第二章 (10) それはなかったことに

 からん。


 食器に散蓮華が投げ出された。その音が存外大きく聞こえ、橘は思わず身体を震わせた。怒られると思ったのだ。


「……追い詰める、か。まあ、そう見えなくもないね」


 しかし降ってきた言葉は、それほど強いものではなかった。むしろ優しすぎた。橘が三善へ目を向けると、三善は皿を見つめながら何やら考えごとをしているようだった。


「多分、そのひとで間違いないよ。自分でも馬鹿だと思うくらいに引きずっている。好きすぎたんだろうな。子供の気持ちってのは恐ろしいよ、本当に」


 三善は、橘に机の引き出しから書類ケースを出すように指示した。言われるがままに、橘はその引き出しを開ける。中は相当散らかっていたが、その書類ケースだけはすぐに見つかった。透明なプラスチックのケースで、桃色の留具がついている。クリップで左端を留めてあるいくつかの紙束、白い封筒などが乱雑に入っているのが見えた。


「前にちょっとだけ話したけど、おれの後見人がホセだ。だけどあいつは当時海外出張ばかりでろくに帰ってこなかったから、実際に一緒にいたのは横にいるもうひとりの方だった。ケファ・ストルメントという」

「ケファ……?」

「アラム語で『岩』という意味の名前だ。その名の通り頑固で厳しくて、結構スパルタだったけど、優しくて料理上手で頭がよくて、最後までおれのことばかり考えてくれた人。おれはあれ以上の人を知らない。正直ホセも彼には劣る。それくらい、大好きだった」


 書類ケースを橘から受け取ると、三善はその中から小さな茶封筒を取り出した。随分汚れた封筒である。その封筒から数枚の紙を取り出しながら、三善は続ける。


「三年くらい一緒にいたけど、途中で転勤が決まってね。その時におれ、『あのひと』と約束したんだ。どっちが先に司教になるか競争だ、って。次に会った時に、イヤー・カフは返せって。そういう約束をして、『あのひと』は次の赴任先のドイツに行った」

「……そのひとは、今どうしているんですか?」


 三善は封筒の中身を橘に渡した。

 新聞記事のスクラップだった。何枚もあるということは、おそらく複数の新聞記事を集めたものだろう。そこには大規模な飛行機事故の記事が書かれていた。他のスクラップを覗くが、どれも同じ内容の記事らしかった。


 はっとして橘は三善を見た。彼は笑う訳でも泣く訳でもなく、ただ無表情を貫いていた。その手の中にあるのは、いつも彼が身につけている傷だらけの銀十字。鈍い光を纏った冷たい金属。それを触る仕草が、なんだか悲し気に見えた。


「――ものすごく大きな事故でさ。それに乗っていた人のほとんどは身体が見つかっていないと聞く。冬の海はさぞ冷たかったろうに……」


 暫しの沈黙。それ以上橘は聞きたくなかった。何て残酷なことを尋ねてしまったのだろう。俯き足元に目をやると、脳裏に微かな声がよぎる。


 、と。


 あまりに無意識すぎて、その言葉の違和感にすぐに気が付くことはなかった。数回その声を脳内で反芻した時、突然三善が口を開いた。


「しあわせな夢を見たんだ」


 沈黙のカーテンをはぎ取った彼は、ひどく穏やかな表情を浮かべている。瞳の赤にたゆたう感情は、一体何を意味しようとしているのだろう。このときの橘には理解できなかった。


「こうして眠っていたら、あのひとがやってきてさ。頭を撫でながら言うんだ。『がんばれ、三善』って。目が覚めたら頭に感触が残っていた。そんなはずないのにね。でも、すごく嬉しかったよ。夢でもよかった。あのひとがここに居たんだ」


 それはそういう写真だ、と締めくくり、三善は器を盆に返した。


***


 盆を片手に橘は部屋を後にした。

 しんと静まり返った廊下は暗く、漆黒に塗り潰されていた。大分長居してしまったものだ、おそらくもう晩の祈りは終えてしまったと思われる。


 ふ、と息を吐き出すと、三善が最後に言っていた言葉を思い出す。


 しあわせな夢を見た、と。

 彼がそう言った理由を、橘は知っている。


 食堂の下膳台へと向かっていると、背後から突然声をかけられた。橘はゆっくりと振り返り、その声の主を確認しようとする。暗闇の中でじっと目を凝らしていると、徐々にその姿が露わになる。


「ああ、ブラザー・ヨハン」


 そう、彼だった。彼は支部に書類を提出するため、たまたま今日ここにやってきていた。そこで出会った橘から「三善が寝込んでいる」旨を聞くや否や、彼は心配だから見舞いさせてくれないかと頼んできたのである。そのことに何も疑いがなかった橘は、彼をすんなりと三善の部屋まで案内した。それがつい二時間前の出来事だ。


 ――だが、『あの話』を聞いた今なら、それはもしかしたら間違いであったかもしれないと思ってしまうのだった。


「道に迷っちゃって。もしよければ出口まで案内してくれないかな」

「ああ、いいですよ。ちょっとこれを下げてくるので、待っていてくれませんか?」


 そう言って手にしていた食器を指す。

 ヨハンがついて行くと言い出したので、橘は彼と共に歩き出した。


「ここの支部は広いですね。前にいたところはこんなに入り組んでいなかったし」

「前はええと……ドイツ、でしたっけ?」

「はい」


 彼がいた支部では主に生命に関する研究を行っているそうだ。その中で彼は一般部門に所属し、地道に修業を積んでいる。この歳にして未だ助祭にも満たないけれど、本人はそれで納得しているようだった。


 そのように話してくれる彼はとても穏やかな表情を浮かべていた。なぜこのようなしっかりした人が昇進できないのか甚だ疑問であったが、それについては敢えて触れないことにした。きっと、誰でも触れられたくないことのひとつやふたつあるはずだ。


 橘は気を取り直して、明るい口調で言った。


「ドイツと言いますと、イヴが造られた場所ですよね」

「イヴ?」

「ああ、『A-P』っていう、ウチの秘書ロボットですよ。もう充電をしに中に入っちゃいましたけど」


 それを聞き、ぴくりとヨハンが眉を動かした。すごいですよねー、と一方的に話している橘をよそに、彼は何か思案しているようだった。


「そうか……別の許可が下りたのか」

「え?」

「いや、なんでも」


 にこ、とヨハンが破顔した。


「それにしても、君の先生はよほど優秀なんだね。私なんかよりずっと若いのに、司教として過ごしていらっしゃる」

「放蕩者ですけどね。喫煙するわ逃げるわ、結構大変です。でも、優秀なのは本当みたいですよ。俺はいまいちよく分からないけど。きっと、あの人と一緒だった人が相当すごい人だったんだろうなーって。そう思います」


 ヨハンはきょとんとした顔で、その真意を尋ねた。


「センセの先生らしいです。すごく優秀だったって、本人が言っていましたから――でも、」

「でも?」


 にこにこしながら話していた橘の表情が若干変化したのを、ヨハンは見逃さなかった。

 ただの笑いではない、その中にはどろどろとしたあらゆる感情が渦巻いているようにも見える。橘は、少なくともその『先生』とやらにあまり良い印象を持っていないらしかった。


「もしもどこかで出会うことができたなら、俺はその人を一発殴ってやりたいです」


 ぴたりと、ヨハンが足を止めた。橘はそれに気が付いていないらしく、話しながら先を行く。


「センセを苦しめるのは、どんな理由があろうと許せないです。俺としては……あ、すみません」


 先に行っちゃって、と橘は振り向いた。だが、その瞬間橘の視界が真っ暗になる。両目を覆うように何かが当てられていた。突然の出来事に橘は動揺し、それ以上の身動きが取れない。


 瞳を覆い隠していたのは、ヨハンの手だった。


「――君には悪いけど、その記憶はなかったことにしてもらう」


 刹那、脳天を貫くような激痛が走る。悲鳴を上げることもできなかった。

 ブラック・アウト。

 思考回路が強制的に断ち切られた。


 ぐらりと橘の身体が傾き、前のめりになってゆく。

 すぐにヨハンは右手で橘の身体を支えた。数拍置いて、器が床に転がる音が響き渡る。


 橘は瞳を閉じたままぴくりとも動かなくなっていた。彼の身体を覆うように、白いプラズマが走る。


 ――意図的に失神させたのは悪いとは思う。こんな子供に使うような能力ではないということも。


 だが。


「君の先生に告げ口されても困るんだ」


 そう呟いたヨハンは、微かに悲しげな表情を浮かべていた。

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