この手の中の償い

 あの後起きてきたハジメにテスト勉強を教える間も、詩織は気が気でなかった。

 様子がおかしいのを心配するハジメの顔を見ることが出来なかった。いつその髪が黒く変色し、氷のような手を伸ばしてくるかと、笑顔の下で怯えていた。

 その晩はあのハジメを夢に見るのが怖くて一睡も出来ず、翌日の学校ではずっと気分が悪かった。

「詩織、だいじょうぶ? 」

 昼休みのチャイムが鳴った後、ハジメが心配そうに顔を覗き込んでくる。いつものように一緒に昼食にするのが、今は気が進まない。

「ううん、なんでもないわ……」

「無理しちゃだめだよ?」

 未だに目を合わせられないでいると、ハジメが不意に席を立った。

「あ、今日はちょっと用事あるから、ごめんね! 本当にしんどかったら保健室行かなきゃだめだよ?」

 そう言うハジメを慌てて見上げたが、彼女はもう教室から出る所だった。

 「あ……」

 伸ばしかけた手を、所在なく漂わせる。

「おい、さっき寝てたろお前」

 無遠慮な言葉の主を睨んでみれば、にやにやしている杉田がそこにいた。いつもなら軽口をたたき合う所だが、今はそんな気になれず、視線をずらして溜息をつく。

「おい無視するなよ……あれ、槙野は」

「知らないわよ……何もしゃべらずに行っちゃったわ」

 ぶっきらぼうに答えると、杉田は思わぬことを口にした。

「最近、御崎たちと一緒にいるとか聞いたけどよ、ちょっとありえねえよな」

「御崎って、あの親衛隊の? アンタ、それ本当なの!?」

 あの禁書の事件があってすっかり忘れていたが、ハジメは自分たち以外の生徒が河津を苛めていたあの日、クレエの親衛隊に呼び出されていた。詩織もついていったが、彼女たちが河津をむち打つように洗脳されていたため、本来何の用だったのか分からずじまいだった。

 あの後禁書を巡る騒動に巻き込まれ、夏樫という得体の知れない女が現れたため親衛隊のことを失念していたーー

「迂闊だったわ……」

 それは言い訳にならない。ハジメを何としても、誰からも守ると決めたのは自分だ。

 それが出来なければ……

――槙野ハジメを返してよ――

 黒髪のハジメの指の冷たさが蘇り、詩織は総毛立った。

「お、おい?」

 椅子を蹴って立ち上がり、杉田を置き去りにする。

 購買や食堂などを見て回ってもハジメは見当たらなかった。ひりつく焦燥を抱えて廊下に出ると、目の前の生徒にぶつかりそうになった。松葉杖を突いた人影が転びかけるのを、一緒にいた女生徒が支える。食堂に入るところだったようだ。

「あっ……ごめんなさい、田端さん、河津くん」

「詩織ちゃん、どうかしたの?」

「ハジメがクレエの親衛隊に呼び出されたかも知れないの、どこかで見なかった?」

 満雄にぴったり寄り添った奈帆は、何かに気づいたように目を見開いて片手を口にかざした。

「親衛隊……だったら……」


――夏樫さんから禁書を受け取る前に……ハジメちゃんが御崎さんたちに声を掛けられる所を見たの。もしハジメちゃんがいじめられてるなら、と思って禁書で御崎さんたちの意識を変えちゃったんだけど……

 奈帆は禁書を用いたとき、クラスメイトたちの河津満雄に対する認識を書き換え、親衛隊のハジメに対する関心を満雄へと置き換えた。その結果、親衛隊の御崎たちは満雄に特にひどく債なんだ。

――古い校舎の裏、人気のないベンチのところ。

 それを聞きだした詩織は一目散に校舎裏を目指した。



「槙野さん、前にお話しした件についてはお分かり頂けた、ということでよろしいですわね」

 四つ葉のクローバーのイヤリングを身に付けた、親衛隊のリーダー、御崎遥奈は腕を組み、高圧的に言い放った。親衛隊の3人が周りを固めている。

「うん……わかったよ」

 頷いたハジメの表情はいつになく真剣だ。

「そう、でしたら結構よ。今後あなたは……」

 満足そうに御崎が言いかけたとき、

「ハジメ!!」

 飛び込んできた詩織が大音声を出す。

「アンタたち、ハジメから離れなさい!」

 鋭く指差す詩織に、御崎たちは眉を吊り上げる。

「河野さん、今は槙野さんとお話しているのよ。後にしてくれないかしら」

「詩織? どうしたの?」

 囲まれていながらきょとんとしているハジメにますます焦りが刺激される。

「こんな人目につかないところで大人数でハジメに何をしてたのよ!」

 叫びながら、自然とスマートフォンを取り出していた。当然、魔導書アプリを起動させている。

「……非常識な方ね。事前の手続きなしに魔術戦をちらつかせるなんて」

 少し驚きの色を浮かべたものの、御崎は冷たく言い返した。

「あら、アンタたちのクレエ様はハジメに不意打ちしてきたわよ? あれはいいのかしら」

 詩織が混ぜっ返すと、親衛隊は一様に色めき立った。

「あれはクレエ様に義があるに決まっているわ!

「ふん、まともにクレエ本人と話したこともないのに何が分かるの」

「~~っ、よ、余計なことを!!」

 途端、御崎は顔を真っ赤にして自分のスマートフォンを取り出した。伝子が制御下に置かれ、僅かながら気温が下がり始める。

「負けても減らず口が叩けるかどうか見せてもらうわ!」

「上等よ、ハジメに手を出すなら容赦しないわ」

 御崎の手に金色の魔力球が生成され、詩織は火炎を発生させる。魔術をぶつけ合う、まさにその寸前、ハジメが割って入った。焦るでもなく、いつものように間抜けな顔で、無防備に、のんびりと歩いて、二人の間に立った。

「槙野さん、何を……」

「どいてなさいハジメ!」

 気が立ったために怒鳴りつけたが、ハジメはひるむでもなく詩織に近づき、ゆっくり手を伸ばしてきた。詩織はさらに言葉を続けようとして――ハジメと目が合った。

――詩織はいいよね――

 口を開きかけたハジメの表情と、夢に見た黒髪のハジメが、重なる。

 背筋に悪寒が走り、詩織は思わずスマートフォンを取り落とす。保持していた火炎の魔術が消え失せる。

「詩織――」

 ハジメの唇が自分の名前の形に動く。それだけなのに――胸の中は恐怖でいっぱい。その声音が冷たく嗤うものになりはしないか。今ここで、記憶を失ったのが自分のせいだと弾劾しはしないか――

「詩織、だめだよ? 御崎さんたちは相談してただけだよ」

 その声は聴き慣れた響きで。

「……相談?」

 目をそらしてしまいながら、オウム返しに訊ねる。

「そう、相談。みんなクレエちゃんと仲良くなりたいんだって」

「な、なにを言っているの? わたしたちはあなたのような者がクレエ様にお近づきになるのは不釣り合いだと……」

 御崎は困惑したようにハジメの背中に口走る。怯えていた詩織は鋭く睨んだが、すぐにハジメが口を開く。

「わたしはクレエちゃんの友達だよ」

 意外なほどはっきりとした声音は、詩織だけでなく御崎も驚かせた。

「わたしがクレエちゃんの友達だから、クレエちゃんと友達になりたいからわたしに声をかけたんでしょ?」

 なぜそんな楽観的解釈が出来るのか――ハジメを除いた全員が、同じことを考えていただろう。

「ち、違うわ! クレエ様と仲良さそうにしてる槙野さんがうらやまし、いえ……」

 御崎の脇に控えていたショートヘアの生徒が反論しようとして自白した。御崎は咎めるように視線を送るが、ハジメにはそれで十分だったようだ。

「ね、高倉さん、うらやましいってことは『わたしも友達になりたい』ってことでしょ」

「そ、それは……」

 親衛隊は皆そわそわと落ち着きがなくなり目をそらすが、ハジメはにこにこと彼女たちを見つめた。

「違うの?」

 狼狽える彼女たちに詩織が呆気に取られているうちに、根負けしたように御崎が小さく頷いた。

「うん、じゃあ今度クレエちゃんと一緒に遊びに行こう? 詩織もいいよね?」

 満面の笑みでこちらを振り返るハジメに、詩織はもう何も言えなかった。

 使命感でこわばっていた肩から力が抜けるのが分かる。

 だが一方で、小さなしこりも胸の中にあった。

 喧嘩腰だった手前やたらと照れ臭そうにしている御崎相手にあれこれと話しかけるハジメの横顔。

 怖がるでも怒るわけでもなく、幸せな思い込みだけで――結局それは本質をついていたにせよ――結果的に解決してしまった。

 今までハジメのことを守ると固く誓ってきた。

 でももしかしたら……ハジメが自分なしで何かを解決できるのなら。

 いつか自分は、ハジメにとっていらなくなってしまうのではないか。

 そんな思いを知るはずもなく、ハジメの白い髪が揺れていた。

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