第二章 (10) 誰よりも味方になってくれたのは
「あっ……!」
だが、ホセは至極冷静だった。あろうことか炎を避けずに、そのまま左手で受け止めてしまったのである。当然彼の左腕は火の粉を纏う黄色の炎に包まれ、聖職衣に燃え移った。
「あ、あ――」
少女の黒曜の瞳には炎の揺らめきがにじみ、涙が頬をゆっくりと伝っていった。それ以上なにも言うことができなかった。無意識に、またあの炎を発動させてしまった。しかも今度は、人間に向けて。
ふむ、ホセは呟き、懐から手のひらサイズの小瓶を取り出した。
「『聖火』はね、同じ属性の『聖水』で消えるんです」
そして、淡々と小瓶の中身を左腕にかけた。すると、土岐野が放った炎はみるみるうちに鎮火していくではないか。黒い煙はふわりと頬を掠め、焦げ臭さを残して消えた。そしてそれらが全て消えたところで、ホセは焼けおちてしまった聖職衣の袖を破り、己の腕を確認した。炎の勢いは相当だったはずなのだが、腕には傷一つついていない。彼の逞しい腕に巻かれている奇妙な機械の塊だけは、若干表面が焦げていたが。
「ついでに言いますと、『聖水』は医療用具なので、傷にも効くんですよね」
そんな間の抜けた話は、土岐野の耳にはこれっぽっちも入っていなかった。ただ、彼女は目の前で見せつけられた奇妙な光景にただただ動揺するばかりである。
そんなことはない。ぽつりと呟いた一言は、まるでうわ言のようだ。思わずホセはきょとんとしたまま首を傾げてしまった。
「そんなこと、あるはずがないの……! 何であなたは平気なの? どうして?」
そうだ。『彼』は初めて出会った日に、はっきりと言ったではないか。
――あの『炎』は、燃えたら最後、絶対に消えることがない。だから俺が手伝ってあげる。俺がいれば、ちゃんと消してあげられるからね。
そうだ、『あの人』は確かにそう言った。しかし、目の前の神父はいとも簡単に消して見せたではないか!
「あの人は、確かに言ったのよ、確かに――」
混乱する土岐野はまるで壊れた機械のように、ものすごい速さで言葉を並べ始める。話すことで頭の中を整理する時間を確保しようとしているのかもしれない。自分でも驚くくらいに早口だ。
ホセはふむ、と怪訝そうな表情を浮かべた後、彼女の名を呼んだ。
「『あの人』とは、一体どなたのことでしょうか」
彼の問いかけに、土岐野の唇はぴたりと止まった。
しまった。
あまりに混乱し過ぎて、なにか自分はとんでもないことを口走ってしまった気がする。そもそも『彼』については他言無用だと約束していたはずだ。完全に墓穴を掘ってしまったことを悔いて、彼女はただうつむくしかできないでいる。
外の雨は小雨に変わり、しとしとと細かな水滴がコンクリートの大地に降り注ぐ。大きくできた水たまりは、まだ僅かに滴の波紋に揺れていた。
「……あなたに教えることなんか、なにもない」
彼女の脳裏には、怒涛の勢いであの光景が流れていた。
初めて彼女の前に『彼』が現れたときのこと。『彼』は泣いている土岐野に、優しく笑って手を差し伸べてくれた。そして、願いを叶えてくれると言った。今まで誰にも言えず、ひとりで悩み続けていた彼女にとって、それは一筋の光のようで。
――よく頑張ったね。
『彼』の言葉が頭を過る。
そうだ。私は『彼』に願ったのだ。そのために『彼』の望みを叶えた。
体育館倉庫も、校舎も、美術室も。言われた通りにこの『炎』で燃やした。そうすると、必ず彼は優しい口調で褒めてくれるのだ。
――頑張ったね。お疲れ様。
「土岐野さん……?」
ホセの声が、彼女を現実に引き戻した。
彼女はギュッと拳を握った。
そうだ。それがどんなにいけないことだと分かっていても、立ち止まってはいけないのだ。『彼』が思い悩む土岐野をいち早く助けてくれた。決して「大聖教」なんかではない。誰よりも味方になってくれたのは。
あのひとだ。
土岐野はスッと顔を上げた。そして力のこもった黒の眼差しを、彼女はまっすぐにホセへと向ける。
だから。彼女は思い切り、声を張り上げた。
「もう放っておいて!」
「あっ……!」
叫ぶのと同時に、土岐野は走り出す。泥水が跳ねて足元が汚れようと構わなかった。ただ、『彼』に会いたかった。攻撃するのはやめてもらいたいけれど、やはり自分には『彼』しかいないのだ。会って話せば、きっと『彼』は慰めてくれる。
そう思うのに、何故だろう。喘ぐ息に混ざる細い声に、自分でも驚いた。
「どうして……」
心が苦しいのだろう。
「どうして」
こんなにも悲しいのだろう。
土岐野は立ち止まった。あの神父が追ってくる気配はない。吐き出す白い息は、今も彼女の見える世界を白く白く濁していく。
今度はジワリと目の前が霞んできた。
「どうして……!」
どうして、涙があふれて止まらないのだろう。
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