第二章 (9) 嘘を三回、

 ――ま、そう簡単に嫌いにはならないだろうな。

『   』は笑い、三善のふわふわの頭を撫でた。無骨な手に似合わない、優しい撫で方だった。


 これは己の記憶ではない。それは理解しているつもりだが、奈何せんその境界線は極めて曖昧なのだ。もしかしたら、単純に記憶を違えているだけで自身が実際に体験したことなのかもしれない。確かめる術がない以上、そう言い切ることは決してできないが。


『   』はベッドで安らかに眠る三善を見つめ、そっと右手をふわふわの灰毛に添えた。の記憶のように。確かこんな感じだった、と確認するかのように。


 ゆっくりと頭を撫でてやると、微かに三善の睫毛が動いた。起きるかと思った。しかし、暫しののち彼は再び眠りの世界に旅立っていた。すう、と静かな吐息だけが聞こえている。


 安堵の息をつくと、『   』は下がりかけた眼鏡を左の中指で押し上げた。

 昨日の彼は己の姿を見てひどく動揺していた。今まであんなに強い拒絶を示されたことはなかったから、こちらも驚いたけれど。


 しかしその左耳に在る、確かな痕跡が。

『   』が彼と共に在ったという、確かな痕跡が嬉しかった。


「――がんばれ、三善」


 今はそう簡単に戻ることができないくらいに、ずっとずっと遠くにいるけれど。絶対に迎えに行くから。


 だからそれまでは、三回だけ、嘘をつかせてほしい。


***


 ――しあわせな夢を見た。


 三善が目を覚ますと、室内はほの暗い闇に包まれていた。窓から差し込む白っぽい色の光がその中に一筋の線を残し、光と闇の境界線を生み出す。まるで何かの道標のようだった。


 彼はそのまましばらくぼうっと天井を見つめ、ゆっくりと赤い瞳を閉じた。

 まだその夢に浸っていたかった。それが例え残酷な願いでも、彼にとっては幸せ以外の何物でもない。


 部屋には己の体臭のみが漂っていた。今もひとり、己の海の中にいる。波間に漂い、思考だけが空気を求めて水の空を求めている。心地良かった。肩、指先、膝、つま先と、ゆっくり全身の力を抜いてゆく。息苦しさすら愛おしい。そして最後に、長い吐息を吐き出した。


 現実へ戻ってきた。

 徐々に思考回路が明瞭になってゆく。まるで大きな部屋の明かりを端から順番に点けていくかのような。ゆっくりとだが確実にスイッチを入れ、そして全ての明かりが灯る。もう大丈夫だと判断した。ようやく彼は夢の余韻から這いあがり、その右手を枕元へと伸ばす。そして安っぽい銀色の時計を掴んだ。


 時刻は午後五時。今日は週日日程のはずだから、今頃は皆晩の祈りを捧げ、夕食を食べ始めている頃だろう。

 きゅう、と小さく腹が鳴った。そういえば、昨夜少しだけ食事をとったきり何も口にしていない。どうして人間は腹が減るのだろうか。億劫ではあるけれど、食べなければもっと身体が悲鳴をあげることだろう。


 それは後々どうにかするとして、今日のサルヴェ・レジナは誰に任せようかと思案していると、控えめなノック音が聞こえてきた。


「センセ、ご飯食べますか?」


 橘の声だった。すぐに身体を起こし、三善は入室許可を下した。

 おずおずとした様子で橘が入ってくる。その手には水と食器が乗せられている。


「ああ、ごめん。わざわざありがとう」

「多分足りないだろうけど、ってみんな口を揃えて言っていましたけど。なにか他に必要なものはありますか。俺、持ってきますよ」

「いや、これで充分だ。お腹空いてきたところだったんだ、さすがタチバナ」


 とりあえずその盆をサイドボードに置いてもらうと、三善は思いっきり身体を伸ばした。かなり眠ったので気持ちがいい。こんなに寝たのは本当に久しぶりである。


「あーすっきりした。大分よくなったから、ちょっとだけ仕事しようかなぁ」

「ダメです。もうすぐ就寝時間ですから、黙って休んでください」


 確かにもうすぐ就寝時間ではある。だが、もう充分というくらいに眠ってしまったので、脳が覚醒してしまっている。

 ふむ、と三善は悩み、とりあえず食べてから今後を考えることにした。


「タチバナはなにか食べた?」

「ええ。今日はシチューだったんですよ」

「何、本当か」

「センセは元気になったら作ってもらってくださいね」

「……そんなことだろうと思ったよ。現実は甘くないな」


 いただきます、と手を合わせ、三善は散蓮華で白粥を掬った。ふわりと白い湯気が立ち上る。甘い澱粉独特の香りが何だかこそばゆく感じられた。


 橘はその様子を横でしばらく眺めていたが、ふと窓際にあった写真立てに目を留めた。わざわざ伏せられており、それに一体なにが写っているのかは分からない。


「センセ、あれは?」

「ん? ああ、」

 口に含んでいた粥を飲み込み、三善は答える。「見ても全然面白くないよ」

「覗いても?」

「いいけど」


 そ、と橘の手が写真立てに伸びる。ゆっくりと触れ、その木枠を返す。

 橘は思わず息を飲んだ。


 食べることに集中している三善は、それに全く気が付いていない。ただ黙々と食べ続け、時折手を止め休憩したりしている。

 橘が見つめる写真には、三人の人物が写っていた。ひとりはよく知っている。今よりも大分若いが、独特のアイボリーの瞳がその正体を表している。ホセ・カークランド司教だ。そしてその隣にいるのは、かなり背が低い赤目の少年。ふわふわの灰毛から察するに、これは持ち主本人だろう。今もたまに着ているプロフェット用に拵えた聖職衣と黄色の肩帯。ということは、三善が助祭の時に撮ったものだろう。


 そして最後の人物。橘を驚かせた理由はこれだった。


「これ……」


 そこに写っていたのは、ヨハンだった。

 否、正しくは「恐ろしくヨハンに酷似した人物」である。自分が知っているヨハンを「白」とするならば、写真のヨハンは「黒」だ。彼はどことなく気性が激しいような、そして神経質そうな表情を浮かべていた。金色の髪は目にかかる程度。眼鏡はかけていなかったが、その代わりに三善が身につけている十字のイヤー・カフが左耳に宿る。


 三善は手を止め、振り返った。


「それ、おれの家族写真」

「ああ、だからブラザー・ホセがいるんですか」

「うん。だから正確には、親権者を欠いた未成年と後見人その一・その二ってところだろうな。女々しいとは思うんだけど、それ以外に三人で撮った写真なんかなくてさ」


 大事なんだ、と一言付け加え、再び黙々と食べ始めた。時折啜るような濁音が聞こえてくるが、橘の頭にはその音は認識されていなかった。


 たしか昨日、三善がヨハンのことを口にした時は初対面のような素振りを見せていたと思う。それならば、この写真の人物は誰だ。もしや、これが三善を動揺させた原因なのだろうか。


 もしかしたら、聞いてはいけないことかもしれないけれど。橘の心臓がとくんと跳ねた。


「センセ」

「うん?」

「あのひとって……センセを追い詰める『あのひと』って、この人ですか?」

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