第87話 潜伏
「なあ、ジーン……」
「は、はあ……?」
「良いだろう? あたし、もう、耐えられないよ」
「そ、そう、仰られても、ヘレンさんからきつく仰せつかってますから……」
宿に籠もってから、まだ三日しか経っていない。
しかし、アイラはもう退屈で仕方がないようで、さっきからジーンを困らせている。
「だってさあ、凄く美味い焼き肉屋があるらしいぜ。コロだって、宿の食事には飽きたと思うんだ」
「……、……」
「たまには、美味いものでも食べなかったら、いざってときに、緊縛呪が撃てないかもしれないしな」
「……、……」
「もし、そうなったら、それこそヘレンに怒られるだろう? なあ、一回だけで良いんだよ。昼にチョロッと食べに行こうよ」
「……、……」
「金のことなら心配しなくて良いよ。あたしが全部おごるし、ジーンは酒だって飲めば良い。バロール討伐のときにもらったのが丸々残っているんだ。だからさあ……」
「では、これに着替えていただけますか? エイミアさんから借りてきた、町娘風のブラウスとスカートですが……」
「そ、それは……。ほら、今の格好で良いだろう? 今までだって、稽古着にオーバースカートで誤魔化してきたんだし……」
「ですが、ここは戦場のすぐ側です。美味い焼き肉屋ともなれば、敵の兵士だって訪れているでしょう。見る者が見れば、稽古着であることは分かってしまいますよ」
「そ、そうかな? 心配し過ぎじゃないか?」
「いえ……。ヘレンさんに言われました。アイラが外に出たいと言い出したら、必ず町娘風の格好で出ること……、と」
「……、……」
「私には、作戦をまっとうする義務がありますので、ご不満なら、会ったときに、ヘレンさんに仰って下さい」
ジーンにもアイラの言わんとするところは分かっている。
アイラは別に焼き肉がどうしても食べたいわけではない。
ただ単に、外に出て、この籠もりきりの状態から抜け出したいだけなのだ。
しかし、ジーンは、いくらアイラが言っても、首を縦に振ることはなかった。
確かに、ヘレンからは町娘風の格好で出掛けるように言われていたし、それを拒んでいる以上、許可が下りるわけもない。
そう言う点で、ジーンは非常に任務に忠実な男だった。
一見、宿の主人で砕けているように見えても、中身はバリバリの警備隊員……。
職務を確実にこなすことは、ジーンにとって何よりも大事なことのようで、アイラの希望は先ほどから何度も却下されていた。
「なあ……、コロ? あたしがエイミアと同じような格好をしたら、おかしいよな?」
「……、……」
「それに、焼き肉を食べたいだろう? コロだってさ」
「……、……」
おいおい……。
ジーンがダメなら、今度は俺をダシに使おうってのか?
……ったく。
そんな、馴れ馴れしくなでてきたってダメだよ。
ヘレンに言われてるだろう?
大体、エイミアとヘレンと別れた直後に、おまえが何を言ったか忘れたのか?
そこらの蜘蛛を捕まえて、
「これ、美味いんだぜ。甘くてちょっとしたデザートになる。ほら、コロも食べてみろよ……。何だ、嫌なのか? そんな軟弱なことじゃ、ダメだぞ。エイミアが甘やかすから、すっかり人と同じものしか食べなくなっちゃって……」
と、言ってなかったか?
そのアイラが、焼き肉だって?
そりゃあ、俺だって喰いたいけど、ヘレンに怒られるのは嫌だからさ。
考えてもみろよ。
あのヘレンを怒らせたら、多分、一生、何かにつけ、ネチネチ言われるんだぜ。
ただでさえ、ヘレンには理屈で敵わないのに、その上、こんなしょうもないことで怒らせるなんて、俺は絶対しないよ。
だからさあ……。
なでてもダメだって……。
あまりにしつこいから、俺は尻尾でアイラの手を払ってやったよ。
そのときの憮然としたアイラの顔と言ったら……。
ジーンにも俺の気持ちが分かったようで、「プッ……」って吹き出していたっけ。
「こ、これで良いんだろう?」
「えっ……?」
しばらく隣の部屋で大人しくしていたアイラが、唐突に言った。
あ、アイラ……、それって、町娘風の格好じゃないか。
「ちょっと、肩と首のところがキツイんだよ。エイミアは痩せてるからさ……」
「そうなさっていると、アイラさんも街のお嬢さんに見えますよ」
「……、……」
「そうですね、少し肩がきつそうですね。では、服屋で新しいブラウスを買いましょう。大丈夫ですよ……。私は、娘や嫁のお供で、何度も買い物をしたことがありますから……」
お、おい……。
あんなに嫌がっていたのに……。
だけど、エイミアはかなり痩せてるんだぞ。
それなのに、アイラの奴、ウエストなんかはほとんどサイズが同じじゃないか。
まあ、首周りや肩は、なで肩のエイミアより大きいのは仕方がないけど、この身体で、よく炎帝との力くらべに勝ったなあ……。
それに、意外だけど、似合ってるよ。
ジーンの言う通り、そうやっていると、お嬢さんっぽい。
どう見ても、武闘家とは思えないな。
「ほら……、あたしが着替えたんだから、さっさとジーンも出掛ける支度をしろよな」
「は、はあ……」
「こんな恥ずかしい格好までしたんだからな」
「……、……」
なあ、ジーン……。
女の子って怖いな。
格好でこんなに違っちゃうんだからさ。
俺も、ジーンの気持ち、分かるよ。
あまりの変わりように、ついついポカンと見とれちゃうよな……。
それに、少し恥じらってるアイラって、余計可愛く見えるかも……。
だけど、エイミアとヘレンがいる前じゃ、絶対にこんなアイラは見られないに違いない。
ヘレンに、「クスっ……」ってやられでもしたら、アイラは怒り出すだろうしな。
「お似合いになられますよ……」
「そ、そうかな……?」
「これを機に、普段もそういう格好をなさってはいかがです?」
「い、いや……。こんなフリルの付いたブラウスなんて、着るところもないし、恥ずかしいだけだよ」
「……、……」
「それに、スカートがスースーして、寒くて仕方がない」
「ふふっ……」
おっ、その新しいブラウス、良いじゃないか。
ジーンって、結構、センスが良いのかもしれない。
胸元にフリルが付いているから、目がそっちに惹きつけられて、肩が厳めしいのもパッと見では分からないしな。
アイラは散々嫌がっていたけど、服屋の店員も、
「凄くお似合いになられますね。お嬢様にはピッタリだと思います……」
と、言っていたじゃないか。
「ほらっ……、もう、そんなにジロジロ見るなよ。さっさと焼き肉屋に行くぞっ!」
「アイラさん……。あとは、その言葉遣いを何とかしないと。ヘレンさんに気をつけるように言われたでしょう?」
「うっ、うぐぐ……。む、無理だよ。こればっかりは、ちょっとやそっとじゃ治る気がしない」
「それなら、あまりお喋りになられない方が良いですね。あっ、あれですね、美味い焼き肉屋と言うのは。うーん、香ばしい、良い匂いがしてます」
「……、……」
「では、参りましょうか? くれぐれも、お淑やかにお願いしますよ」
言葉遣いは、仕方ないよな。
そう、黙ってれば全然分からないんだから、そうしてなよ。
それにしても、この匂い、確かにスパイシーだよ。
やっぱ、噂通り美味しそうな気がする。
まあ、アイラは窮屈かも知れないけど、たまにはそうしていなよ。
それこそ、美味い肉でも食べて、うさを晴らしておくれ。
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