第四章 (7) そういう未来

「一つ目は、『美袋慶馬に打たれた“楔”を外す方法』。二つ目は『を前回誰が持っていたか』。あくまで実績ベースだが、参考になるだろう」


 帯刀はのろのろとメモを開き、内容を確認する。


「これ……」

「三つ目はサービスだ。俺の昔の知り合いなんだが、アメリカで義肢装具士をやっている奴がいる。そいつに話はつけておいた。あれが目覚めたら連れて行ってやるといい」


 呆然とした顔で帯刀はメモとトマスを交互に見やり、気の抜けたような声色で言った。


「本当に、いいのか?」

「俺がしてやれることはせいぜいこれくらいだからな」


 トマスはにかっと気さくに笑い、帯刀の肩を叩く。


「お前たちはこれからが大変になる。せめてあれが目覚めるまでは、お前も少しくらい休んだらいい。お前がどんなに悩もうが苦しもうが、あれが起きるタイミングは本人しか知らないんだから」


 だから気張りすぎるな、とトマスはゆるゆると目を細める。彼なりに励まそうとしているのだ。

 帯刀は小さく頷き、メモを改めて胸ポケットにしまい込んだ。


「うん、それでいい」


 さて、とトマスは大きく伸びをし、ズボンのポケットに手を突っ込む。


「俺はそろそろ行くよ。悪いが、しばらくは会えないと思ってくれ」

「どこか行くのか?」

「ちょっと古巣まで。二、三年くらいで戻るつもりだ」


 なんのために、とは言わなかった。ただ、彼は一言、残された“第一階層”のことは頼っていいと付け加えた。


「それは、『そういう未来』だからか?」


 帯刀の問いに、トマスははっと瞠目して見せた。


「――うん、そう。そうだな。『そういう未来』、だからかな」

 しかし、とトマスは続ける。「先のことなんざ誰にも分からないさ。たとえお前がその『青い目』で未来を予測したとしても、その筋書き通りに行かないことだってある。そして、予想もしないことが原因で一見関係なさそうな範囲にまで影響が及ぶこともある。日本の言葉にもそういうのがあったろう。ええと、何て言ったっけ。『風が吹けば桶屋が儲かる』?」


「ああ、合っている」

「少なくとも、“強欲”と“色欲”はお前の力になってくれると思うぜ。あれらは何度も何度も、今とは違う時間軸でお前に助けられている」


 じゃあな、とトマスはひらりと身を翻し、帯刀へ背を向ける。

 彼が屋上の扉を閉めるまで、帯刀はその背中をずっと見つめていた。


「おれに、できるだろうか」


 呟いた刹那、ふと、寒さを感じた。空を仰ぐと、曇天から白い雪がちらつきはじめたところであった。


***


 帯刀が慶馬の病室に戻ると、彼は目を閉じたままベッドへその身を沈めていた。数十分前に部屋を出た時となんら変わらない光景がそこにはあった。


 ベッド脇にパイプ椅子を置くと、大きな音を立てぬようそっと静かに座る。


 本来なら、帯刀が近づく気配だけで彼は目を覚ますはずなのだ。それなのに、今はじっと目を閉じたまま動かない。これほど深く眠りについているところを、帯刀は今回の件で初めて見た。


「――早く、起きろ。慶馬」


 右手で頬をそっと撫ぜる。するりと頬から黒い髪が滑り落ちた。


 涙は出ないのに、不思議と掌に汗をかいてしまう。何を食べても味がしないから、自然と食事の量も減っていた。眠気などとうに忘れてしまった。数日前に見かねた医師が鎮静剤を打ち、それでやっと数時間眠りについたほどだ。


 春風が「誰か実家から人を呼ぼう」と提案したのだが、家の者にも、勿論美袋家の者にも合わせる顔がなく、すぐに帯刀は拒否してしまった。


 いつまでもこうしている訳にはいかないのだ。分かってはいる。しかし、どうしてもこの状況を受け入れられない。


 疲れたな、と帯刀はぽつりと思う。


 脇にあるサイドボードにそっと身体を預け、目をそっと閉じる。


 暗闇の中、ここ数日間の出来事がぐるぐると頭を巡る。何度も何度も、反芻するようにあの橙のプラズマが思考を焼いてゆく。まるで脳細胞のひとつひとつの結合力を弱めていくかのように、溶けて溶けてどろどろになっていく。


 ああ、と思う。


 どうして慶馬だったのだ。先に、自分がやればよかっただけだ。自分自身に憤りを隠せない。いっそのこと、今ここで釈義を展開し自身を氷漬けにしてやろうか。しかし、そうすると慶馬のことは一体誰が見てやれるのだ。ただの逃げでしかないのではないか。


 どうせなら、共にすべてを投げ捨ててしまおうか。


 その時、眼前で何かが動いたような気がした。


 帯刀がのろのろと瞼をこじ開けると、変わらない景色がそこにはあった。

 ――ただひとつだけ、慶馬の目が開いていたことを覗いては。


「けっ……!」


 思わず叫びそうになった。


 その声に反応し、慶馬はゆっくりと首を横へ向ける。数回ゆっくりと瞬きをし、乾いた唇をゆっくりと動かした。


「――、」


 慶馬は、帯刀は、ともに瞠目した。

 彼は何度も何度も、口を動かしている。しかし、喉からは空気が抜けるだけだ。


「けい、ま?」

 帯刀は静かに尋ねる。「慶馬」


 何度も繰り返したのち、慶馬は呆然とした様子で口を閉ざす。その表情には、絶望の色がありありと浮かんでいる。



 神はどこまで我々を試すのか。



「……もういい」


 帯刀の言葉に、慶馬の頬が微かに歪んだ。


「慶馬、もういいよ」


 帯刀は、ゆっくりと言った。枕元にぶら下がるナース・コールを探し、それを押す。


 ゆき、と慶馬の唇が動いた。


 帯刀は悲しげに微笑み、それから、まるで子供に言い聞かせるような声色で囁く。


「すこし、ほんのすこしだ。やすもう。おれたちは、いっしょに、やすむんだ」

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