第二章 (10) 夢の箱庭

 三善は目を瞠った。


 そこは広いサン・ルームだった。中央には大木が植えられ、ガラス張りの天井からは太陽が燦々と降り注ぐ。光の雨の中、青々と茂った葉はさあっ、と音を立てて揺れていた。足元は白っぽい砂に覆われ、煉瓦で舗装された細い道がある。それは中央の大木まで繋がっているようだ。


 きれいな箱庭だ。


 しかし三善の思考は、決してそこに帰結することはなかった。


「あ、……あ」


 動揺して、思わず両手で口元を覆っている。

 ケファはゆっくりと大木まで歩を進め、太い木の幹に手を触れた。


「初めて来たけど、これはすごいな。実に有意義な科学の無駄遣い……」


 ケファは広い天井を仰ぎ、感嘆の声を上げる。こんなところに太陽などあるはずがない。あれは人口太陽だ。風も、自然のものに似せているが間違いなく人工物。草木は本物だろうが、手入れされている様子もないことから、おそらくは「そういう目的」で培養されたもの。大して手がかからないようにしてあるだけだ。


 あらゆる叡智が集結した夢の箱庭。ホセが彼をこの場所に連れて行くよう指示した理由を、ケファは改めて実感する。


「三善、こっちおいで」


 手招きすると、おずおずと、三善はゆっくりとケファの元へ近づいてゆく。

 触ってもいいかと、三善が尋ねてきた。頷くと、三善の小さな白い手は、太くごつごつとした幹に触れる。


 瞳を閉じると、この大木の声が聞こえるようで、三善の心はそれだけでしんと静まり返ってゆく。波打つ水面がゆっくりと静まるように、そっと、ゆっくりと。次に目を開けた時には、三善はだいぶ落ち着いていた。


「さて、どこから話そうか。結論から言う?」

「うん、その方が分かりやすいな」


 そうか、とケファは言うと、その頃には腹を括っていたらしかった。やけにあっさりとした口調で、決定的な一言を口にする。


「お前は、大司教の御子息にあたる。大切な預かりものだ」


 三善はその言葉に大して驚きもせず、ただ、力なく笑みを浮かべた。


「そっか、やっぱりそうか」

「ま、あれだけ周りの様子がおかしければ気づくよな。普通」


 正直全く隠しきれていないと思っていたケファ、この反応については想定の範囲内である。


「俺が知っていることはそれほど多くないんだが……、そうだな。先に言っておくと、俺はお前の母親は知らない。お前の名字が母方のものだというくらいの情報しかないから、この点については聞いても無駄だ」

「分かった」


 三善は頷くと、ケファにこの場所について尋ねた。なんとなくだが、覚えがあるのだ。はっきりと思い出せないのがまた苦しいところではあるのだが、ケファやホセと出会うよりも前に、「誰かに会うために」ここに来たことがあるような気がしたのだ。


「ここは、お前と大司教がお忍びで会うために使っていた、と聞いている」

 ケファは続ける。「大司教はお前が生まれたときに、できる限り、お前を隠そうとしていた。理由は分かるだろ。お前の存在が知られれば、大罪だけではなく、教会としてもあまりいい状況にはならない。だからここは、お前と大司教が唯一会える秘密の箱庭ってとこだ。覚えているか?」


 三善はしばらくじっと大きく枝を張るその大木を見上げ、うん、と呟くように言った。


「はっきりとは覚えていないけど、なんとなく知っている気がする」

「そうか。この話をするときは、この場所にしようって決めていたんだ」


 ケファは柔らかく笑い、彼と同じように大木を見上げる。木漏れ日がきらきらと瞬いて、葉の青に瑞々しさを与えていた。


 三善はそのまま、じっと大木を見つめていた。ぴくりとも動かない。一瞬そのまま固まってしまったのかと思ったが、そうではないらしい。長い睫毛が僅かに震えているのが見えた。


 続けていいものかと思ったが、そのまま黙りこむと、三善は続けるように促してくる。


「自分でも気づいているだろうが、お前の体は“人間”としては不完全だ。今はそれを補うために――そして、いずれ本格的に争うことになる“七つの大罪DeadlySins”に打ち勝つために、大司教は楔を打ち込んだ。ふたりでひとつなんだよ。どちらが欠けてもその身体は成立しない」


 ただし、とケファは続ける。一度ためらったようだが、ここまで言ってしまっては、もう後に引けない。これは本人が知るべきことだ。あとは彼が、受け入れることができるかどうか。


「その楔は永久的なものではない」


 はっとして、三善は振り返る。どうしてと強く訴えかける瞳には、うっすらと涙がたまっていた。ケファは逆に無表情だった。冷たさは含まれていないが、その口から紡ぎだされることを、どういった気持で述べているのかが分からない。それがより一層三善を動揺させていた。


「たとえ『釈義』だとしても、人間が作ったものにはどれにも平等に寿命がある。元々大司教は聖戦の頃に亡くなっているんだ、お前のために何らかの方法で生きているとは言っても、どんな姿で生きながらえているかは誰にも分からない。もうとっくに自然の摂理を捻じ曲げている。平均的に、楔は二十年ほどで失われるそうだが――」

「僕が、あと五年で死ぬ、ってこと?」

「このまま何もしなければ」


 全てを言い切る前に、いきなり三善がケファに掴みかかってきた。燃え盛る炎が宿るその瞳に射ぬかれて、ケファはどきりと身をこわばらせる。明確な殺意がその炎には込められていたからだ。しかしその勢いはすぐに削がれ、紫の肩帯を掴む手の力が弱まった。


「……ごめん。動揺した」


 ふっと、三善は哀しそうに笑って見せた。それがより一層辛く見え、ケファは思わず三善を引きよせた。泣きじゃくる子供をあやすように、そっと抱き締めると、三善は全力で拒んでくる。


「離してよ」


 それでもケファは離さなかった。


 かつて彼を外に出した時に、ホセと交わした言葉を思い出す。


 ――まずは私が未成年後見人制度を使って、彼の監督者になります。そうすればしばらくあの子は法的に誰にも手を出せない状態になる。そして、あなたは彼の先生になりなさい。そして、楔が朽ちるときまでに、彼を――


「――これは俺たちが、お前を地上に出した時から決めていたこと。お前を可能な限り最大限に生かすための方法だ」


 もっとも、ケファはまだどこかでこの答えに納得できていないところがある。他に別のやり方があると心のどこかで信じている。しかし、今持ち合わせている答えの中で、これが唯一かつ最善の方法だ。


 言いたくないが、言わなければならない。ケファは緊張で掠れた声を絞り出すようにして言った。


「お前が、次の大司教に就任しろ」


 三善は目を瞠った。


 彼が言ったことを、最初理解することはできなかった。あまりに突拍子もなく、彼らしくない発想だ。あと五年で教皇まで上り詰めろというのか、この男は。まだ自分は助祭のはしくれなのだ、無理に決まっている。様々な思いが脳裏を駆け巡る中、ケファは続ける。


「大司教の力は強大だ。強大すぎて通常の人間では抑えられない。だから通常は『十二使徒』に力を分割させて、必要な時だけ引き出している。知っているだろ? 俺を見ていれば」


 かくいうケファも、前教皇の“十二使徒”のひとりだ。それは何度か見ているので、三善はこくりと首を動かした。


「お前の場合、力を受け入れる容量が根本的に違う。その身体に大司教を飼っているようなものだからな。いずれ失われる『楔』の釈義を、大司教が持つ力で補うことができるはず。だから三善、お前が大司教になれ」


 三善は首を横に振った。


「無理だよ」

「無理じゃない」


 並々ならぬ気迫に、三善の体が震えた。


「いいか、助祭はいわば司祭になるための準備期間みたいなものだ。おそらくお前はすぐ司祭になるだろうから……、ああいや、違うな。こんなことを言いたいんじゃない」


 ケファは右手で己の前髪を掻き乱し、落ち着こうと深呼吸した。


「俺はお前の生い立ちを少しは知っているが、それに同情した訳じゃない。お前だから、お前なら出来ると思ったから言っている。お前じゃなければ、俺は宣教師を辞めて教師になろうなんて思わなかった。その位階、あの男にだけは決して渡してくれるな。お前が総取りしろ」


 ふっと身体が離れたと思ったら、今度は三善の頭にぽんと手を乗せられる。


 ケファは悲しそうに笑っていた。大丈夫、と。そのように一言だけ何とか口にする。


 ――そのために、彼は三善に付くことにしたのだ。ホセが立場上辛い状況に陥りながらも尚その場に居座り続けるのは、三善が大司教の力を得るためだ。大司教になるべき人物は、決してジェームズではない。


 全てはひとりの“少年”の人生を最後まで全うさせるために。


「お前が誰か、なんてもう考えるな。お前は姫良三善。俺とあいつが認めた最高のプロフェットだ。だから、俺たちのいるところまで追いついて来い」


 三善が戸惑いながら、ケファのもう片方の手をそっと包み込んだ。そして温めるように、ゆっくりと握り込む。三善は一切口を開こうとはしなかった。ただ、その目に浮かぶのは微かな戸惑いと恐怖だ。彼はそのまま瞼を閉じ、己の行く末を思案した。

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