第四章 (8) 同盟
その時だった。一度閉まったはずの玄関の戸が突然開き、ひとつの影が差しこんできたのは。
「あら、先客? それとも愛人とか言いませんよね?」
女性の声だ。“色欲”はがばりと振り返り、その声の正体を確認しようとした。
その女はどうやら東洋人らしい。くすんだ栗色の髪に、黒のパンツスタイル。彼女はここまで一人でやってきたのだろうか、上から羽織っているコートの左胸あたりに独特のふくらみがある。おそらく、護身銃か何かだろうが――まぁ、あれくらいではこちらは痛くもかゆくもない。それよりも気になるのは、彼女の薄氷色の瞳だ。その色はどこかで見たことがある。
どこで見たのかを思い出しながら、“色欲”は咄嗟に愛想笑いを浮かべる。
「あら、このお宅の方かしら」
「質問をしているのはこっちよ」
彼女の凛とした態度にも、やはり既視感がある。
こういうとき、普通の人間はどう対処するんだったか……。
長く生きていると、そんな些細な日常の一言も思い浮かばない。歳をとるのはだから嫌なのだ。何回体を変えようとも、ベースになる脳の仕組みは普通の人間と同じ。時間の経過により古い記憶はどんどん曖昧になってゆく。これではただの御長寿記録保持者ではないか。
「愛人って、誰の? 『あの方』ならもうここにはいないわよ。あなたこそ愛人?」
そんなとりとめもない思考を無理やり断ち切り、彼女はその東洋人の女に一応聞いてみることにした。
刹那、女は“色欲”に向かって銃器をつきつけた。素人とは思えない手つきに“色欲”も思わず感嘆の声を洩らすほどだ。しかし、“色欲”も黙っている訳ではない。つい反射的に、己の能力“鍵爪”を発動してしまった。右手の人差指と中指、二本の爪を瞬時に長くのばし、彼女の首を左右から掠めるように固定した。ストン、と突き刺さる音。少しでも動けば、彼女の頸動脈はあっさりと切れる。
「……あたしはあいつの娘よ」
しかし、銃を手にした彼女は相当肝が据わっていた。彼女は真っすぐに“色欲”を見つめ、吐き捨てるように言った。
「“
「娘? 『あの方』に娘なんていたかしら」
「あなたたちが出てくるなんて、あの狸親父は何をしているんだか……」
そこで、二人は同時に表情を変えた。ようやく互いに話がかみ合っていないことに気がついたのである。
一度互いに冷静になるべきではなかろうか。
東洋人の女が先に銃を下ろした。そして、今は撃つつもりがないことをはっきりと明言する。
「私は
「ええ、その通り」
相手がそのつもりならこちらから危害を加える理由はない。“色欲”も瞬時に爪をひっこめ、手首を軽く押さえる。
「タテワキ……あの少年の結縁者か。天下の情報屋さんが、どうしてこんな辺鄙なところに?」
「同じことをそっくりそのまま返すわ」
彼女――秋子は溜息混じりに言う。「私はうちの先代を探しに来たんだけど。やっと居場所が掴めたと思ったら、何でか知らないけれどあなたがいるし」
「先代? 私は『あの方』がここにいるって掴めたからここに来たんだけど、私が来た時には既にもぬけの殻で」
「あの方?」
「大司教」
つまり、探している人物は互いに違う、ということだ。
それを知ると同時に、秋子も“色欲”も同時に溜息をつくしかできなかった。二人して目的物に遭遇することはなかったということだ。がっかりもいいところである。
だが、落胆する“色欲”の前で、突然目を光らせたのは秋子だった。
「ということは、うちの馬鹿親父と猊下が一緒にいる可能性も、ない訳じゃないのよね」
「え? ええ……そうね」
手掛かりはまたなくなってしまったけれど。
しかし、秋子はそう思っていなかったらしい。数秒なにやら考えた後、結論を素早く出した。彼女の頭の回転速度は、おそらく己の倍以上だ。
「こちらには、まだ手札がある」
自信満々、といった様子の秋子に対し、“色欲”が怪訝そうな表情を浮かべた。一体なにが言いたいのか、さっぱり分からなかったためだ。少なくとも、秋子と己は敵ではないが味方でもない。わざわざその手札を見せつけるような真似を選ぶことはないのでは、というのが“色欲”の見解だった。
ところが、秋子の発言は“色欲”の考えをあっさりと覆す。
「あなた、帯刀家の『青の瞳』についてはご存じ?」
尋ねられたので、“色欲”はやんわりと首を動かした。
「何となくは。あなたたちが常に世界をリードしてきたのは、その瞳の力があると言われているわね」
「ええ。この瞳は心が読める。その能力に一番長けているのは現当主の雪だけれど、同じ瞳を持つ同士なら、比較的容易く探れるもの。うまく使えば、次に行く場所を特定できる」
だから、と秋子は“色欲”にはっきりと言い放った。
「私についてくる? あなたが無暗に動くよりは、私と手を組んだ方が手っ取り早いと思うけれど」
***
“色欲”が秋子の提案に対し首を縦に振ったその頃。
危なかった、と肩で息をするヨハネスがいた。
「毎度毎度思うけど、君って本当、逃げ脚だけは速いよねぇ」
その横で呆れた口調の壬生が呟く。「同じおっさんだとは思えない脚の速さだ」
まぁ、本当に走って逃げた訳ではないのだが。
ヨハネスが釈義を展開し、そこから逃げたのである。ヨハネスの持つ釈義は先天性三種。しかし、一般的な化学系でも物理系でも、ましてや生体触媒系でもない。
彼の持つ釈義は数少ない特殊系。時間をほんの少し――最大で二日ほど――戻してしまう能力がある。そんな訳で、今彼らは急遽一日前に戻り、適当な飛行機に乗り込んだところだった。
時間を戻した場合の作用については考えれば考えるほど思考が迷宮入りしていくため、壬生はその辺りは深く追求しないことにしていた。物事は、なると言ったらそのようになるのだ。細かいことを気にしていたら己の年老いた脳みそはすぐにパンクしてしまう。
「それで? 猊下、これからどこに行きます?」
尋ねると、壬生の隣でヨハネスは既に船を漕いでいるところだった。釈義『時間遡行』の対価は『眠り』なのだから、その能力を使えば使うほど睡眠時間だけが伸びてゆく。
まぁ、いいか。あとからどうにでもなる。重要だから何度も言うが、「物事はなると言ったらそのようになる」。天命は確かに存在する、だからそれは決して避けられない。常日頃そう考える壬生は案の定すぐに諦めて、彼同様少しだけ眠ることにした。
それにしても――まさか、我が長女・秋子が己の居場所を突き止めてくるなんてこれっぽっちも考えていなかった。それも、気配も見せずに、だ。なんとなく裏で長男が動いたような気がしないでもないが、いずれにせよあの姉弟が手を組むとなると非常に厄介だ。
「愛する娘が父を追いかけてくるとは……うーん、なんか嬉しいような、そうでもないような……」
本人が聞いたら罵倒されそうな台詞を呟きながら、彼はゆっくりと瞳を閉じた。
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