第六章 その6 おっさん、雪の王都を逃げ回る

「な、何だこれは!?」


 仕入れを終えて店に帰ってきたコメニス書店の夫婦が目にしたのは、散乱した書物に埋め尽くされた店内。そして縄で縛られ、兵士たちに連行されとぼとぼと歩く全身あざだらけの男たち。


「お父さん、お母さん!」


 そんな両親の立ち尽くす姿を見るなり、兵士から聞き込みを受けている最中にも関わらずハーマニーは店から飛び出した。


 そして並ぶふたりの真ん中に駆け寄ると、両親はふたりそろって愛娘を抱きしめたのだった。


「ハーマニー、怪我は無いか!? 一体全体、何が起こったんだ!?」


「うん、私は大丈夫。実は……」


 ハーマニーは口ごもった。下手なことを話せばハインたちの持っていた資料の写しの存在がばれる。王国の兵士もいる前でそのことを口にするのはさすがにまずい、それっぽいことを言ってごまかさなくては。


「実は強盗が来たから急いで地下に逃げたんだけど、通りすがりの魔術師様が助けてくれたの!」




「どこか良い場所はないかな……」


 コメニス書店を離れたハインたちは3人そろって街の中を歩き回っていた。もちろん、手には大切な資料を詰め込んだ鞄をしっかりと提げている。


 先ほどから再び雪も降りだし始め、小さな雪の粒が空からしんしんと降り注いでいる。この様子だとまだまだ雪は強まりそうで、人々は雪の上を転ばぬ程度の小走りで目的地へと急いでいた。


「王都の外には逃げられないのですか?」


 外套も突き抜ける寒さに震えながらナディアが尋ねるも、ハインは首を横に振った。


「王都を出る前には必ず持ち物の検査がある。そこで資料が見つかると面倒だし、外は雪の平原で隠れる場所も無ければ寒くて動けない。まだ王都の中の方が安全だろう」


 ナディアは「そっか……」と小さく萎んでしまった。


 彼女の一番の心配は、自分の代わりとなった親友マリーナのことだった。まだどこかで追われ続けているのだろうか。何事も無ければよいのだが。


「それなら、図書館はどうでしょう? 人の目もありますし、寒さもしのげます」


 パーカース先生の提案に、ハインもナディアも「それだ!」と賛同する。


 この王都では国民に対し図書館が開放されている。古くからの総大理石製の建物で、王城、大聖堂に次ぐ3番目の巨大建築としてランドマークにも利用されている。


 先生の言うように図書館ならしばらくは居座れるし、いざとなれば隠れる場所もある。それに学生や知識人が集いしんと静まり返った館内で、労働者風の汚れた格好の者がうろうろしていれば悪目立ちするだろう。


「いいですね、早速行きましょう!」


 一向はくるりと方向転換し、図書館へと急いだ。


 大人でも抱えきれない何本もの巨大な石柱に支えられた高い天井。その壁には隙間なく、梯子をかけなくては手に取れない高さまで書物がぎっしりと埋め尽くされていた。


 そんな書棚に囲まれた一角の机に座った三人は、それぞれが分厚い本を広げながらも周囲をちらちらと警戒していた。


「ナディア、どう?」


「怪しい人は誰もいません」


 ひそひそと小声で報告し合う。確かに、この方法なら相手も追ってこない。


 だがこの図書館の入り口は正面玄関の一か所のみ。おまけに夕方になれば閉館時間で追い出されるため、いつまでも籠城するわけにはいかない。


 あれほどの追跡能力を誇る連中だ、もう図書館のすぐ近くまで嗅ぎつけているだろう。このまま外に出てもさっきと同じ、どうにかして打開策を練らなくては。


 その時だった。ナディアが何かを見つけたように目を細めたのだった。


「あれ? あの方はたしか……」


 そう呟くと同時に、誰かがこちらにかつかつと近づく足音が響いた。


「皆さん、こんな所でどうされたのですか?」


 ハインが振り返る。そこにいたのは数学の本を手にしたヘルマンだった。


「ヘルマン、ここで何を?」


 ハインは驚いて立ち上がる。先日、いっしょに職人や商人の仕事を見て回ったばかりだが、あの頃の彼とは違い将来に希望を抱いているような瞳のおかげで、まるで別人のように見えた。


「何って、勉強ですよ。魔術工学技師科を受け直しますからね」


「そうか、それは良かった」


 ハインはほっと安心した。自分のお節介がこの少年の一歩を後押ししたことが分かって。追跡者から逃れる今の時間だが、大きな安らぎを得られていた。


「ハインさんにパーカース先生も、どうされたのです? 調べ物……というわけではなさそうですね」


「あのー、へルマン先輩」


 突如、ナディアが手を組んだ。ヘルマンが「うん?」と顔を向ける。


「ひとつお頼みしてもよろしいですか?」


 つぶらな瞳を向け、潤んだ眼がきらきらと輝く。


 ナディアは成績優秀なだけでなく、その容姿、何よりプロポーションもクラス内でトップクラスだ。そんな可憐な少女の熱い視線を受けて平気な男子がいるわけない。ヘルマンの表情がたちまち崩れる。


「後輩の頼みとあれば断れるわけがない、任せろ!」


 将来には悩んでも女の子には悩まない、それがへルマン・ベーギンラートという男だった。




 降りしきる雪が勢いを増し、残された足跡さえもすぐに埋もれてしまう。寒さの割りに積雪の少ない王都であるが、今年は例年以上の大雪になりそうだ。


 ここは図書館の入り口前。昼間でも薄暗い冬のこの日、突き刺すような寒さに耐えながら一人の男が柱に寄りかかっていた。


「ちっ、図書館に逃げ込むなんて考えやがったな……こっちが凍えちまう」


 男はぼろぼろに擦り切れた外套の中にさらに縮こまり、汚れた帽子を深くかぶり直した。


 日々の生活で疲れ切った目に汚れた肌。貧しい労働者であることは誰の目から見ても明らかだった。魔術研究が実り近隣諸国の中で最も産業の発達したこの王都ではあるが、その恩恵を受けられるのはごく一部、国民の大半は文字の読み書きさえもおぼつかない貧しい労働者階級だ。


「おい、そこの男!」


 大声で呼ばれ、男は飛び上がる。ちょうど図書館前に巡回に来ていた兵士が、雪を踏み分けて男に近付いてきていた。


「そんな身なりで図書館の前で待ち合わせか? 良い身分になったものだな」


「これは軍人の旦那。いやいや、少しばかり歩き疲れたんで休んでいたところなんですよ。もう出発しますぜ」


 はははと嘲笑う兵士に男はへこへこと頭を下げ、慌ててその場を離れる。


 そのすれ違い様だった。


「大男に眼鏡の女、それから黒いコートの小娘。3人全員、図書館の中だ」


 小声で、確かにそう伝える。兵士は小さく頷くと振り返り、雪の中に消えていく男を見送った。


 その姿が見えなくなったところでニヤリと笑うと、ピンと背筋を伸ばしたまま堂々と図書館の中に入り込んだのだった。


 受付に座る若い司書がぺこりと一礼し、兵士も会釈で返す。ただの巡回と思われたのだろう。


 席について本を読み耽る身なりの整った人々を一人ずつゆっくりと見回しながら、兵士は館内のさらに奥へと進んだ。


 そしてついにハインたちを発見する。ひとつの机に固まる大男に女ふたり。報告の通りだ。傍らにはご丁寧に膨らんだ鞄まで置かれている。


 始末するなら今だ。兵士が腰に差した小型の魔動銃に手をかけた、その時だった。


「うおおおおおお!」


 静寂の館内に響き渡る、獣のような雄叫び。同時に書棚の陰から猪のように飛び出した男が、兵士を押し倒す。


 その正体はへルマンだった。さすがはフットボールで鍛えられたタックル、不意をつかれた兵士は魔動銃を手から離し、石の床の上に滑らせる。


「逃げろ!」


 ハインの号令とともにナディアとパーカース先生も立ち上がり、鞄を持って脱兎のごとく駆け出すと兵士に覆いかぶさるヘルマンを残してその場から消えた。


「ま、待て!」


 兵士が落とした魔動銃に手を伸ばすが、恵体のヘルマンが固め技をかけて完全に動きを封じる。


「ずっと見張らせてもらっていたぞ。お前、外の巡回からそのまま図書館に入ってきただろ? 公共の施設内を警備する兵士は外の汚れを持ち込まないため、任務中はずっと屋内にいるんだよ。特にこんな雪の日はな」


「くそ、このガキが。なぜそんなことを知っている?」


「こう見えても将校の息子なんでね。親父から色々と聞かされているわけよ。お前、ただの兵士じゃないな? 所属はどこだ、名乗れ!」


 人々が何事だとざわめき立つ。騒ぎを聞きつけた館内警備の兵士も駆けつけ、図書館はたちまち騒然となったのだった。




 辛くも図書館から抜け出し追ってからも逃れたハイン一行だが、朝からずっと逃げ続けてきたために精神的にも肉体的にも疲労困憊していた。特にナディアとパーカース先生は昨日からろくに寝ておらず、体力も既に限界でふらふらだった。


「くそ、図書館もダメだったか」


「もう何を信じればいいのやら、わからなくて泣きそうです」


 とにかく休める場所を求め、ハインたちがたどり着いたのは職人たちの工房の集まる通りだった。あちこちから鉄を打つ音や機械を動かす音が聞こえるこの一角は、この国の産業の要であり縁の下の力持ちだ。


 その裏路地の壁に寄りかかるナディアにパーカース先生を守るように、ハインがあちこちににらみを利かせる。幸い追っ手はいないようだが、こんな所に留まり続けてはいられない。


「ハイン、こっちだ!」


 その時、聞き覚えのある男の声にハインは振り返る。裏路地の奥から手招きするのは鍛冶屋の主人、つまりハインの飲み仲間でありアルフレドとヴィーネの父親の彼だった。


 職人仲間のよしみだろう、彫金職人の家の裏手の勝手口を開け、鍛冶屋の主人はハインたちを呼んだ。


 弱り切った女性ふたりを連れる身、他に頼るものは無かった。ハインは歩くのもままならないパーカース先生の手を引きながら、立て付けの悪くなったドアの中に飛び込んだ。


 中は倉庫のようで、金属細工の原料になる金属板や、商品であろう装飾品やエンブレム入りの盾などが所狭しと並べられている。


「ふう、助かったよ。親父さんも無事みたいだね」


「でも、あの人たちは一体……」


 とりあえず外の寒さから逃れ、ほっとする一行は、服に付いた雪を払い落とす。


 だがハインは主人の顔を見てその手を止めたのだった。彼は全身を震わせ、年甲斐も無くぼろぼろと涙を流していたのだった。


「すまねえ!」


 そして床に這いつくばって土下座する。あまりに突然のことに、ハインたちは「へ?」と困惑してまともな言葉さえ出てこなかった。


「あんたらをこんな目に遭わせるつもりなんてこれっぽっちも無かった。まさか反王政派とつながっていたなんて、思いもしなかったんだ!」


「親父さん、突然どうしたんだよ。とりあえず頭を……」


 膝をついて主人の肩に手を伸ばすハイン。だがその時ふと頭の中を過った考えに、彼は再び手を止めてしまった。


「……まさか!?」


「ああ」


 主人はようやく顔を上げた。涙と鼻水とでくしゃくしゃくになった、普段の頑固な職人の面影などどこにも残していない顔を。


「俺なんだ。研究資料の写しがあることをばらしたのは」

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