第49話 昔話

 資料に引き続き目を通していると、声をかけられた。


「アレン」

「? 父さん? どうかしたの?」


 内庭へやって来たのは背が高く眼鏡をかけた狼族の男性――父のナタンだった。右手には、ワインの瓶とグラスの二つ持っている。


「そっちへ行ってもいいかい?」

「勿論。丁度、紅茶を淹れに行こう、と思っていたところだったんだ」

「そうか。丁度よかったみたいだね」


 父は普段通り、穏やかな微笑を湛えたまま近づいて来た。

 資料を綴じる。明日、出発する前に、王都へ送っておこう。

 あ……僕は膝上のアンコさんを肩へ乗せ、立ち上がる。


「椅子がないや。父さん、座ってよ」

「こういう時は息子を座らせるものじゃないかな? こう見えて、昔はエリンと一緒に長旅していたんだ。足腰には自信があるよ、遠慮はいらないさ」


 そう言うと、父はワインとグラスを丸テーブルへ置き、ポケットから小さな袋を取り出し、中身を空いている小皿へ出した。煎り豆だ。

 僕が座るのを逡巡していると、父はワイン瓶のコルクを開け始める。

 明らかに古く、同時に見たことがないラベル。印刷されているのは、見たこともない紋様。外国産だろうか。

 父が嬉しそうに独白する。


「ふふふ……君がお酒を飲める歳になったら開けよう、と思って残しておいた、僕とエリンの故郷のワインなんだ。ああ、エリンには内緒だよ? バレたら怒られてしまう。大丈夫。あと、二本あるからね。綺麗な夜猫さん。息子が座ってくれないので、椅子を運んでいただけますか?」


 丁寧な依頼に黒猫な使い魔様が応じ、一鳴き。同時に、僕の頬を軽くてしてし。

 もう一脚、木製の椅子が転移して出現。

 アンコさんがお願いを聞いてくれた!?

 コルクが抜かれ、グラスへ赤ワインが注がれていく。


「ありがとうございます。アレン」

「あ、うん」


 僕は椅子に腰かけ、グラスを手に取った。アンコさんが膝上に帰還。

 父も手に取り、


「「乾杯」」


 カラン、という涼やかな音。

 そのまま、ワインを一口。思わず呟く。


「――美味しい」

「良かった。――アレン」

「?」


 父が僕の名を呼び、黙り込んだ。

 僕は小首を傾げ、後の言葉を待つ。

 すると、父が手を伸ばしてきて、僕の頭に手を置いた。


「……本当に、大きくなったねぇ……」

「と、父さん? いきなりどうしたの?」

「いや、なに……」


 手を引き、父は眼鏡を外し、目元の涙を拭う。

 そして、僕へ慈愛の視線を向けてくる。


「あんなに小さかった君が、今では僕と一緒にワインを飲めるようになり、剰えあまつさ、どんどん偉くなっている。そのことが、どうしようもなく嬉しくてね。アレン、何回だって、何十回だって、何百回だって言う。君は僕とエリンの誇りだよ」

「父さん……」


 思わず、胸が詰まった。

 父も母は、血の繋がっていない僕を心から愛し、慈しんでくれている。

 そのことが、僕の支えであり、先行きを照らしてくれる灯火だったのだ。

 父がグラスを置いた。


「だからこそ――今、伝えておきたいことがあるんだ」

「……はい」


 僕も居住まいを正し、グラスを置き、父の視線を受け止める。

 ――温かいけれど、同時に強い憂慮。


「アレン、君は今や、王国の偉い方々からも将来を嘱望されている。そして、その期待に応えていくとも思う」

「…………」

「けれど――……君はエリンに似て、とても優しい。地位が上がれば上がる程、多くの困難が君を圧し潰そうとし、同時に苦しむだろう。勿論、君を助けてくれる人達も大勢いるのは分かっているよ。でも」


 父の真剣な視線が僕を貫いた。


「僕は、君の父親だ。そして、お酒が飲める歳になったとはいえ、君はまだ十七。いいかい、アレン? 本当に危なくなったら逃げておいで。なに――また家族四人で大陸中を旅するのも悪くないのだから」

「…………それは、凄く楽しそうだね」

「楽しいさ。とても大変だったけれど――未だに旅した場所の風景、空気、出会った人々を覚えているよ」


 僕は再びグラスを手に取り、掲げた。

 父さん、母さんだけじゃないですよ、とても優しいのは。

 ――今の言葉は『いざとなったら、獣人族から排他されても僕等は構わない。王国の未来よりも、お前が大事だ』という意思表明に他ならない。

 うん、やっぱり僕は、父さんと母さんに拾われた段階で、一生分の幸運を使い切っているんだな。


「肝に銘じておくね。――このワイン、本当に美味しい。そう言えば、父さん達の故郷の話、聞いたことがないや。聞いてもいい?」

「覚えておいておくれ。――いいとも。その話もしようと思っていたんだ」


 父は微笑。 

 煎り豆を手に取り、足を組んだ。


「僕とエリンが、東都の生まれじゃないことは知っているね?」

「うん。若い頃に故郷を出て、旅をしてたって」

「――色々な所へ行ったよ。ユースティン帝国や北方蛮族域。南方島嶼諸国や、侯国連合の東に位置する連邦や自由都市群。……西方狼族で僕等程、大陸中を歩き回ったのはいないんじゃないかな。聖霊騎士団領やララノアには行けなかったけどね」


 僕は頷く。

 王国より東は聖霊教の影響力が強い。獣人や南方島嶼諸国出の人々は未だ、人間扱いされていないのだ。

 父が赤ワインを飲み干した。僕は注ぎ直す。


「ありがとう。ふふ……アレンに初めてワインを注いでもらったのは、僕だったね」

「母さんには内緒で。――父さん達が西方の出、というところまでは聞いたよ」

「ここから先のことは他言無用だ。まぁ……荒唐無稽過ぎて信じてもられないだろうけどね」

「はい。アンコさん」


 僕は軽く左手を振り、膝上の黒猫姿な使い魔様にもお願い。

 ――幾重にも静音魔法と不可視の結界が張り巡らされた。

 父を視線で促す。


「僕とエリンの故郷はね、確かに『西方』にある。けれど――『王国西方』という意味じゃない」

「と……言うと?」


 何となく声を小さくする。

 すると、父は驚くべき言葉を発した。


「僕等、西方狼族の隠里はね、血河を越えた先――魔王領内の聖地近くにあったんだ。僕とエリンは、二人だけで血河を渡って此方へやって来たんだよ。信じてくれるかい?」

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