第三章 (10) 私怨
自分がいておきながら、三善が攫われてしまった。
己に対するふがいなさと怒りに苛まれているケファは、自分の横でずっと電話をかけているホセのことなど目もくれず、ただ白っぽい色をした床をじっと眺めていた。
不覚だった。いつも実戦に出ているということから気が緩んでいたのかもしれない。それよりも明確に突きつけられたのは、自分の実力のなさだ。あの程度の力では、『彼』にほとんど太刀打ちができなかったのだ。
その上、こんなときに釈義が上手く使えないとは。自分は何のために今まで訓練してきたのだろう。こんなところで使えないのでは話にならない。思わず握り拳を壁に打ち付けると、思いの外大きな音がして壁掛けの額が傾いた。
黒い聖職衣は先程の戦闘でほとんど使い物にならなくなったので、代わりに白い聖職衣に袖を通す羽目になった。勿論ホセの指示である。
「……ええ。それじゃあ、またあとで」
ホセがようやく電話を切った。そして、両腕にワイヤー装置がついていることを確かめると、その辺に放置していたスーツのジャケットを羽織る。
そこで彼はようやく、動揺しきったケファに目を向けた。これだけ動揺した姿を見るのは初めてである。ただでさえ『釈義』がらみで精神が不安定だったところにこの大打撃。もしかしたら心が折れているかもしれない。一抹の不安を覚えながら、ホセはそっと話しかけた。
「ケファ。大丈夫ですか」
「全く、大丈夫じゃない」
オブラートに包み隠すことすら忘れ、苛立ちに任せた言葉が口を突いて出た。そんなことを言うとは思っていなかったらしく、ケファは自分のことなのにひどく驚いている。しかし、一度言葉にしてしまえば止まらない。ケファは力任せに無理やり続けた。
「俺、よくここまでやっていけたと思うよ、本当。ひとりで焦って、空回って、結局三善を守れなかった」
「あなたバカでしょう」
すぐさまホセが切り返した。
「バカって言う方がバカだ!」
「よかった、言い返す元気はありますね。これからのことを説明します。今から私はヒメ君を追いかけます。先にマリア行かせましたので、おおよその場所は分かりますから安心してください。あなたは私と一緒に付いてくること。何か異論があれば今のうちにどうぞ」
「俺を連れて行ったところで足手まといだろ」
沈黙が流れた。
ホセはじっと押し黙り、凝視してくるケファを強い視線で睨み返していた。アイボリーの瞳がこれだけ彼のことを毒々しく見つめることなんか、過去にはなかった。そう、それは初めて見せる表情だった。
しかしながら、ケファは物怖じするどころか逆にそれ以上の鋭さで睨み返す。
「役に立つかどうかの問題ではありません。あなたなら分かるでしょう、ヒメ君の一番傍にいたのはあなたですから」
「分からない」
自棄になった返答に、とうとうホセが切れた。右手の拳を思いっきり強く握り、間髪いれずケファの左頬に命中させる。なんとも表現し難い、ものすごい音がした。勢い余った末にケファの身体は大きく傾き、椅子から落ちる。
痛む右手を左手で覆いながら、ホセは倒れ込むケファを真上から見下ろした。反論すらさせない気でいるらしい。確かにその表情は、鬼のように恐ろしい形相だった。
「ヒメ君は僕のことなんか待ってない!」
左頬を押さえながら呻くケファが耳にしたのは、そんな一言だった。驚いて目を瞠るも、なぜか真正面からホセに向き合うことができなかった。
「あの子が本当に待っているは父親である僕じゃない。あなただけだ。ヒメ君が望むならと耐えてきましたが、もう限界だ。なんでこんなにも情けない男にばかりヒメ君はついていくんだ、あなたははっきり言って顔と頭がいいだけでしょう!」
「お前それはただの私怨だろ!」
「むろん私怨だ! これだけ吠えても結局はあなたに敵いっこない。あなたは分からないんじゃない。分かりたくないだけだ。気づきなさい! 現実から目を背けるな!」
そして極め付けに、乱暴な手つきでホセは何かをケファに投げつけた。丁度金属の堅い部分が頭に命中したので、「いってぇなこのっ……」と、文句を言いかけ、
「……これ、」
やめた。
ホセが投げつけたのは、先日ノアが持ち帰った新品の銀十字だった。まだ傷一つ付いていないそれは、彼の手の中で優しく輝いていた。その中心部には、赤い色をしたガラス玉がはめられている。その深い赤が、三善の深紅の瞳を連想させる。
「黙ってついて来い、ケファ・ストルメント。そうでなければ神父なんかやめて、とっとと実家にでも帰ればいい」
ホセが猛る。
銀十字をしばらくじっと見つめていたケファは、一度だけ瞼を、それからゆっくりと開けた。金の髪から覗くアメジストの瞳に宿るは、燃え盛る炎。そして、彼はゆっくりと銀十字を首に下げる。
「……頭が冷えた」
「そりゃあよかった。怒った甲斐がありました」
自分で殴っておきながらさすがに申し訳ないと思ったのか、ホセは冷やしたタオルを奥から持ってきて、それを差し出した。
「ありがと」
ケファが受け取ると、安心した様子でホセはようやく微笑んだ。
落ち着いたところで、二人は静かに部屋を出る。三善が連れ去られたことについては、ホセの部下が引き継いで処理してくれているらしい。なるべく、その手の噂は最小限に抑えるべき。彼らの中での暗黙の了解がそこにはあった。
本部の出口はすぐそこである。そこを通り過ぎようとしたとき、急に誰かに呼びとめられた。
見知った少女の声だった。
「あ、土岐野さん」
土岐野が息を切らせながらこちらに走ってくるところだった。どうやら二人をずっと探していたらしく、やっと見つけた、と安心した口調で彼らにすがりつく。
「どうしました?」
「三善君のところ、行くんでしょう? これっ」
まずはケファに小さな革袋を付きつけた。「さっき、ジェイさんっていう人に会ったの。これを渡してくれって。中身は見れば分かるそうです」
「ジェイが……そうか」
中身は予想がついた。だからそれ以上何も言わず、礼だけを言って受け取った。
「それから、
言いきる前に、彼女はホセの両手を強く握った。そして全神経を集中させるために瞳を閉じ、小さく呟く。
「『
彼の身体が釈義による独特の熱の巡りに満たされてゆく。頭の先から、つま先まで。すみずみに循環する力はゆっくりと彼の中に蓄えられてゆく。
「土岐野さん、」
さすがに戸惑い、ホセが小さく名前を呼んだ。しかし土岐野はやめようとしない。これ以上釈義を送ったら彼女が倒れてしまうのに、それを顧みず限界までホセに力を託してゆく。それ以上、何も言えなかった。
ようやく土岐野が手を放したときには、既に彼女は疲れ切ってしまい、身体を少しふらつかせていた。しかし、気を取り直しすぐにホセを見上げる。
「……私の力、三善君のために使ってください。これならしばらく、微弱かもしれませんが一時的に釈義を展開できるはずです」
そして、キッと強いまなざしで目を瞠る二人の神父を見つめ、彼女は言ったのだった。
「三善君を連れて帰ることができなかったら、私一生恨みますからね!」
その必死さが、なんとも言えず……可愛らしかった。
ぷ、と彼らは思わず噴き出し、機嫌を損ねたのかさらに頬を膨らます彼女の頭をなだめるように撫でた。
「いってきます」
「ここは任せたぞ、嬢ちゃん。絶対連れて帰ってくるから」
「絶対ですよ!」
そして彼女に見送られながら、二人は本部を出た。
曇天だった。今にも雪が降り出しそうな、重たい雪が空をのっぺりと覆い尽くしている。嫌な天気だった。今日は十二月二十四日。本来ならば、今日は三善の誕生を祝う予定だったのだが。とんだ誕生日になったものである。
――とにかく、行かなくては。
「どのあたりに行けばいい」
ケファが尋ねる。
「マリアによると、どうやら八区の方を車で逃走しているようです」
「そうか……八区ね」
適当に空いている公用車に乗り込むと、運転席でケファは乱暴にシートベルトを締め、エンジンをかけた。ホセが助手席で少しばかり不服そうな表情をしたが、こういうときの運転は彼に任せた方が無難であると知っているので、敢えてなにも言わなかった。
ケファは先程渡された革袋の中から、細いシガレット状のものを取り出した。それを口に咥えると、聖職衣のポケットを探り――ホセへ目を向ける。
「ホセ、火持ってる?」
「煙草ですか、それ。だとしたら僕は嫌ですよ」
「違う、ただの薬だ。さっきジェイが持たせてくれたやつ。煙状の鎮痛剤なんだって」
それって身体に毒なんじゃないでしょうか、と呟きながら、ホセは懐からマッチ箱を取り出した。火をつけてやると、じゅ、と燃える音がして、メントールに近い匂いが車内にたちこめた。ホセの嫌いな匂いだ。それを知ってはいるし今も彼は嫌そうな顔をしていたが、これを摂取しない以上動けないケファは彼のことを完全に無視した。
「ありがと」
ギアを切り替え、アクセルを強く踏み込む。猛烈なエンジン音と共に、その小さな車体は猛スピードで本部を後にした。
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