第三章 (10) おかえり

 ヨハンは相変わらず、内職に勤しんでいた。いつもの穏やかな表情ではなく、どことなく哀愁を帯びた目線をじっと己の指先に向けている。


「悪い。騒がしいだろう」

「いいえ。構いませんよ」


 それより、と彼は遠慮がちに呟いた。ようやく、今まで動かしっぱなしだった彼の指先が止まる。三善は静かに口を閉ざし、彼の次の言葉に耳を傾けた。


「……私は、ここにいてもいいのでしょうか」


 その時の彼の表情は、なんとも言い難いものだった。

 三善には、何となくその意味が単純に「この場所にいてもいいのかどうか」というものだけではないような気がしたのだ。根拠は全くないけれど、その一言はきっと簡単に聞き流してはいけないものだ。


「好きなだけいればいい。おれはあなたの存在を否定したくない」


 だから三善はこう答え、小さな鷹の頭を撫でた。

 逆に目を見開いたのはヨハンの方である。この返答に随分と驚いたのだろう。すぐに三善へとその紫色の瞳を向けたが、三善の目は銀のプレートに向けられたままで、こちらを見ようとはしなかった。


 それと、と三善が消え入りそうな声で呟いた。


「――おれは、あなたのことをとてもよく知っている」


 ヨハンの肩が微かに震える。

 三善はのろのろとそのまなざしをヨハンに向け、そっと呟いた。


「ケファ。……いや、これは正しくないな。今のあなたはトマスだろうか」


 暫しヨハンは呆けたまま三善の紅い瞳を見つめていた。暫しの逡巡ののち、彼は微かに口元を緩ませて見せる。


「やっぱりお前は騙されないんだな」


 そのフレーズは過去に何度も聞かされたものだ。三善は肩を竦めると、背中を枕に押し付け楽な体勢をとる。


「ケファの身体を乗っ取っておきながらよく言うよ。しかも“憤怒Ira”戦の時、完全にボロが出ただろ。俺が知っているトマスは、それほど詰めが甘くなかったと思うけど」

「あー、そうね。あれは完全に『あいつ』のせいだからな……」


 そこまで言いかけて、ヨハン――否、トマスは長く息をついた。その様子に三善は詰問するような口調で問いかけた。


「ケファは死んだんじゃなかったの」


 ああ、とトマスは頷き、左手の親指を立て自分を指して見せた。


「結論から言うと、生きている。この身体が証拠だ」

「でも、飛行機が……」


 あの日、ドイツに向かおうとしていた彼は飛行機事故に巻き込まれてしまったはずだ。助ける余地なんかどこにもなかったはず。なぜこのような結果になったのかが理解できない、といった風だ。


「だから、あの日俺が助けたの。正確には、コイツがそう願ったから生かしてやった。体と引き換えにね」

 そもそも、とトマスは顔を上げる。「お前、“大罪”第一階層が“弾冠シュート”を用いて代替りをするときに何が起こるか知ってる?」


 三善は即答した。


「本人の人格が上書きされるんだったか」

「そう。脳科学的に言うと、認知とそれを軸とする行動基盤を『上書き』する、の方が正解かな。ここでは敢えて『意識』と呼ぶことにする。しかし、それをやってしまうとこの体の持ち主本来の『意識』が壊れてしまう。だから本人にお伺いを立てた訳。飛行機が海に墜落したときに」


 そう。確かにあの飛行機は墜落して、多数の死者を出した。それは事実である。彼の記憶の中にも、確かに記憶として残っている。


 ――流れに翻弄されつつ宙を仰ぐと、己の唇からこぼれ落ちる銀の水泡と共にきらめく白金の天井が見えた。混じりっ気のない、無垢な光である。その光は雲の間から降りる天使の梯子のように細い帯となり、水流によりかき乱された。


 がぼ、と妙な音がした。口の中に海水が侵入したのだ。塩辛い味と氷のような冷たさが一気に身体に流れ込む。

 その時ようやく、己の中に恐怖という名の感情が浮上してきたのだった。


 最高のディープ・ブルーの中、沈んでゆく身体。

 まだ、ここで死ぬ訳にはいかないのだ。


 わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給いし――


 その時、伸ばした手に触れるものがあった。同じ人間の掌だった。驚きその正体へ目を向けると、彼は銀の光彩を纏う不思議な眸で、こちらをじっと見つめてくる。

 まだ、ここで終わってはいけない。そんな声が聞こえた気がした。


 己の手を必死に伸ばし、なんとかその掌を掴む。


 やれ、と声にならない声を上げた。


 この瞬間、沈みゆくケファ・ストルメントの身体に対しトマス・レイモンは“弾冠シュート”を行使し、自己の『意識』を無理やりねじこんだのだった。


「俺の体はもう腐っちまって使いものにならなかったしな。ただひとつ誤算だったのが、『上書き保存』でなく『名前をつけて保存』みたいなことをしたものだから、一時的に脳のキャパが越えて本人が気絶しちまったことくらいだ。だから向こうを責めないでやってくれないか。あいつが起きたのは今年の八月八日だからな」


 あいつはまだ勝手が分からないんだ、と付け加え、トマスは口に煙草を咥えた。火を付けずに、ただ咥えているだけである。

 三善はじっと押し黙り、何かを逡巡しているようにも見えた。


「つまり、トマスは同じ飛行機に乗っていたんだね」

「ん? ああ、まあな。そのときはさらに別の体――本物のヨハン・シャルベルの身体を使っていたが。『前回』のこともあったから警戒しておこうと思ったらこれだよ、まったく」

「『前回』?」

「そう、今回、お前も知っている『一〇〇九二回目』とまったく同じことが起こったんだ。ケファ・ストルメントは、理由こそ違えど同じ手段で前回命を落としている。だから出国するまでの一カ月間、ずっと張り込みさせてもらっていた訳ですよ。何かあったらいつでも助けられるように、って。少しは俺のことを見直してくれると嬉しい」

「そう。……そうか、うん。事情は分かった」


 三善は何度か頷くと、もう一つ尋ねた。


「おれの声って、今『あのひと』に聞こえるかな」

「大丈夫、聞いているよ。なんなら代弁してやってもいい」

「そうか。じゃあちょっとだけ、『あのひと』に向けて話すよ」


 トマスが困り顔で頷いたのを見て、三善はその双眸をいっそう鋭くした。


「この際はっきり言う。ケファのバカ! 大嫌いだ!」


 その言葉にはさすがの彼も驚いたらしい。微かに動揺の声を上げたが、三善はそれを完全に無視し、より語調を強くする。


「車の運転だけじゃなく、嘘までへたくそなんだから。本当に、最悪だよ。こんなにひどい人は見たことない! いまさら何しに来たんだよ。五年も経っちゃっただろ。おれ、成人しちゃったし、司教にも昇格しちゃったよ。今やここの支部長だっつーの。そもそもあんたの墓標、すんごい立派なやつ、奮発して建てちゃったじゃないか。わざわざ渡仏してさあ! あれ、どうしてくれるの。いや、確かに中身は入ってないけど! ものすごく無意味なことしちゃったじゃん! 無意味と言えば、二日前の熱だって出さなくてよかったし、情けないくらいぐだぐだ悩まなくてよかった訳だ。おれの悩んだ分の時間を返せ! つーかあれだろ、あの日枕元にいたのケファだろ!? なぜ起こさなかった! まるで! 意味が! 分からない! その気がないなら思わせぶりなことするんじゃねぇよ! ああもう、遅い遅い、遅すぎる! 全てにおいて遅すぎるんだよ!」


 怒鳴ったことで腹の傷が微かに痛んだが、そんなことは関係なかった。三善はそれ以外にも数分に渡り怒りと不満をぶちまけ、さすがのトマス――否、もしかしたら本人かもしれない――が呆れ始めた頃。


 三善はふっと笑い、それから囁くような細い声で言った。


「――おかえり」


 こんな状況でなければ、もっと別の結末があったかもしれない。

 それでも、今言わなければならないことがあって、今やらなければならないことがあった。ふたりの時間の埋め合わせは、それからでもいい。


「おれからは、以上。今後おれからはこの話はしないことにする。あなたはヨハン・シャルベル。そう扱わせてもらう」


 今、この瞬間。

 三善の中で、彼に対するひとつの結論が出たのだった。

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