第三章 (9) 嫉妬という名の呪詛

 彼女は息をもつかせぬ速さで槍を繰り出し、ホセを翻弄する。そもそも彼女は戦闘に特化したアンドロイドだ。彼女の攻撃は常に一定で、疲弊するということを知らない。ホセはその年齢にしては体力のある方だし、動体視力にもそれなりの自信はあったが、彼女の無限のスタミナには到底耐えられそうもなかった。


 とうとう彼女の槍をかわし損ね、右の頬に微かな裂傷が走った。


 そんなホセを、“嫉妬”は愉しげに眺めている。ホセは内心舌打ちしつつ、苦肉の策として強制停止の祝詞を唱えた。


「『Agnus Dei,qui tollis peccata mundi:dona eis requiem sempiternam.Amen.』」


 しかし、マリアの動きは止まない。むしろ加速するばかりだ。もう一度同じ祝詞を唱えるが、全く反応がなかった。


 ふとホセの視界が陰る。マリアの槍を避けつつ背後に目を向けると、“嫉妬”の配下にある巨大な蛾が数匹群がっており、今にも鱗粉をまき散らそうとしているではないか。あの巨大な翼で先日のような竜巻を起こされたらひとたまりもない。甚大な被害、なんて簡単な言葉で表現できないくらいに恐ろしいことになる。


 完全なる四面楚歌。絶体絶命。


「あまり、やりたくないですがっ」


 マリアが槍でホセの心臓を貫こうとした刹那、彼の両手は槍の柄の部分を掴んだ。摩擦で掌が焼けるように熱くなるが、今この手を離す訳にはいかない。ホセは歯を食いしばり、そのまま一本背負いを決めるかの如く彼女を蛾の群れへぶん投げた。


 さすがの“嫉妬”もこの行動は予想できなかったようで、目を剥いたまま固まっている。


「あんた、結構鬼だな」

「うちの子は代々厳しく育てていますので」

 それに、とホセは懐へと手を伸ばす。「あなた、よそ見している暇がおありで?」


 彼は短剣を抜き、一歩踏み込んで“嫉妬”へと切りかかる。少年の左肩にそれを突き立てると、鍵を捻る要領で短剣を回転させた。あふれ出る血液で、柄の部分がぬるぬると滑る。肉を抉る嫌な感触が気持ち悪い。


「がっ!」


 “嫉妬”が空いている右手でホセの胸倉を掴み、頭突きを一発お見舞いする。それをもろに食らったホセは、大きく後ろによろめいた。短剣は“嫉妬”の肩に刺したまま、思わず手を離す。


 眼前にちかちかと瞬く星が見える。“嫉妬”は思いのほか石頭だったらしい。


 痛みを堪えるべく額に手を当てると、突如ホセの耳に、ざ、と空を切る音が飛び込んでくる。


 先ほど蛾の群れの中へ投げ飛ばしたマリアがそれらを殲滅しているのだ。彼女は未だに停止する素振りを見せない。銀の槍のきらめきが更に加速し、次の瞬間には何体もの巨大蛾を貫いている。ただ、彼女が蛾に対する興味を完全に失っていることは明白だった。ただただ邪魔なものを排除するためだけに槍を振るっているようにも見えた。


 恐れていた事態が起こった。


 ホセは思う。このA-Pはまだ試作品と言っても過言ではない。今も、ホセとマリアの状況を試験データとして記録し分析を進めている最中でもある。つまり、たとえ今まで彼女に異常が見受けられなかったとしても、所詮は人間が造ったものに過ぎない。使っているうちに想定外の動作をする可能性は十分にあった。


 それに、今回のケースの場合A-Pでなくとも暴走するに決まっている。


 ホセは彼女のこめかみに見える星型の烙印へ目を向けた。


 その頃にはすべての蛾を処理し終えたマリアが、ようやくホセへと向き直る。彼女の小さな体が軽やかに跳ね、ホセへと向かってくるのが見えた。


 とにかく彼女を止めるのを最優先にしなくては。星形の烙印を押されたとなれば、彼女を力で抑えるのは不可能である。ならば、己は覚悟を決めるだけだ。


 腹を決めたホセは、もう迷わなかった。


 彼へと切りかかろうとするマリアに対し、ホセは両手を広げて見せる。おいで、と唇が動いたのを、“嫉妬”は見逃さない。左肩に刺さった短剣を抜きながら、彼はその異常な光景を目の当たりにした。


 どっ、と。鈍い音。


「――っ!」


 ホセは痛みのあまり、声にならない悲鳴をあげる。視界が微かに白んで、今にも意識が飛びそうだ。何とか両足で踏ん張ると、槍ごと飛び込んできたマリアの身体をホセは強く抱きしめた。


 マリアは苦悶の表情を浮かべるホセをじっと見つめている。やはり、彼女の瞳には感情らしい感情が見えない。ぐらぐらと歪む視界の中、ホセはゆっくりと目を己の腹部に移す。


 槍が彼の腹部に深く突き刺さっていた。純白の聖職衣が徐々に赤黒く染まってゆく。まるで白い紙の上から絵の具を垂れ流すかのようだった。槍が放つ白んだ光がやたら眩しくて、彼は純粋に「きれいだ」と思った。聖職衣が吸いきれなかった分の血液は、そのまま足元に落ち、ぱたぱたと小さな音を立てている。


 吐き出す息が妙に熱い。喘鳴交じりに、ホセは笑って見せた。


「痛いです、よ、ま……りあ……っ」

「司教は、これでずっと、一緒にいてくれるよね?」


 マリアの声が、まるで鐘の音のように何度も何度も脳を叩く。

 マリアは乱暴に槍を腹部から引き抜いた。ぶしゃ、と粘性の音がした。飛び散る飛沫が湯気を上げ、彼女の頬を生ぬるく濡らしている。


 しかしマリアは臆することなく、ホセの背に手を回した。


 きれいな淡色の衣服が。亜麻色の髪が。すべて真っ赤に染まってゆく。


 同じ色に染まり同じものになろうとし、同じ匂いに包まれて、そこでようやくマリアは目を細め、微笑んで見せた。彼女が初めて見せた表情に、ホセはつい泣きそうになる。


 気づいてしまったのだ。彼女には“自我”があると自分でも言っていたが、この小さな身体の中に誰も予測できなかった感情まで生まれてしまっていたのだ。


 その名は、嫉妬。


 もしかしたら、以前からそんな感情があったのかもしれない。その感情の正体を彼女自身が理解する前に、“嫉妬”が烙印を押したことで不自然に助長されてしまった可能性もある。しかし、今となっては後の祭りだ。


 どうして気づいてやれなかったのだろう。彼女はいつも傍にいたというのに、自分はいつも別のことを考えていた。自分には彼女の他にも守るべきものがあるが、彼女にとってはそうではない。彼女の世界には初めから自分しかいなかった。

 こちらに戻ってくる前は、もっと彼女通じ合っていた気がしていたのに。


 ああ、そうか。


 ホセは唐突に理解した。“嫉妬”が何故彼女にこの烙印を押したのかを。

所詮彼女にはこれがお似合いだということだ。


「まるで嫉妬にかられ人類初の殺人を犯したカインみたいじゃないか」

 “嫉妬”はそんな彼らの様子をあざ笑っている。「その烙印の意味によく気が付いたね。さすが司教というだけあるか。無理に抑えようとしたら七倍の威力で返ってくるよ」


 ホセはのろのろと嫉妬へと目を向けると、吐き捨てるように言う。


「なんと、傲慢な。星の烙印を押す……のは、神と決まっているでしょう……?」

「いくらしぶといあんたでも、それ以上喋ると死ぬよ」

「もう死んでいますよ……わたしは」


 ホセは喘鳴交じりに言うと、一度大きくせき込んだ。水のような音が混ざったかと思えば、それは血の泡だった。


 彼はじっと少年を睨めつけ、それからゆっくりと瞳を閉じた。まだどくどくと脈打つように痛む傷、そしてマリアの重みを一身に受けている。


「死ぬならあなたも一緒に、いかがですか」


 そして、ゆっくりと瞼を開ける。その瞳に宿るは、慈悲深き柔らかな感情。そしてその唇からは、微かに讃美歌の一節が零れ落ちる。この場にふさわしくない頌栄の清らかなメロディが、とぎれとぎれになりながらも紡ぎだされてゆく。


「これは」


 既にこの男の『釈義』は失われているはずだった。しかし、これは一体どういうことだろう。“嫉妬”はその異変に気づき、思わずあたりを見回した。


 彼らを中心として、街が石のように白く固まっていくではないか。――否、石ではない。灰だ。瓦礫も、木々も、あらゆるものが灰へと変換され、その土地に静かに堆積さる。夕暮れの空に、見渡す限りの真っ白な世界が美しい。何もかもが、彼の歌により上書きされていく。


 これは、ホセ本来の『第一釈義』、唯一の先天性釈義ではないのか。


 僅かに感じる『釈義』の気配に“嫉妬”は動揺し、一度目を閉じた。先ほど刺された左肩からは未だに血が止めどなく溢れている。しかし、痛みなどとうに忘れてしまった。零れ落ちた血液は、白く上書きされた世界を汚していく。


 このとき、彼は初めてホセ・カークランドという男の本気を垣間見た気がした。


「生きながらにして殉教、か。言い得て妙だ」


 ならばせめてもの餞に。“嫉妬”は銃器を構えると、彼らめがけて一発撃った。それに気が付いたマリアの瞳がきらりと光る。


「邪魔しないで」


 彼女が放った呪詛は炎となり、彼の“弾丸”を燃やし尽くす。しかし、聖火独特の黄みがかった炎ではない。青だ。青の炎が、まるで彼らを包み込むように燃え広がっている。


 高温の空気にさらされて、ホセは苦しげに呻いた。意識が朦朧とする今となっては、“嫉妬”のことなど心底どうでもいい。どうせ何をしても、己はこの嫉妬の炎に焼かれて死ぬしかないのだ。


 全ては己の不始末が原因。ここで責任を取るのも悪くない。


 だが、その前に言わなくてはいけないことがある。ホセはのろのろと口を開き、絞り出すような声色で彼女に話しかけた。


「――ねえ、おぼえていますか……マリア」

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