第三章 (7) それを人は無知と呼ぶ

 汚れた指を雨水で清め、金髪の男性は再び少年の呼吸を確認した。今はすっかり落ち着き、非常に安らかな息をしている。これなら安心だ、じきに目は覚める。


「ありがとう、嬢ちゃん」

 そこで彼は口を開いた。「怖かったろう。日本の若い子は、救命の演習はあまりやらないし」


 思いの外優しい声色だった。土岐野はおろおろとしながらも、一番聞きたいと思っていたことを尋ねた。


「その子、大丈夫ですか……?」

「ん? ああ、大丈夫。ただ吐いたものが喉に詰まっただけらしい」


 それも今出してやったから、とあっけらかんとした口調のまま言うので、土岐野はなんだか拍子抜けしてしまった。


「それと、ああいうときは仰向けにする前に呼吸の確認をする。あのまま仰向けにしていたら窒息することもあるから」


 彼は付け加えると、さっさと立ち上がる。そして、未だ眠り続ける少年をその背中におぶった。


「申し訳ないけど、傘、持ってくれない?」

 そして、顎で先程投げ飛ばしたビニール傘を指したのだった。「それ、借り物だからさ」


 土岐野は言われるがままに傘を持ち、骨が折れていないかどうかを確認すると、そっと彼に向けて傘を差した。彼としてはただ持ってくれればそれでよかったのだが。なかなかに予想外の行動だ。


「ありがと」


 男性は目を細めるようにして笑った。紫色の光彩が、土岐野を見つめる。彼女はしばらくその瞳を見て、唐突に目線を逸らした。急に訪れた罪悪感に耐えられなくなったのだ。


 あのまま仰向けにしていたら、窒息――


 考えれば考えるほど、背筋が震える。今、己は人を殺しかけていたのだ。あの炎だけでなく、ちょっとした行動で。


「――私……なにもできなかった、」


 土岐野がぽつりと呟く。すると、


「別に、なにもってことはないんじゃない?」

 彼はさっぱりとした口調で言い放つ。「君は自分ができることをしようとした。ただ方法を知らなかっただけだ。それを『なにもない』とは言わない。強いて言うなら、無知」


 誰でも非常事態はパニックになる、と彼は実に穏やかな表情を見せた。


「でも、なにかしようとしたから、こいつは救われた。それは君のおかげ。美徳と言ってもいい」


 そう言ったとき、遠くの方で爆音が轟いた。ずん、と地響きを足裏に感じ、身体が一瞬傾いた。見ると、遠くの方で何やら煙が上がっているではないか。あの方向は、と男性はぽつりと呟いた。


 土岐野が見上げると、既に彼の表情から優しげな雰囲気がごっそりと抜け落ちていた。今精悍な顔に宿るのは、ぴりぴりと張り詰めている鋭利な緊張感のみ。アメジストの瞳がしばらく立ち昇る煙を睨めつけると、唐突に彼は土岐野を呼んだ。


「嬢ちゃん、俺はあっちに行くけど、どうする? 一緒に来る?」


 え、と土岐野は口ごもった。


 こういうとき、普通なら「危ないからここに残れ」が妥当だ。しかし、彼はその言葉を敢えて飲み込んだ。むしろ、見てもらいたいと言っているような。


 それを感じた土岐野は、ゆっくりと首を縦に動かした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る