第二章 その1 おっさん、夜は酒場で飲む

 その日、38歳の1年生ハインは授業が終わると真っ先に図書館に向かった。


 いつものようにナディアとマリーナからカフェに行こうと誘われたが、今日は用事があるからと断ったのだ。


「用事って?」


 鋭い眼光で尋ね返したマリーナに、ハインは「力仕事だよ」と朗らかに返す。しかしマリーナは腑に落ちない様子で、強引にハインについてきたのだった。ちなみにナディアもくすくすと笑いながら同行している。


 学内の敷地に併設された図書館には古今東西20万以上の書物が収蔵されている。この規模は国内でも王立大学図書館に次ぐ規模で、専門分野に限れば世界一の豊富な資料を誇っている。


「ハインさん、こっちこっち!」


 ちょっとした宮殿のような図書館の前に止められているのは幌を張った魔動車。その傍に佇む女の子が駆け寄るハインにちょいちょいっと手招きしている。


 歳は14ほど、魔術師養成学園に入学するにはあと少し足りない年齢だが、整った顔立ちに小さな顔、そして肩甲骨あたりまで伸ばした燃えるような赤毛は小柄ながら将来美人になることを約束しているかのようだった。


「やあ、遅れてごめんね」


「ハインさん、その子は?」


 速足で手を振るハインに、マリーナは勘繰るような眼を向けた。


「僕が下宿させてもらっている書店の子だよ。あ、同級生のマリーナとナディアだ」


「ハーマニー・コメニスです。よろしくお願いします」


 少女はぺこりと頭を下げて挨拶する。庶民向けながら清潔なドレスを着た彼女は接客を生業とする家の子だと言われれば誰でも納得するだろう。


「コメニス……ああ、コメニス書店の子ね、なーんだ。ハインさん、あそこに下宿していたのですか」


 マリーナがやたらと大げさにリアクションを取り、ナディアはいよいよ笑いを堪えるのも辛くなったようで皆に背を向けてぷるぷると震えていた。


「うん、学校にも近いから便利だよ……と、旦那さんの手伝いしなくちゃ」


 そう言ってハインは急いで魔動車の荷台に乗り込んだ。


「今日は父が図書館に本を卸しに来たのですが、冊数が多いのでハインさんにも手伝ってもらっているのです」


「そうだったの。ハインさん、身体大きいからそういうの得意そうね」


「そりゃマリーナの重みにもびくともしないハインさんだもの」


「ナディア、あなた今さらっと聞き捨てならないこと言わなかった?」


 ギロリと級友を睨みつけるマリーナ。


 その時、ハインの乗り込んだ魔動車が大きくきしみ、驚いたマリーナとナディアが視線を移した。やがて彼女たちが見たのは目を疑う光景だった。


 魔動車から降りてきたのは大人がすっぽりと入ってしまうほどの巨大な木箱を背負い、一歩一歩大地を踏みしめて歩くハイン。箱の中には書物がぎっしりと詰め込まれており、その重さは先日のマリーナの比ではない。


 だがハインはそんなものどこ吹く風、毎日の日課のように嫌な顔一つ見せず背負った荷物を運んでいるのだった。


「いやあ、ハインさんがいると作業時間が4分の1になりますよ。ハインさん、こっちです!」


 茫然と固まるふたりを置いて、ハーマニーはゆっくりと歩くハインを図書館内へと先導するのだった。




「ふう、力仕事の後はこれが一番だ!」


 行きつけの酒場でハインはビールを一気に飲み干すと、それを見ていたナディアとマリーナは小さく拍手した。


 あの後、ハインの作業を手伝ったふたりはお礼にと夕食をおごってもらっていた。


 何を食べたいか尋ねると、声を揃えてハインの普段通っている酒場に行きたいと答えた者だからハインは一瞬目を丸くしたものの、すぐに大笑いして快諾した。


 この国において飲酒自体は年齢で制限されることは無いが、過度の飲酒は堕落の象徴とされているため特に若い女性には毛嫌いする人も多い。


 学内でも飲酒は固く禁じられている。実際には軍事魔術師科の男子学生の間ではコミュニケーション代わりの飲酒がまかり通っているそうだが。


「本当に仕事帰りの人が多いんですね」


 ソーセージをつまんでいたナディアが周りの席を見回す。彼女の故郷にも酒場はあったが、ここまで多様な職業の人々が集う場は初めてだ。


 店内には工場帰りの作業員や大工、魔動車の運転手など様々な人間が酒と料理を楽しんでいた。若い女もちらほら見えるが、いずれもけばけばしく着飾った水商売の女ばかりだ。魔術師養成学園の生徒であるふたちはこの店に集う客の中で明らかに異質だった。


「ところで明日っていよいよ実践授業ですよね。何をするのかしら?」


 普段滅多に飲まないビールの苦みに舌を出しながら、ナディアが尋ねる。今までは座学ばかりだったが、明日からいよいよ実際に魔術を行使する訓練が始まると聞いて興奮と不安で落ち着かなかったのだ。


「お父様から聞いた話だと最初は魔術のコントロールから始めるそうよ。回復術も軍事魔術も結局は同じ魔力を使っているわけだからね。物を動かしたり、蝋燭に火を点けるところから始めるみたい」


「なぁんだ、回復術はまだまだ使えないのね」


「専門の教育を受けなくちゃ許可されないんだから、当然でしょ」


 そう言うとマリーナはぐびぐびとビールを流し込んだ。結構いける口のようだ。


「よう、若い子連れてお楽しみか?」


 ハインたちの机の脇を通りがかった肉体労働者風の男が唐突に声をかける。


 女子生徒ふたりは身構えてしまったものの、ハインは違う違うと首を振った。


「違うよ、学園の同級生だよ」


 聞くなり男は目を丸くした。


「おお、あんたたちが。このおっさんが迷惑かけてねえか? 変な目であんた達を見てきたらすぐにぶっとばしてやるから、安心しな」


「やめろ、お前の方がよっぽど危ないだろ」


「ふふ、もしもの時には相談させてもらいますよ」


「おうおう、いつでも頼ってくれよー」


 ナディアの華麗に切り返しに男は上機嫌に歌を口ずさみながら、カウンターに座る仲間の方へと歩いて行った。


「ハイン聞いてくれよぉ、またカミさんに逃げられちまったんだ。負けを取り戻そうと思って少しばかり前借しただけなのに」


「お前、前にも同じことしてただろ。ギャンブルはやめるって、そりゃ毎回毎回約束を破ってたら呆れられて当然だろ」


 またしても話しかけられるハイン。その後も度々話しかけられては冗談を言い合ったり酒を注ぎ合ったりと、普段落ち着き払ったハインしか知らないふたりにとっては新鮮な彼の姿を拝み続けたのだった。


「ハインさん、お友達多いのですね」


 話しかけてきた6人目の男が去った頃、マリーナはすっかり顔を赤くしていた。声も若干舌足らずになっている。


「長く生きているとね、いろんな人間関係ができるものだよ」


 もう何杯注がれたか数えていないジョッキを傾けるハイン。そこにまたしても新たな人影が近付く。


「おうハイン、今日も飲んでるか?」


 ハインにも劣らぬがっしりとした体躯。日々鍛えている太い腕を見せつけながらも、上品に切りそろえた口ひげがなんともチャーミングな大男だ。


「ヘルバール先生、今日もお疲れ様です」


 ジョッキを掲げて返すハインに、マリーナとナディアは「先生!?」と驚愕した。


「ああ、魔術師養成学園の軍事魔術師科のヘルバール先生だよ」


「なんだ、うちの学生か。あまり夜遅くまで出歩くんじゃないぞ」


 ヘルバール先生はその巨体を反らせてガハハと笑った。見た目通り細かいことは気にしない性分らしい。


「いつの間に飲み友達になっているんですか?」


「この前たまたま席が隣になってからかな」


 そう話すハインの傍らで、ヘルバール先生は空いている椅子に座るや否や、早速店員の女性にビールを注文していた。


「可愛い教え子もいるのだからな、せっかくだし好きな飲み物おごってやるよ」


「本当ですか!? じゃあ私ビールもう一杯」


「ちょっとマリーナ、飲み過ぎよ!」


「はっはっは、若いうちに飲めるだけ飲んで自分の限界を知るのも立派な勉強だぜ。そうだハイン、毎年3年生には夏に1週間の山籠もり研修があるんだけどよ、長雨で土砂崩れがあったせいで今まで使っていた山がダメになったんだ。どこか代わりに良い山を知らないか?」


「それなら少し離れているけど、ブルーナ伯爵領の北方にちょうど良い山地がある。町に近いし、そこまで深くないから仮に遭難してもすぐ見つかるだろう」


 酒を交えながらも話し込む男二人を眺めながら、ナディアとマリーナはもぐもぐとソーセージをかじっていた。


 笑い話も真面目な話も器用に同時にこなす男たち。ハインの普段から醸し出す余裕は、この酒場で培われているのかもしれないと、ナディアはふと思ったのだった。

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