第五章 (11) 冬の到来

 三善はぼんやりと車窓から流れる景色を眺めていた。

 彼らは最後の乗り継ぎを終え、あとは箱館駅に到着するのを待つだけの状態となっていた。規則正しい揺れに身を委ねつつ、三善はペットボトルの緑茶を口に含む。


 長距離の移動に疲れたのだろう。隣の席に座る橘が三善の左肩にもたれかかり熟睡していた。ヨハンが目線で起こした方がいいかと尋ねてきたので、三善はジェスチャーでそれを断った。別にこれくらいの重さであれば気にすることもない。


 そうだ。こんな些細なことであればいくらでも。思った以上に、己が彼に対してできることは少ないのだ。


 三善はちらりと橘の寝顔を盗み見て、昨日の彼とのやりとりを思い返した。



 橘には事前に軽い事情説明をしておいたのだが、それでもやはり置いてきぼりになったのは否めなかった。それについてフォローしておこうと思ったのだが、逆に橘はこのように返してきた。


 ――センセ。とりあえず、何か食べましょう。


 夕食は既に済ませたあとだったので特に食べる必要はなかったのだが、橘の並々ならぬ気迫に負け、三善はもう一食腹に押し込むことになったのである。

 どうしてこんなことに、と思いつつ御煮しめを口に運ぶ三善に、ぽつりと橘は呟いた。


 ――センセ。俺は、一体何者なんですか。


 はっと目を剥いたのもつかの間、畳みかけるように橘は言う。


 ――俺はセンセの近くにいてはいけないのですか。


 その問いに、三善はなぜ橘がわざわざ食事の場を設けようとしたのかをようやく理解した。これは単純に、互いが無意識のうちに抱えているストレスを少しでも軽減させようとした結果だ。橘らしいと言えばその通りである。

 三善はゆっくりと箸を置き、それから首を横に振った。


 ――そんなことはない。

 ――それなら、どうしてヨハンさんだけじゃなく大司教まで俺をセンセから遠ざけようとしているのです?


 何も言い返せなかった。

 確かにそれはこちらの落ち度でしかない。そもそも事の発端となったホセの委任状ですらかなり曖昧なことしか書かれていない。そんな状態で箱館まで送り出されたのだ。むしろ橘が今まで何も不思議に思わなかったことのほうがおかしいに決まっている。


 とうとう三善は腹を括った。


 ――分かった。タチバナ、携帯貸して。

 ――え? あ、はい。


 橘の携帯を借りると、三善はぽちぽちととある番号をプッシュした。そして携帯を耳に当てると、『いい子の仮面』を被ったときのような口調でこのように語り始めた。


 ――もしもし、お疲れ様です。わたくし、北海道道南地区箱館支部担当の姫良三善と申します。夜分遅くに大変申し訳ありませんが、本日ブラザー・ジェームズはご在席でしょうか。


 しばらく三善が口を閉ざしたかと思いきや、電話の向こうで取次が完了したのだろう。三善の雰囲気が唐突に変化した。


 ――ああ、どうも。姫良です。突然ですが、教皇庁特務機関からひとを一名派遣してください。名目は『釈義調査』です。……はい、そうです。釈義調査令状を発行しろと言っています。大至急。


 三善はそのままいくつか話をしたのち、終話して携帯を橘へ返却した。今、明らかに目の前の司教は何か変なことをした。

 恐る恐る何をしたのかと尋ねる橘に、三善はこのように言い放った。


 ――なに、ちょっと主席枢機卿にかけあって釈義調査官の派遣を依頼したまでだ。この際はっきりさせようぜ。お前が一体何者か。



 まさかあのひとに自ら依頼を投げることになろうとは。

 三善は昨日の己の行動を振り返り、思わず頭を抱えそうになった。あの時はそうするのがよいと思ったのだが、今考えると相当莫迦なことをした。別に枢機卿にかけあうだけならロンやホセに声をかければ済む話だったのに、わざわざ向こうに自分の動向を知らせるような真似をするとは、何たる失態だ。


 ――自分のことだからとてもよく分かる。やはり自分は今、


「動揺、しているんだろうな」


 三善はひとりごちて、再び外へ目を向ける。

 灰色に濁った空が、冬の到来を告げていた。


***


 箱館駅に到着すると、ヨハンは「一度九条神父のもとに帰る」と言い残し、先に移動してしまった。三善と橘は共にタクシーへ乗り込み、揃って箱館支部へと戻る。


 しばらくぶりに支部へ戻った三善である。いつもの調子なら中に入ったところで他の神父にもみくちゃにされるので、少々身構えながら戸を開けた。


「……あれ?」


 ところが、予想に反して誰もいなかった。よくよく考えてみたら、今の時間はサルヴェ・レジナが執り行われている。ならば今のうちに執務室へ戻るのがよいだろう。挨拶だけなら、別に後で構わない。


 橘を先に自室へ戻らせ、三善自身は執務室へ向かった。さすがにイヴくらいはいるだろう。そう思いながら戸を開けるも、中は無人だった。はてと三善は首を傾げる。


 なんだか妙ではあるが、まあいいか。

 怪訝に思いつつ三善は奥の仕事部屋に荷物を置いた。デスクの上には書類がタワー上に積みあがっていた。見たくない光景ではあるが、かなり長期間入院していたのだから仕方ない。むしろ今までよく苦情が来なかったものだと感心してしまうほどである。


 三善は着ていたジャケットの上着を脱ぎつつ、タワーの一番上にある書類へ目を落とした。


 その時だった。

 控えめに仕事部屋の戸を叩く音が聞こえた。のろのろと顔を上げると、戸は一方的に開けられた。


 三善は執務室に突然入りこんできた『人物』を目の当たりにし、思わず目を剥いてしまっていた。


「なっ……!」


 何でここに! という叫びを遮り、その『人物』は彼の前で微笑んだ。

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