ」


 そのまま入口に立たれていても邪魔なだけなので、助け船のつもりで要件を尋ねてみる。それでようやく橘は我に返り、三善へ向き直った。


「来客です。それも、センセに面会希望ということで――」

「通して」

「では」


 執務室の戸を橘が開け放つと、


「教皇!」


 続いて現れた少女が呆けている三善に飛びついた。それを支えきれずに、三善は彼女もろと後ろに倒れ込む。まだ治りかけの腹部に衝撃を受け、声にならない声を上げてしまった。

 三善の上で赤い瞳を爛々と輝かせている少女は、昔と変わらずに――否、その楽しそうな表情だけは変わったが――三善を『教皇』と呼ぶ。まだ就任していないのに、だ。この少女は年々人間に近づいてゆく。そして、その正体もよく知っている。


「ま、マリア……頼む、痛いからどいてくれ」


 ということは、『彼』もいるはずだ。

 そう思ったら、突然辺りが陰った。宙を仰ぐと、案の定『彼』がぐったりしている三善を見下ろしていた。その独特のアイボリーの瞳で。


「大分お疲れのようですね、司教ファーザー


 久しぶりに見た彼の表情がなんだかとても懐かしくて、ほんの少しだけ、胸がきゅうっと締め付けられるような気持ちになった。

 三善は苦笑しながらも彼の名を呼ぶ。


「そちらこそ。ブラザー・ホセ」


 抱きついてきたマリアごと体を起こすと、視界の片隅で土岐野姉弟が抱き合っているのに気が付いた。――否、橘が雨に泣きついていた。そりゃあそうだ、件の御陵市の事件以来、彼は慣れない環境の中じっと頑張り続けていたのだ。雨に会ったことで、今まで我慢していたものが堰を切ったように溢れ出て止められなくなったのだろう。雨は雨で、ずっと心配していた弟が元気でいたことをとても嬉しく思っていたようで、泣きじゃくる彼の頭を撫でながら、


「よく頑張ったね」


 と声をかけ続けていた。


 三善はしばらくそれを見つめていたのだが、ややあってホセへと向き直る。


「ところで、あんたはこんなところで何をしているんだ。本部に行ってからこちらに来るって言っていただろ」


 その問いに、ホセがすぐに切り返した。


「釈義調査官を派遣しろと申請を出したのはあなたでしょう」

「確かに出したけど、別にあんたを呼んだつもりは」

「そうでしたか? ブラザー・ジェームズが『お前のところの息子が泣きながら電話してきた』と言うので、予定を早めてきたのですけれど」


 あいつか!

 途端に苛立ちにも似たどろどろする気持ちが湧きあがり始めた。三善が露骨に不機嫌そうな顔をしたので、ホセは苦笑しつつも言う。


「――というのは半分冗談です。先日『聖都』に行ってきたことと関係があるのですが、ほら、これを取りに行っていたんです。大きい土産とはこれのことですよ」


 ホセは手にしていた鞄から何やら小さな硝子の箱を取り出し、呆けている三善の左手に置いた。赤い瞳が、その無色の硝子の箱を見つめる。中に何か金色に輝くものが透けて見える。


「これは?」

「教皇の証である『漁夫の指輪』です」


 はっとして三善はホセを仰ぐ。彼が言っていることの真意が全くと言っていいほど掴めなかった。なぜならこの指輪が贈られるということは、間違いなくあのことを意味するのだ。


「どうしてこんなものを」


 そこまで言いかけると、ホセが彼の唇に指を当て、黙るように念押しした。


「色々と訳ありでして。私はこれを今一度使ってもいいかどうかを確認しに行っていたのです」


 使うって、と三善が口ごもる。それが意味することと言えば、一つしかない。


「ジェームズも今回ばかりは仕方がないということで承認してくださったようです。これがあれば、あなたが『十二使徒』を駆ることができる。その任命権をあなたに移譲すると言っているんですよ。これが今あなたに提示できる最大にして最強の秘密兵器です」

「……卑怯だな、あんたら」


 いつか言ったことと同じ発言を、三善は繰り返す。


「卑怯で結構。やってくれますね」


 三善は無言で、そのままじっとしていた。その無言をどうやら肯定と取ったらしいホセは、くすくすと笑って見せた。

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