第六章 その5 おっさん、またも事件に巻き込まれる
一方その頃、自室に帰ったナディアも見知らぬ男の存在に気付いていた。
「さっきからずっと、こっちを見てる……」
部屋の壁に貼り付きながら、ちらりと窓から外を窺う。
向かいの建物のレンガの壁に寄りかかりながら、一人の男がじっと誰かを待っている。だが時折、ちらちらと何度もナディアの部屋に目を向けていた。
何よりもこんな雪積もる寒さの中、いくら外套と帽子を着込んでいるとはいえずっと外で人を待ち続けるなど不自然極まりない。警戒するなという方が無理だ。
徹夜明けの睡魔とも戦いながら、ナディアは何度も首をかっくんかっくんと打ち鳴らしながらも資料を詰め込んだ革製のカバンを手に籠城を続けていた。
だがその時だった。踏み固められた雪の街路を、見覚えのある顔が歩いてこちらへと向かってきたのだった。
同じ回復術師科のマリーナだ。黒の外套を着込み、同じく黒の毛皮の帽子から美しい金髪をなびかせ、例の男の前を通り過ぎるとアパートの扉をくぐる。
「そうか、今日は休日礼拝の日だったわ!」
「ナディア、どうして礼拝に来なかったの? 風邪?」
あっという間に上ってきたマリーナが、部屋のドアをコンコンとノックする。
ナディアはだっと駆け出し、すかさずドアを開けた。
「ナディア、大丈……?」
尋ねられるや否や、人差し指を立てて「しーっ」とサインを送る。
心配そうな顔をしていたマリーナも普段と異なる友人の様子に何事かを察知し、きょろきょろと周囲に誰もいないことを確認する。
「マリーナ、ちょっとこっち来て」
ここでの会話が外まで聞こえることは無いはずだが、ナディアは声を潜めながらマリーナを部屋へと招き入れ、そして静かにドアを閉めた。
「身を屈めて窓の外を見てちょうだい」
部屋の隅まで静かに移動し、顎で窓の景色を示す。
マリーナは帽子を脱ぎ、言われた通りそっと膝をついて外の様子を覗き込んだ。
「向かいの建物の前に、ずっと誰かを待っているみたいな人いるでしょ?」
「ええ、こんな寒いのによくやるわね」
「私、あの人につけられてるみたい」
聞くなりつい声の漏れ出てしまいそうになった口をマリーナが押さえ、驚いた顔を級友に向けた。
「ナディア、あんたまた何かやらかしたの?」
「記憶にございません。と、それは置いといて、多分狙いはこれ。中身についてはちょっと言えない」
ナディアは手に提げていたカバンを少しだけ高く上げる。
「たぶんパーカース先生とハインさんも同じような状態だと思うの。ねえマリーナ、ハインさんの所まで行って様子を見てきてくれない?」
「ハインさんとこれがどうして関係あるのよ?」
突然登場した名に、マリーナがじっと疑いの目を注ぐ。パーカース先生との件は今でも釈然としていないが、なおも彼女がハインのことを気にかけ続けているのは誰から見ても明らかだった。
「悪いけど、それも今は言えないの。ただ決して悪いことをしたわけではないと誓うわ」
「ふうん……」
黙秘を貫く友人にマリーナは口元を押さえたままじっと考え込む。だがしばらくの後、にやっと笑みを浮かべたかと思うと身を屈めたまま窓の外から見えない位置までそっと移動して、立ち上がったのだった。
「だいたいわかったわ、一肌脱いであげる」
「マリーナ、ありがとう!」
「ただし、ハインさんの所にはナディア自身が行くべきよ!」
そう言いながらマリーナは着ていた黒い外套を脱ぎ出す。ナディアは「へ?」と声を上げた。
「ナディア、しばらくその外套貸して。あと鞄と帽子、もうひとつ無い?」
「え、あるけど……どうしたの?」
「私があんたに変装するわ」
言われてナディアは理解した。マリーナは自分が囮になるつもりだ。
「そ、そんなの危険よ!」
慌てて友人の両肩に手を置き、強く握りしめる。だがマリーナは既に勝利を確信したかのような顔で、ナディアの手をそっと撫で返すのだった。
「平気よ、何か悪いことするわけじゃないんだし、人の目のある所なら相手だって襲ってこないわよ」
そして脱いだばかりの黒い外套と帽子をナディアに押し付ける。
「さあ、あなたはこれを着てハインさんの所に急ぎなさい。今はあいつひとりだけど、増援が来たら厄介だわ」
秋の緩衝地帯での経験のおかげか、マリーナの心臓はさらに強靱な物へと鍛えられたようだ。
困惑していたナディアであったが、友人の自信に満ちた顔を見る内に奇妙な安心を覚え始める。いつも弄ってばかりいるこの友人が今日はいつもよりはるかに頼り甲斐あるように見えたのだった。
「マリーナ、ありがとう」
マリーナを信用しよう。ナディアはそう思った。
「どういたしまして」
マリーナは即答した。ナディアは急いで愛用の白い帽子とさきほどまで着ていた茶色の外套、そして別の革製の鞄を用意する。
マリーナが金髪を外に出さないようヘアを整えながら受け取った帽子を深くかぶっている間に、ナディアはそこらの衣服を鞄に詰め込んで膨らませる。
最後に交換した外套を互いに着込んだ。一見しただけではどちらがどちらかわからない。
「マリーナ、気をつけてね」
「ナディアもね」
そう言い残してダミーの鞄を手に部屋を出るマリーナ。
窓から見ていると、茶色の外套に白い帽子のマリーナがアパート出たところで男は彼女の後をつけ始めた。まんまとトラップにかかってくれたようだ。
「さあ、早く行くわよ……うん、だいぶ胸がきつい……」
他に怪しい人物がいないことを確認した後、黒い外套と帽子をかぶり、本物の資料を詰め込んだ鞄を持ったナディアも急いで外に出る。
所変わってコメニス書店。この日も本の卸売商を訪ねに行った両親の代わりに、ハーマニーは店番を任されていた。
「いらっしゃいませー」
カウンターで受験に向けて歴史の書物を読んでいたところで店にやってきたのは、労働者風の若い男だった。
「やあ、『王宮騎士団長の苦悩』という本を探しているんだけど、置いているかな?」
「それって確か10年近く前に流行った小説ですよね。もう重版はされなくなったと思いますが……今調べますね」
本を置き、ハーマニーは引き出しの中に収めていた帳簿を開く。ここには現在店内で保管されている書籍がすべてリストアップされている。
「あ、5冊ほど残っていました。すぐに取ってきますね」
ハーマニーがカウンターから離れ、裏の部屋の床板を外す。そこにはなんとレンガ造りの階段が現れたのだった。
この店には流行り廃れて売れ残った書籍などを保管しておく地下室がある。元々は食糧の貯蔵庫として使われていたが、70年ほど前に書店に改装された頃から書物の保管へと用途が変わったようだ。
蝋燭を載せた小さな燭台を片手に、ハーマニーは階段を降りる。地下ゆえに年中ほとんど一定の温度が保たれているため、今の季節はむしろ暖かく居心地の良いと思えてしまうこの部屋は、壁も天井も赤いレンガで固められていて、そのあちこちに書物を収めた木箱が積み上げられていた。
「ええと、どこかしら……あ!」
階段を降りて土の剥きだしの床を踏んだその直後のことだった。突如、先ほど自分の開けた床板の蓋がバタンと強く閉じられたのだ。
「な、何をするのですか! 出してください!」
慌てて階段を駆け上がり、怒鳴りながら板を叩く。だが鍵をかけられてしまったようで、いくら叩いてもびくともしない。
そうこうしている内にいくつもの足音が聞こえ、バタバタと本を落としたり何かをこじ開けるような音が続いた。客としてやって来た男とは別に少なくとも3人、さらに別の人物が上がり込んできて店を荒らし始めたようだ。
「出してください、ちょっと! 狙いは何ですか、かわいい女の子以上に大切な物なんて、この店にはありませんよ!」
どさくさに紛れて自らをアピールするハーマニーだが、押し入って来た連中は彼女の言葉に聞く耳など持たない。相変わらず聞こえ続ける物をひっくり返すような頭上からの音に、彼女は恐怖よりもむしろ怒りと苛立ちを募らせていた。
「ええい開けやがれぇ、うちには最終兵器の超絶強面スーパーマッチョマンがいるんだぞぉ! あんたたちみたいな優男どもなんて、指先ひとつでひとひねりだぞぉ!」
当然、ハインのことだ。実際に大柄で腕っぷしも立つハインなら、そこらの男に組み合って負けることは無いだろう。
だが口にした直後、ハーマニーは思い出して固まってしまった。今朝、疲れ切った顔で帰ってきたハインは軽くスープだけの食事を済ませると、すぐにベッドに潜り込んでしまったことを。
寝ているところを襲われれば、いくら屈強なハインでも危ない!
「ハインさん、早く起きてください!」
さらに強く床板を叩くハーマニー。手の皮がめくれてもおかまいなしで、必死に拳を振って声を張り上げる。
そんな彼女の想いが通じたのだろうか。その時、どうっと何もかもがひっくり返ったかのような轟音がほんの一瞬だけ響いたかと思うと、それに混じって「うぎゃあ!」と男たちの叫び声が聞こえ、たちまちしんと静まり返ってしまったのだ。
「へ、な、何ですか?」
音だけでは何が起こったのか理解し切れず、ポカンと固まるハーマニー。
そして誰かが駆け足で近付いてくる足音が聞こえると、頭上の床板が開けられる。
「ハーマニーさん、大丈夫でしたか?」
そこにいたのは王立魔術師養成学園のヘレン・パーカース先生だった。はあはあと息を切らし、眼鏡もずり落ちかけていたものの怪我は無いようだ。手には旅行鞄が提げられていた。
「パーカース先生! これは……先生が?」
地下室から飛び出し店内の様子をちらりと見るなり、ハーマニーは絶句した。店先の本棚はすべて倒され、そこらに散らばる書物。それらの山から足や手だけを覗かせて、気を失う侵入者の男たち。
「ええ、風起こしの術です」
風起こしの術は掌から突発的な強風を発生させる魔術だ。使いこなすにはそれなりに訓練の必要な中位魔術とされているが、広い範囲に効果があるとあって特に女性の魔術師からは護身用として好んで使われている。
「み、店が……」
「ごめんなさい。さっき一回使ってみたらちょっと得意になっちゃって」
あまりの光景に思考をストップさせるハーマニーの傍で、先生はしゅんとしおらしくなってしまった。
実は先生はつい先ほど、狭い路地に逃げ込んで追っ手の男ふたりと対峙しており、この術を久しぶりに使ったばかりなのだった。おかげで尾行は撒けたものの、想像以上の威力につい調子に乗ってしまい、書店を荒らす男たちを見るなり全力全開の魔術を叩き込んでしまったのだ。
その時、上の階から揉み合うような音が聞こえ、最後に階段をゴロゴロと何かが転がる。
我に返ったハーマニーが裏手の階段へと急ぐと、ちょうどゴロンと男が上の階から下まで転がり落ち、伸びきって白目をむいていたのだった。
先ほど本の在庫を尋ねてきた男だった。今、両親は出かけている。そうなると上の階にいるのはただひとり。
「ハインさん!」
「ハーマニー! 怪我は無いか!?」
ハインは大きな体で階段を駆け下りる。黒髪が寝ぐせではねているが、脇にしっかりと大き目の革製の鞄を抱え込んでいた。
「パーカース先生、これは……?」
いつの間にかこの場に来ていた先生の姿に驚きながらも、それ以上にすっかり様変わりしてしまった書店の様子に言葉を失うハイン。
仕方なしとはいえ原因である先生は顔を赤らめ、顔を伏せてしまった。
「ハインさん、ハーマニー、無事……て、うわぁなんだこりゃ!?」
突如、店先から聞こえたのはナディアの声だった。彼女も店の荒れ具合を目にして、つい本音が漏れ出てしまったようだ。
「ナディア、キミもまさか!」
「はい、変な男たちに追われています」
散乱した本と本棚の山を隔てて、大声で会話するハインとナディア。
ハイン、ナディア、そしてパーカース先生。狙われた3人の共通点と言えば、考えられる答えはひとつだけだった。
「こいつらの狙いは資料だ……他にも仲間がいるかもしれない、急いで逃げよう!」
床で倒れて気を失っている男たちを一瞥し、ハインは大切な物を詰め込んだ鞄をさらに強く抱えて言い放った。
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