第二章 (9) 正義の定義
ひとまず明日に改めて話をするということで、一旦この場はお開きになった。
そうしていると、トマスが小さなカップを持ってやってきた。白いカップの中には琥珀色をした紅茶が入っており、湯気がふわふわと立ち上っている。優しい、いい香りがした。
「ほらよ。毒は入ってねぇぞ」
帯刀はそれを受け取ると、慶馬がなぜか睨みを利かせてくるので、しぶしぶ一度それを引き渡した。彼が一口だけ頂くと、無言でそれを帯刀に返す。耳元でそっと「いつものように」と囁いてきたので、とりあえず毒味の結果は良好だったようだ。
渋い顔をしながら帯刀がカップに口をつける。
「ん、ファースト・フラッシュか」
「お、さすが王子様。舌が肥えていらっしゃる」
「紅茶は好きだ」
他の第一階層は、早々に「やることがある」と言って引き上げてしまった。トマス曰く、この場所はただの本拠地というだけで、彼らは普段別行動ばかりとっているのだという。床に転がっていた“怠惰”すらも用事があると言って出て行ってしまったのだ。おそらくトマスの説明はその通りなのだろう。
「さて。どうだった、あいつらの話は」
トマスが尋ねると、帯刀がだるそうな口調で言った。
「驚き……、じゃないな。心底恐ろしい」
帯刀は額に手をやり、微かに眉間に皺を寄せる。しばらくして急に何かに気がついたらしく、ぱっと顔を上げた。
「そうだ。前回、俺たちはどうなった?」
トマスが自分のカップに紅茶を注ぎつつ返答する。
「ん? うん、死んだよ。お前たちだけでなく、全員」
随分あっさりとした口調で言われたので、「あ、そう……」としか返せない帯刀であった。
「――だから俺は“十二使徒”も“エクレシア”も全部蹴っ飛ばして、“七つの大罪”に寝返ったんだ」
トマスが言う。「“教皇”の命を受けたからではなく、これは俺の本心だ。姫良三善もかわいそうな子だよ。結局のところ、あれは『終末の日』を阻止するためだけに生まれた子だからな。あまりにかわいそうだから、俺は今回、彼が聖職者の道に踏み込む前に止めに行ったんだ。要するに彼がそちらの道に進まなければいいと思って。でも、失敗した」
ことん、と小さな音を立て、テーブルの上にポットが置かれた。トマスの瞳は揺らぐ琥珀色の水面へ向けられている。
「――止めようとするたびに、俺はホセ・カークランドに殺される」
彼は背を向け、ほんの少しさみしそうな口調で言った。「何度も何度も。あいつは執拗に刺してくるんだよ。あいつはそれしか自分の“正義”を貫く方法を知らない。その刃を受けるたびに考えるんだ。ああ、こいつもかわいそうなやつだな、って」
そして顔を上げる。彼の深海のような瞳は、瞬間きらりと銀色の光彩を放った。その色は、まるで刃物の切っ先のように鋭く、そして美しい。魅入られたら最後、その中に取り込まれてしまいそうだった。
「結局“正義”なんてものは、ただの人間のエゴでしかねぇんだよ」
帯刀はそれきり、黙り込んでしまった。彼に今、見えないナイフで切りかかられた、と思った。それで心臓を抉られた。だから今、こんなにも痛いのだと思う。
「……なあ、お前はどう思う」
「ん?」
「正義の定義とは」
帯刀は囁くような声色で尋ねた。言っていることが無茶苦茶だと、自分でも分かっている。しかし、どうしても彼の口から直接聞いておきたかったのだ。
トマスは一度きょとんとしていたが、しばらくの後ゆっくりと答えた。
「定義なんかなくても、世の中どうにでもなるだろ」
「それもそうだ」
ふふ、と笑い帯刀は席を立つ。カップを返そうと思ったのだ。トマスへ近づこうとしたその時、鼻に何か異様な匂いを感じた。
腐臭、だろうか。少しだけ油っぽくべたついた、甘い臭いだ。帯刀は小さく首をかしげた。こんな臭いがする要素など、どこにもないのだが。
トマスはああ、と気さくに笑う。
「悪い。やっぱり臭うか」
「いや、……何の臭い?」
尋ねると、「見るかい?」とトマスは突然上に着ていた服を脱ぎ始めた。聖職衣を連想する黒いジャケット、そして下に着ている白いカッター・シャツ。それらを順に脱いでいく。
「お前の質問の答えだ。『防腐剤でも入っているのか?』」
驚愕した。
彼の首筋から背中の中央部にかけて、皮膚が爛れたように変色し、そこから生臭い奇妙な臭いが立ち込めていたのだ。
そう、彼は文字通り『腐食していた』。
帯刀と慶馬の度肝を抜いたところでトマスはにやりと笑い、すぐに無効化の釈義を展開し元の綺麗な皮膚に戻した。先程のグロテスクな状態が、今は嘘のように跡形もなく消えてしまった。
「この“無効化”の能力もさ、もう長く持たないんだ。身体が限界らしい。俺も新しい身体、探さなきゃな」
どこかに綺麗な身体、落ちてないかな?
冗談めかして言う彼だったが、どこまで冗談で言っているのか分からないので単純に怖いと思ってしまった帯刀だった。
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