第二章 (1) 交換条件
夜は適当なビジネスホテルを借りて過ごした。
帯刀が目を覚ますと、既に日は大分高い所まで昇っており、白っぽい青空がきらきらと輝いていた。昨夜はやはり雪が降ったらしく、まだコンクリートの道路は湿っている。窓を開けると、キンと冷え込んだ風が身体を冷やした。しばらくぼんやりと窓辺から覗きこむようにして外を観察していたが、飽きてしまったのだろう。帯刀は窓を閉め、おもむろに着替えを始めた。
慶馬が夜のうちに用意していたらしい新品のシャツに袖を通すと、プレスが効いた黒のスラックスを履く。青色のタイを締め、カフスで袖口を留めると帯刀の表情はすっかり仕事用のそれになる。
靴下を履きながら備え付けのテレビを点けると、同時にドアをノックする音が聞こえてくる。
「開いている」
短く返事すると、扉はゆっくりと開いた。
顔を覗かせたのは、意外なことにトマスだった。まだ寝起きのままらしく、白金の髪はぼさぼさで、ホテル備え付けの浴衣に羽織を纏ったままである。既に準備の大半を終えている帯刀を見て多少は反省したのだろう、「悪ぃな、まだ起きたばかりだ」と自分の現状を告げた。
「ん、気にするな。俺が着替えたいだけだ。……慶馬は?」
「もう起きて、どっかに行ったみたいだぜ」
「ふぅん。まあ、いいか」
火の付いていない煙草をくわえ気さくに笑うトマスを横目に、帯刀はだらだらと流れるニュース番組をじっと見つめていた。ただ無言で、口元に手を当てながら何かを考えている素振りでいる。ここまで朝のニュース番組をじっとりと凝視する人間はなかなかいないだろう。なんとも不思議な光景だった。
「そういうのもいちいち覚えるのか?」
「いや、別に覚える気はない。ただの引き出し運動の練習だから、気にしないで」
「引き出し?」
「俺の記憶は全部脳の引き出しに入っている。それを上手に開けられないと話にならない」
なかなかに複雑な比喩を使うものだから、トマスはかえって混乱してしまった。暫しの逡巡ののち、それはそういうものだと言い聞かせることにする。
「こうして話していても大丈夫なのか?」
「問題ない。続けて」
ただ朝の雑談をしにトマスがやってきた訳ではないということに、早くも帯刀は気づいていたようだ。こりゃあやられた、とトマスは苦笑し、それから本題に移ろうとする。
「ちょっと相談なんだけど、お前、俺たちの仲間に会ってみる気はある?」
「仲間、というと、“
「そう」
帯刀が微かに眉間に皺を寄せた。その目は未だにテレビに向けられたままだが、明らかに先ほどとは雰囲気が異なる。何やら考え込んでいるようにも見えたので、トマスはその真意を伝えるべく口を開いた。
「俺はユキから『契約の箱』の所在を聞き出せればいいし、ユキだってそれと等しいだけの対価を求めればそれで足りるだろ。しかし、だ。俺はそれとは別に、お前さんにちょっと意見を聞きたいことがある。そのためには“七つの大罪”に会って話を聞いてもらうべきと考えている」
「意見?」
「ああ。ユキは一応聖職者、ということでいいんだよな。神学は勉強した?」
帯刀の隣にトマスが腰掛けると、ようやく帯刀はテレビの電源を落とした。そして、その薄氷の瞳をそっとトマスへと向ける。その目に浮かぶは困惑だ。
「少しは勉強したけど、あまり得意じゃないな。そういうことは、ブラザー・ケファあたりに尋ねるのが良いのでは? あの人は博士号を持っているだろ」
「一口に神学と言っても分野があるからその辺は正直分からんが、まあいいや。大聖教における時間の概念については分かる?」
帯刀は少し考え、ぽつりと呟いた。
「大聖教においては、直線的時間、だったか」
「そう、それだ」
直線的時間というのは、「過去から未来へと流れる」時間という考え方のことを指す。時間は有限であるから、始まりと終わりがある。唯一神だけは無限の時間を持っており、その神が初めと終わりを決めている、というような内容である。帯刀はそのあたりまでは数直線を頭で描きながらなんとなく理解したような覚えがあったが、正直専門範囲外の話なのであまり詳しいことは分からなかった。
「その心は?」
「“七つの大罪”は少し変わっていて、その直線的時間、というやつを認識できる――と言ったら、信じる?」
「は?」
帯刀はトマスが何を言っているのか全く理解できず、つい間の抜けた声を上げてしまった。
「悪い、言っている意味が分からない」
「うん、だから百聞は一見に如かずと思って、“七つの大罪”と少しお話してもらいたいんだ。それを聞いて、ユキがどう思うかを知りたい。可能だろうか」
相変わらず軽い口調で話すトマスだったが、帯刀の『青の瞳』には彼が嘘をついているようにも見えなかった。
時間を認識できる、というのは一体どういうことだ。そして、それを今このタイミングで暴露するというその理由も帯刀には分からない。ただひとつ言えるのは、それを聞いてしまえば最後、帯刀雪という男は大聖教にも“七つの大罪”にも従わない永久中立の立ち位置になるしかない、ということだけである。
元々帯刀家は特定の団体に所属しない中立の立場を貫き通していたのだから、本来あるべき姿に戻るだけなのだが。しかし、そうなると困ることがいくつかある。
帯刀は順番に思考を巡らせ、よくよく考えた末に、ひとつの結論を出した。
「分かった。是非会わせてほしい」
ただ、と帯刀は続ける。「そうなると、お前の要求はふたつになり、対価が対等でなくなる。だから俺はそれに対する対価を提示する。俺の要求は『美袋慶馬の“楔”を外す手立てを教えろ』。これが可能ならそちらの要求を呑む」
「昨日も言ったが、それは十分に可能だ。やっぱユキは聡いな。おーけー、その条件に乗った」
そう来ると思ったぜ、とトマスは笑い、帯刀の背を強く叩いた。さすがの帯刀もこれには驚いたらしく、不満の目をトマスへと向けた。
空色の瞳にぼんやりと浮かぶ、白の十字。聖痕がトマスの深海の瞳を射る。自分の姿はあまり見えていないのではないかと思うのだが、どうしてだろう。その鋭い視線がこちらの感情を捉えて離さない。この人になら、何でも話せるような気がしてならない。そういう気持ちにさせる何かが、彼の視線に宿っているのだ。
トマスはふ、と笑うと、少しだけ近づいて帯刀の瞳を見る。人のことは言えないが、彼は変わった瞳の色をしている。確か彼は生粋の日本人だったと思うのだが。どうしてこういう色が出るのだろうかとさらに首を傾げる。
「近すぎ。お前たちは何でそう、ベタベタしてくるんだ」
さすがに近づきすぎたらしく、帯刀に露骨に嫌そうな顔をされた。そういえば大分昔、まだ一度も“死んで”いなかった頃、ホセにも同じことを言われた気がする。近すぎる、と。
本人はそんなに近いつもりはないのだが、嫌そうにされたのなら仕方ない。きれいだからもうちょっと見たかったんだけどなあ、としぶしぶ離れた。
「今ここに慶馬がいたら刺されていたぞ」
「ああ、またあれに殺されるのはちょっとなあ。痛いし」
じゃあ刺される前に退散しますよ、とトマスは一旦自室へ戻ろうとし、部屋の戸を開けた。
帯刀はぽつりと呟く。
「たぶんそれ、フラグ」
「あ」
そこに立っていたのは、噂の美袋慶馬だったのは言うまでもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます