八月七日 6 (2) 変人の巣窟
***
一時間後、三善は道に迷っていた。
エクレシア本部が非常に入り組んでいる、ということはあまりに有名すぎて今更なのだが、実は本部に次いで入り組んでいるのがこの科学研なのである。
特徴的な看板もないし、道しるべになりそうなものもない。というより、巨大な物品を搬入することが多いため、廊下にはなるべくものを置かないようにしているのか。さすがの三善もすぐにそれに気が付いたので、無暗に看板探しをすることをやめてしまった。蛇のように絡まる謎の配線と電子扉を横目に、三善は小さく息をついた。
――これは、まずい。
この場所も何回か通った気がする。元の場所に戻ろうにも、どのようにして今の場所に辿り着いたのかも分からない。
「参ったなぁ」
三善は額に手をやりながら、休憩しようと壁に寄り掛かった。
いくら身体の中に『契約の箱』を入れたとはいえ、元々は相当の虚弱体質なのだ。他に比べると体力が少ないことは自分でも分かっている。最後に倒れたのは、確か司教試験三日前。研修中に貧血を起こしてぶっ倒れ、後からやってきたホセに苦笑されたのは記憶にも新しい。
本当にこの身体、使えない。
眩暈がようやく消えたところで、三善はそっと目を開ける。初めは少し揺らいでいた視界も、ようやく明瞭になってきた。
「それにしても、新しい先生、か……」
三善がぽつりと呟く。脳裏を微かによぎるのは、無駄に厳つい風体の司教の姿だ。
初めは、まったく受け入れられないと思っていた。こんな繋がりはいらないとも思っていたし、受け入れることしか道がないのなら、当たり障りのない範囲で適当に付き合おうかとも思っていた。
しかし、なんだか今の自分には、ああいう人間と共に過ごすことが必要なのではないかとも思ってしまうのだ。
「ああいう怒られ方をしたの、久しぶりだなぁ」
ぽつりと呟く。
ひとりになってから散々やんちゃしたので、ホセから怒られることはしばしばだったが、ジョンのそれはベクトルが異なるのである。ただ、その行為が「いけない」から怒るのではなく、その先に「なにが待ち受けているか」まで見据えている。なんとなく、その怒り方がかつての己の師のそれと似ていたのだ。
だから、ほんの少しだけ嬉しかった。
――怒られて嬉しいとか、どれだけマゾっ気あるんだよ。
自分自身に突っ込みを入れたところで、突如身体が軽くなった。否、今まで寄りかかっていた壁が軽やかな音を立て、ものの見事に消え去ったのだ。
「はっ……?」
さすがの三善も、一体何が起こったのか皆目見当もつかなかった。
まずい、と思った時にはもう遅い。重力を受け入れざるを得ない状況。一拍置いて訪れるはずの痛みを覚悟した。
――しかし、その瞬間は一向に訪れない。かわりに何かが受け止めてくれたような感触があった。
「おっと」
知らない男の声が、頭上から聞こえてきた。
三善がきょとんとしながら見上げると、彼の呆けた面を苦笑しながら見下ろす男がいる。
誰に似ているかと問われれば、かの美袋慶馬に非常によく似ていると思った。もちろん、西洋人らしい彫りの深い顔立ちは彼と似ても似つかない。しかしながら、その精悍な表情は彼の纏う神経質な雰囲気そのものだった。黒い髪はやや長めで、前髪をヘアクリップで右に流し留めている。
だが、その無精髭はなんだ。口に咥えている煙草はなんだ。
頭がいい具合に混乱してきたところで、その男がぽつりと呟いた。
「……君、きれいな目をしているね」
一瞬、聞き間違えたかと思った。
「すごい、完璧な赤だねぇ。炎の色かな。まるでグラス・アイみたい。その髪色も地毛でしょ?」
「え、あ、あぁ?」
「灰色なのに、ちょっとピンクがかってる。へぇー、こんな色あるんだぁ。一本ちょーだい。サンプルにしようっと」
なにこの、変な人。
ぷつっと一本髪を引き抜かれたところで、三善は我に返った。身体をがばりと起こし、一言文句を言ってやろうと口を開く。だが、結論から言うとそれはかなわなかった。大きく開いた口の中に、何かをずぼっと指し込まれたからだ。
「ふごっ……!」
太くて固い物体に、三善は目を白黒させる。
よくよく見ると、それはトウモロコシだった。きちんと茹でられたトウモロコシは、まだほんのり温かくて、ほのかに甘い。小腹が空いていた三善には、この誘惑は強烈過ぎた。
「それ、髪の毛のお礼」
男はにこりと微笑んだ。「おいしい?」
三善はこくりと頷く。一旦芯ごと口から引き抜くと、端の方を少しだけかじった。やはり、甘い。これだけ甘いトウモロコシを食べたのは初めてかもしれない。そもそもトウモロコシというものを数回しか食べたことのない三善は、その甘美な誘惑に完全に見了されていた。なんと言うことはない、三善はただ、空腹だっただけなのだ。
その間、男は三善の髪の毛をシャーレに入れ、愉しげにそれを眺めていた。うっとりとしながら、それを光に透かして眺めている。
「あ、そうそう」
そこで男が三善に振り返った。「もしも身体に異変が生じたら、すぐ僕に連絡してね」
それは一体どういう意味だ。
きょとんとしていると、開け放たれた部屋――実は、三善が寄りかかっていたのは自動ドアだったのだ――を誰かがひょいと覗きこんだ。
ジェイである。先程まで抱えていた書類は例の部屋に置いてきたらしい。空いた両手を白衣のポケットに突っ込み、機嫌よさそうに歩いていた彼女は、部屋の中を覗きこむなり以外そうに目を丸くした。
「あれ、ミヨシ君? こんなところでなにトウモロコシ食べてるの?」
ボクも混ぜてよ、とジェイもやってきたので、三善は己のトウモロコシを半分に折り、それを分け与えた。
「ありがとう。って……」
それを受け取ったジェイの表情が凍りつく。「ミヨシ君、これ、食べちゃったの?」
「え、はい」
「同意の書類にサインした?」
「なんです、それ?」
ジェイの顔から血の気が引いた。
その三秒後、背後で実に愉しそうにしている男にその拳をぶち当てた。華麗に決まったグーパンに、三善はなにが起こったのか理解できず、ただただぽかんとするばかりである。華奢な身体から繰り出されたとは思えないその破壊力。成人男性一人を余裕で殴り飛ばすその腕力を目の当たりにし、とりあえず、この人に逆らってはいけないということを三善は本能的に察した。
「アンディ! なんで試料なんか食べさせてるの!」
しりょう、だと。
三善がはたと動きを止めた。それって、つまりは、
「実験用……?」
アンディと呼ばれた男は、殴られた後頭部を擦りながら恨めしそうにジェイを見下ろした。
「髪の毛のお礼さ。本当はその目玉も欲しいけど、さすがにそれはできないからさ」
「人体実験するなら断食の上浣腸をしてから食べさせないと駄目でしょう! なんで徹底しないの!」
論点はそこではないと思う。
どこからどう突っ込めばいいのか分からないが、とにかくとんでもないところにやってきてしまったことだけは理解した。
身の危険を感じながら、三善はその場に小さくなる。なるべく、この男にその姿を見咎められないように。
その間もジェイの説教は続く。
「そもそも君、三十分で来るって言っていたでしょう? もう何時間経過したと思ってるの!」
「三十分じゃないよ、三十時間だよ」
男がのんびりとした口調で言うものだから、ジェイはとうとうがっくりと肩を落としてしまった。ジェイもなかなかにマイペースだとは思っていたが、そんな彼女を呆れさせるとは。
「まったく、例の『A-P』制作のためにミヨシ君がやってきたっていうのに……」
その一言に反応し、アンディはぴくんと身体を震わせる。興味を持ったのだろうか、先程とは一変、問い質すような口調でジェイに問いかける。
「ミヨシ君?」
「そう、そこのトウモロコシをかじってる少年のこと」
「それって、あの『ヒメラ・ミヨシ』?」
あの、ってなんだ。
しかしながら、三善を説明しようとすると大抵「あの」という接頭語がつくので、今更なにを言っても無駄なのだろう。三善は彼らのやりとりを眺めながら、小さくため息をついた。この人も他と同じか、と、少しばかり失望したのである。
ヒートアップするジェイの口調が、さらにその失望を煽る。
「そう、ウチの期待の新人、姫良三善!」
「この華麗なる人体模型が、あのヒメラ・ミヨシ!」
なんだか嫌な固有名詞になったぞ。
三善が目を逸らした刹那、男は目をきらきらさせながら三善の両肩を掴んだ。
「それは知らなかった!」
アンディは咥えた煙草を取り落としそうになりながら、楽しそうに語りかける。まるで新しく手に入れたおもちゃを愛でるような、実に奇妙な口調だった。
「僕、アンデレ・イーストマン。よろしくね、華麗なる人体模型君!」
慌てて三善が首を横に振る。
「人体模型になる気はさらさらない!」
「いやぁ、その身体、是非調べて見たかったんだよ。新入りっていうと結構面倒でね、できればお引き取り願いたいところなんだけど、君の身体はまだまだ未知の領域でさぁ。――あ、とりあえず採血から行こうか。それともMRIにする? DNA検査でもいいよ!」
「お、こ、と、わ、り、だっ!」
三善の平手打ちが炸裂したところで、まるで示し合わせたかのようにジョンがやってきた。
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