第三章 (10) 辛い選択

 それを耳にしたホセはぽつりと呟いた。


「……『出エジプト記』三十章十一節から十六節、“命の代償”、ですね」

「え?」


 土岐野が聞き返す。その問いにやんわりと頷きながら、ホセは未だ目を覚まさない三善を背負った。三善自身が小柄であるので、こういうときは非常に助かる。本人は小さいことをとても気にしているようだが、いかんせん彼は外で倒れることが多い。ならば、不謹慎ではあるがもうこのまま成長が止まればいいのにとも思う。


「ここの生徒なら、あなたも聖典の一つや二つ覚えているでしょう?」


 雨がやっと上がったようで、空を見上げるとうっすらと白んで見えた。もうじき晴れるだろう。よかった、とホセは胸をなで下ろした。


「あの箇所は、私達の『対価』という概念の原点なのですよ。それぞれに見合った対価を、神の御前で自分自身を覚えていてもらうために支払うのです。つまり、プロフェットは生きている間、その能力を持ち続ける限りずっと神に捧げものをしているのです」


 ホセは破顔して言った。相変わらず顔は泥で汚れていたが、土岐野も実は似たようなものなので、もう気にしてはいないようだった。その代わり、彼が言ったその言葉に含まれていた僅かな違和感に興味を示した。


 ためらいがちに、彼女は尋ねる。


「……あなた、は」

「私ですか? 私はもう、とっくにその全てを支払い終わっていますよ。五年前に勃発した我ら教会エクレシアと“七つの大罪DeadlySins”による聖戦――俗に言う『十字軍遠征』の時に、ね」


 今もそれを思い出すたびに、胸に刻まれた傷痕が疼き出す。

 そう、あの日に――自分のプロフェットとしての能力は、完全に失われたのだ。


 聖都での者に対して断罪を遂行した、あの日に。


***


 ホセに包帯を巻いて貰いながら、ケファは目を剥いていた。


「三善の存在が“七つの大罪DeadlySins”に知られた……?」


 背後でホセは短く頷く。


 あの後、例によって“傲慢Superbia”を取り逃がしたケファは、彼らとともに医務室にいた。保険医に相談したところ、三善は今のところ眠っているだけだと言う。このままでは分からないことも多いので、目が覚めてから再度診察ということで落ち着いた。ケファ自身も怪我はしていたが、「自分たちでやるから」と敢えて保険医には退室してもらうこととした。――そして現在に至る。


「“傲慢Superbia”が言うからには、そうでしょうね。私はそれとなく、不自然にならない程度に隠していたつもりです。帯刀たてわき家の力も借りて」


「なるほど……うっかりあいつと接触してしまったから、三善は排除されそうになったんだな」


 ケファは短く頷き、目線をちらりとベッドへ移した。


 三善は相変わらずよく眠っている。彼は、体力がない割に身体自体は頑丈なのだ。


 それよりも、問題は彼の隣だ。彼が眠るベッドの隣に位置する合皮のソファに、学校指定のジャージを身に纏った土岐野が俯いて座っていた。濡れた制服は天井を走る銀のカーテン・レールにかけられている。


「寒くないですか?」


 ホセが声をかけると、土岐野は短く頷いた。ぎゅっと己を抱くように両腕に触れ、今にも泣きそうな顔をしている。――この少女は、本当によく泣くなぁ。大人二人は意外にものんびりと構えていた。


 突然、土岐野が口を開いた。


「あの、神父様……」

「ホセ、です」

 彼女が顔を上げると、いつもの穏やかな調子でホセは言った。「ホセ・カークランド。司教の位階を叙されています。こちらの怖い顔をしている方が、ケファ。位階は司祭で、“釈義”の能力者です」


 彼の横で借り物のシャツに袖を通しているケファは、その大雑把な紹介に眉をひそめたが、あながち間違いではないのでそれについては何も言わなかった。


「そして、ベッドで眠っているのが姫良三善助祭。彼は非常に若いですが、優秀なプロフェットです」


 できれば名前で、と控えめにホセは微笑むと、土岐野はおずおずと、声を小さくしながら言った。


「それじゃあ、ホセ神父。私……ごめんなさい」


 きょとんと二人は目を丸くした。一体、何に対して謝ったのか。首を傾げると、


「私のせいで、みんな、こんなに怪我をして……」


 土岐野の声が震えている。その他にもなにか言おうとしているけれど、うまく言葉にできなかった。その様子に、ホセはふっと眉を下げる。


「今までよく、頑張りましたね」


 責めるでもなく、『あの人』と全く同じ言葉を。


 土岐野の脳裏には、『あの人』――“傲慢Superbia”の姿が蘇った。どちらが正しいか、もう判断が出来なかった。つい先程まで『あの人』だけが正しいと、そう思っていたはずなのに。今ベッドで眠っている三善や、大怪我を負ったケファを見たら決心が揺らいでしまった。『あの人』は、容赦なく人を傷つけた。久しぶりに見た彼は、自分に向けた優しい笑みとは比べ物にならないくらい残酷な表情を浮かべ、あの鎌を振るっていたではないか。


 本当に、それは己が望んだことなのか――


 そう思ったら、また土岐野は泣けてきてしまった。ぼろぼろとこぼれ落ちる大粒の涙は、青いジャージの膝元を濡らしてゆく。


「遅くなってしまってすみませんでした。もっと早くに迎えに行きたかった」


 どうしてこのひとたちは、己を責めないのだろう。嗚咽を洩らしながら彼女が問うと、それについてはケファが答えた。


「頑張った子をわざわざ責める理由なんかないだろ」


 その通り、とホセは一度頷き、手持ちの荷物から一通の封書を取り出た。そしてそれをきょとんとしている土岐野に手渡した。


「あなたには、これを」

 私の本題はこれなんです、と彼は実にのんびりとした口調で続けた。「私は教皇庁特務機関より派遣されました、釈義調査官です。人事の総括が本職なんですが、奈何せん人手が足りなくて」


「釈義、調査官……?」


 聞き慣れない単語に、土岐野はただただぽかんとするばかりだ。誰でも、初めはそうだ。ずっと昔の話だからすっかり忘れているが、きっとホセもケファも同じように呆けた顔をしたはずだ。


「率直に申し上げます。土岐野さん、あなたのその発火作用は、間違いなく『釈義』によるものです。昔からそうだったのですか?」


「い、いえ。今年の春から……です」


 それならば合点がいく。幼い頃に発覚していれば、すぐに教会側に保護されるはずだからだ。ふむ、とホセは首を傾げ、次に家族に能力者がいるかどうかを尋ねた。しかし、土岐野は首を横に振るばかりだ。


「というか、本当の両親は知らないので……。私、幼い頃に両親を亡くしていて、今は弟と共に叔母夫婦の元でお世話になっているんです。だから、両親のことは分かりません。ごめんなさい」


 彼女の家庭事情は予想外に複雑だったらしい。ホセは非礼を詫び、彼女に渡した封書を開くように指示した。そこには、見たこともない申請書が五枚綴りで入っている。書類の名前は、なんだか見たこともない言語で書かれているが……これは何語だ。土岐野はついつい目を瞠っている。

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