第三章 (1) 未知との遭遇

 ぽかぽかとした陽射しの下、三善と橘はのんびりと自転車を押しながら歩いていた。風もさほど強くなく、絶好の散歩日和である。


 結局あの後三善が復活するまでに丸二日を要したが、回復自体はものすごく速かった。本人も二日目になると案の定「暇だ」と文句を言い出したので、さすがの帝都牧師もこれには呆れてものも言えなかったという。


 それよりも気にかかるのは橘の方である。二日前――三善が倒れた日である――、サルヴェ・レジナ終了後の支部で貧血を起こして倒れてしまったらしい。その対応をしたのはリーナだったが、彼女曰く「橘を発見し連れてきたのはヨハンという名の見知らぬ神父だった」らしい。その話を事後報告として聞いていた三善は、なんとなく嫌な予感がしていた。

 そんな橘も翌日には回復していたので、あまり気にする必要はないのだろうが。


 ――この漠然とした不安はなんだろう。三善は内心そう思っていた。


 さて、彼らが二人で移動するとき、大抵は自転車を使っている。

 たくさん用事を抱えている場合は猛スピードで漕ぐ必要があるが、今日は本当にやることがなかった。実に暇だった。だから二人は少々のんびりと歩きながら、橘の洗礼に備え聖典の暗唱を手伝っていた。


 三善は旧約、新約問わず、思いついた箇所について質問を投げかけている。

 そのいずれについてもあっさりと答えた橘は、全部言い終わった後にさりげなく疑問をぶつけていた。


「俺は『創世記』だけでいいんですよね。全部覚えろなんて言いませんよね」

「もちろん。でも、覚えるに越したことねえだろ」


 洗礼のために旧約部分を全暗記した姫良三善、弟子にはなぜか新約部分までやらせる徹底ぶりである。少々スパルタ気味なのは言うまでもない。


 ところがこの橘、最近になってようやく気付いたことなのだが、実はものすごく暗記は得意らしかった。長期記憶となると話は別だが、三日程度ならば一字一句違わずに覚えている。それが何だか面白く、皆が思い思いに知っていることを教えてしまうのだった。


 三善だけではなく、その他の神父たちも一様に自分の専門分野についてあれこれ吹きこんでしまうものだから、彼と話をすると大抵の分野について精通しているため話題には困らない。彼は言うなればマルチ・プレイヤータイプなのだ。


 だからこそ橘は心底苦しい思いをしているようだが、決して「嫌だ」と言わないところが彼のいいところでもある。


「こんな感じで、本当に大丈夫なんでしょうか……」

「いや、間違ってもいいんだよ。別に暗記大会をやりたい訳じゃないし。教会側としてはね、『創世記』の意味を改めて考えてもらいたい。ただそれだけなんだよ」


 そう言うと、三善はふっと口元に笑みを浮かべた。


「意味、ですか?」

「世の中無意味なことはないの。そもそも、うちの宗派は意味性を重んじている訳だからね。ちょっとだけ考えてみてよ。それで大分違うと思う」


 そうか、と橘が何やら考えだしたので、三善はそのまま口を閉じ、静かにしていることにした。


 こちらはこちらで考えるべきことはたくさんあるのだ。

 例えば、あの男のこと、とか。


 橘が倒れた話の詳細を本人に尋ねてみたところ、彼は首を傾げつつ「ヨハンって誰ですか?」と返答したのが妙に引っかかる。先程も述べた通り、橘の記憶力は平均以上だ。それにも関わらずあの男についてだけ記憶から抜け落ちていることが心底気持ち悪い。


 初めは“七つの大罪”に関係のある人物なのだろうかとも思ったが、記憶を消す能力を持つ“大罪”などいるはずがなかった。何せ、大罪の能力に関しては己がよく知っているつもりだ。膨大な記憶を、それも整合性を保ちつつ一部だけ消すだなんてややこしい処理を行えるほど彼らの能力は複雑でない。そしてそれ相応の体力も時間も必要になる。労力と結果が全く見合わないことをする必要など、彼らにはないはずなのだ。


 まさか、『パンドラの匣』と何か関連があるのだろうか。


 そう考えた刹那。

 今まで晴れていたはずなのに、突然辺りが陰った。同時にぼたぼたとなにか液体が降り注ぎ始める。べったりとした粘着質のそれは、異臭を放ちながらコンクリートを溶かしてゆく。


 あ、と思う間もなく、二人が押して歩いていたはずの自転車にもそれが見事にかかり、金属が溶けてしまった。まるで溶解炉にぶちこんだかのような有り様である。


 こんなに呑気な描写が何故できるのかというと、影に気付き見上げた段階で三善は橘を引きつけ、液体の射程範囲外へと逃げたからである。俵のように担がれた橘はこの手のものに弱かったようで、顔面蒼白のまま声にならない声を上げていた。


 そこで三善は気付く。そういえば橘が箱館支部にやってきてから旧型の“七つの大罪”はほとんど出没していない。それに『パンドラの匣』が釈義に反応しても困るので、なるべく釈義を使用するときは橘を近くに置かなかった。


 つまり、橘にとってはこれが初の「未知との遭遇」なのだ。


「そりゃあ、こんなものが出てきたらトラウマものだよなあ」


 既に慣れっこになっている三善はぽつりと呟き、素早く左手の拘束具を解いた。


「せ、せせせ、センセ! あれって何、なんですか!」

「“七つの大罪”第三階層ですけど。タチバナ、虫は平気?」

「嫌いです!」

「おお、それは残念」


 そして手袋も取り去り、その辺に放る。日焼けしていない細い掌が露わになった。

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