(4)愛の重さ
「大丈夫そうでした?」
「取り敢えずは。凄く緊張した。大口契約が纏まるか纏まらないかの、瀬戸際の時の比じゃ無いぞ」
「お疲れ様でした。それで、和洋さんの方はどうします?」
疲労困憊状態の友之を見た沙織は、苦笑しながら確認を入れた。すると彼の口から、情けない声が漏れる。
「……頼む。ダブルヘッダーは勘弁してくれ」
「そうでしょうね。和洋さんは、もう少し後で良いですよ。絶対揉めるでしょうし。リラックスできるように、珈琲かハーブティーでも淹れますか」
苦笑を深めながら立ち上がった沙織だったが、ここで友之が真顔になって彼女の手を捕らえた。
「沙織」
「何ですか?」
「お母さんに宣言したからでは無いんだが、俺はどんな形で一緒になるとしても、沙織と別れるつもりは無いからな?」
念を押すように言われた沙織は、全く気負う事無く言葉を返す。
「私もそうですよ? 結婚してみても良いかなって思ったのは、友之さんだけですし」
「そうか」
「でもそっちこそ、本当に私で良いんですか? ベタベタのバカップルには、間違ってもなれそうに無いんですけど」
その申し出に、友之は不思議そうに問い返した。
「それは俺もそうだが。何か気になる事でもあるのか?」
「この間、新婚家庭という物を脳内シミュレーションしてみたんですが……。何と言うか、色々と想像力の限界を越えてしまいました」
「ああ、口調とか雰囲気とか? 今更俺が、そんな事を気にすると思うのか? 寧ろ沙織が急に可愛い事をしたり言ったりしたら、具合が悪いのかと不安になるから止めてくれ」
そんな事を大真面目に言われてしまった沙織は、思わず憮然とした顔つきになった。
「……なんだか、軽く侮辱された気がするのは、気のせいでしょうか?」
「別に丁寧な口調でも構わないし、家で変に馴れ馴れしい口調で話していたら職場でうっかり出そうで、それが少し不安なんだろう?」
「確かに、それもありますけど……」
「だから変に意識して、無理に変えなくて良い」
「そうですか?」
「両親は気にしていないし、態度が素っ気なくても沙織が結構可愛いのは、俺はちゃんと分かっているからな。それに、沙織は他の人間に対して無駄に愛想を振り撒くタイプじゃないから、俺は寧ろ安心できるが?」
「……そんなものですか?」
「そんなものだ」
なんとなくすっきりしないまま沙織が呟くと、友之が苦笑しながらそれに応じる。
(言われ慣れていないような事を、面と向かって言わないで欲しい。それに向こうはしっかりプライベートと仕事で口調を使い分けているし、ちょっと……、ううん、結構負けた気分)
「まあ、そのうち、自然に変わるかもしれませんね」
「そうだな」
憮然としながらも自分に言い聞かせるように沙織が口にすると、一連のやり取りでいつもの調子を取り戻したらしい友之が、笑顔で話題を変えた。
「ところで沙織。マリッジリングはどうする? 職場では結婚したのは当面秘密にするし、常に付けられ無いだろう? だからペアウォッチでも買おうかと考えていたんだが」
「その方が良いかも。どうせなら、普段使いができる物の方が欲しいです」
(見せびらかす必要は無いし、時計なら必需品だし、値段も手頃よね)
沙織が同意して頷くと、友之は嬉々として持参した鞄の中からある物を取り出した。
「よし。そうと決まれば、ちょっと見てくれ」
「『見てくれ』って……、一体何を?」
「昨日と今日、帰りに幾つかの店舗に寄って、現物を見ながら考えてきた。デザインと機能性から考えると、こういう物とかはどうだ? 他にもネットで探す事はできるが」
「いきなりどうかと言われても、やっぱり一応現物を見てみない事には……」
目の前のテーブルに、高級ブランドの商品パンフレットを複数並べらえた沙織は困惑したが、一応その中の一つを手に取って中を確認し始めた。しかしすぐに目を見開いて、悲鳴じみた声を上げる。
「は、はいぃ!? ちょっと待って! 何、この価格設定は!?」
「俺が来店した時に対応してくれた店員は、店頭で購入時には勉強してくれると言っていた」
「幾ら多少値引きするからって、この金額! 桁が一つ違いますよね!? こんな時計とは思えない値段の代物を付けて、仕事をしろと!?」
激しく動揺した沙織だったが、友之は不思議そうに首を傾げた。
「何を怖じ気づいてるんだ? 沙織はこの額よりも高額な取引を、幾つも締結しているだろう?」
「それとこれとは、話が違うでしょうが!」
「ああ、費用の面なら心配するな。記念に揃えるから、俺が両方出す。やはり一生ものだから、良い物を揃えないとな」
「それなら良いですけど、いえ、良くは無いですよ!?」
「どっちなんだ。それから一緒に、エンゲージリングも見繕うからな。沙織はダイヤモンドが良いか? それとも誕生石とか、他の物でも良いが」
そこで完全に自分を取り戻した友之はさっさと話を進め、それとは対照的に沙織の狼狽ぶりは悪化の一途を辿った。
「この金額を見せられた後で、指輪の話なんか怖くてできませんよ!」
「よし決まった。今度の週末のデートコースは、宝飾店巡りだな」
「人の話を聞け――っ!」
「沙織がここまで取り乱すのは、本当に珍しいよな」
思わず友之の胸倉を両手で掴んで叱り付けた彼女を見て、友之は心底楽しそうに笑った。
(本気で楽しんでるし、どう見ても買う気満々よね。買ってくれるって言うんだから、ありがたく受け取るべきなんだろうけど。でも本当は婚約とか結婚の記念品って、お互いに贈り合う物じゃないの!?)
色々と葛藤したり困惑したものの、結局は友之に押し切られる結果となった沙織は、翌朝、ぐったりしながら出社した。
「おはよう、沙織。どうしたのよ? 珍しく、今日は朝からどんよりした空気を醸し出して」
「ああ、うん。ちょっとね。我ながら、不器用で素直じゃない性格だと再認識したのと、愛が予想以上に重かった件について、しみじみ考えていたのよ」
背後から声をかけ、並んで歩きながら不思議そうに尋ねてきた由良に、沙織は思わず真っ正直に答えてしまった。それを聞いた由良が、途端に変な顔になる。
「何なの? 沙織から『愛が重い』云々なんて台詞を聞いたのは初めてだと思うし、全然知らなかったけど、今現在付き合っている人がいたの?」
「そうじゃないんだけど……。今のは、器用にも歩きながら寝言を口走ったと思って頂戴」
「寝言って……。まさかとは思うけど、男日照りが続いた挙句に妄想をこじらせて、エア彼氏とか作ってるんじゃないでしょうね?」
「……それは無いから。安心して」
「本当に大丈夫?」
苦しい誤魔化し方をした事で、沙織は真顔で由良に心配されてしまい、余計な精神的ダメージを負ってしまった。しかしそんな誤解を放置もできず、引き攣った笑顔で彼女を宥めながら、職場へと向かう羽目になった。
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