(13)沙織の困惑

「さっき言及したように……、俺の家族に関しては了承して貰っているが、沙織の家族の方が納得してくれるとは限らない。そもそも沙織自身が、俺と結婚しても良いと、判断してくれるとは限らないしな。だから、ここに書いてある条件で結婚を考えて欲しい」

「考えて欲しい、って……」

 再び困惑した沙織に対して、友之は冷静に話を続けた。


「それで、俺と結婚しても良いという結論を出したら、そちらの家族にも話をして貰いたい。その場合は近いうちに都合を付けて、諸々の説明を兼ねてご挨拶に行くつもりだ」

 真剣極まりない表情で話し続ける友之に、沙織は思わず口にしてしまった。


「あの……、本気で言ってるんですか?」

 ここで友之ははっきりと顔をしかめながら、不本意そうに言い返す。


「俺は冗談でプロポーズする程、ふざけた性格はしていないつもりだが?」

「すみません、今のは口が滑りました。でも、私のどこがそんなに良くて、本気で結婚を考えたんですか? 自分で言うのもどうかと思いますが、可愛げなんかありませんよ?」

 真面目に問い返した沙織だったが、友之は微塵も怯まずに言葉を返す。


「微妙に価値観が同じで安心できる事と、微妙に違う所があって退屈しない事と、傍若無人に見えて結構目端が利いて、気配りができる所だな。考えれば他にも、色々と挙げる事はできると思うが……。取り敢えず東京タワーとジョニーには負けるが、沙織に人間の男の中では俺を一番と思わせたいのが、結婚したい最大の理由だな」

「まだ言ってるし……、しかも少し根に持っているっぽいし」

 思わず小声で愚痴っぽく呟いた沙織だったが、そんな彼女に向かって、友之が再度問いかけた。


「沙織にとって俺は、そんなに男として魅力が無いか?」

「そういう事は無いですが……」

「それなら少し、前向きに考えてみてくれたら嬉しい。取り敢えず、この中に保険証書が入っている。必要なら条件を記載した物と合わせて、ご家族に見せてくれ」

「はぁ……、取り敢えずお預かりします」

 そこですかさず友之は持参した鞄の中から大判の封筒を取り出し、沙織に向かって差し出した。それを彼女が何とも言えない顔で受け取ってから、さり気なく付け加える。


「できれば返事は、1ヶ月以内で頼む」

「……分かりました」

 思わず反射的に答えてしまった沙織は、次の瞬間それに気付いて盛大に舌打ちしたくなった。

 それからは言いたい事を全て言い切り、完全に緊張から解放された友之が、結婚の「け」の字も口にしないまま上機嫌に話題を出し、料理を食べ進めた。それとは対照的に沙織は口数が益々少なくなったが、その理由は分かっていた為、友之は彼女に無理に喋らせるような真似はせず、最後まで楽しげに喋り倒した。


「それじゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 結局マンションまでタクシーで送って貰い、入口前で降ろして貰った沙織は、機嫌良く挨拶した友之を乗せたタクシーが見る間に遠ざかっていくのを、憮然としながら見送る羽目になった。


「何なのよ、もう……。自分だけ、すっきりした顔をしちゃって……」

 そんな愚痴を口にしながら、沙織は手にしている封筒を、途方に暮れた表情で見下ろす。

「結婚……。しかも事実婚って……。どうすれば良いのよ……」

 その夜はいつもの就寝時間より遅くまで悶々と悩んでいた沙織だったが、それで仕事に支障をきたすわけは無く、翌朝はいつも通りに出勤した。


「おはようございます」

「おう、おはよう、関本」

「おはようございます、先輩」

 あちこちからかかる声に挨拶を返しながら、沙織が自分の席に向かって進むと、自然に課長席が目に入った。そして既に何やら仕事に取りかかっている友之が、自分と視線が合っても微塵も動揺していないのを見て、内心で少々腹を立てる。


(友之さんは……。あんな爆弾発言した翌朝なのに、いつも通り過ぎてなんかムカつくわね)

 しかし自分も冷静に会釈を返した沙織は、席に着きながら考え込んだ。

(だけど事実婚をした場合、これが普通なわけで……。と言うか態度が変わったら、こっちが困るんだけど)

 手を動かしながらもそんな事を考えていた沙織の口から、無意識に苛立ちが零れ出る。


「どうして私が、こんなに悩まなくちゃいけないのよ。確かに当事者だけど、いきなりわけの分からない事を言われたのはこっちなのに」

「先輩? どうかしましたか?」

 その腹立たしげな呟きを耳にした佐々木が、隣の席から訝しげに尋ねてきた為、沙織は慌てて誤魔化す。


「え? ええと……。うん、何でもないのよ? 独り言だから、気にしないで?」

「そうですか?」

 佐々木はそれ以上突っ込んでくる事は無く、再び仕事に取りかかったが、それを確認してから沙織は盛大に溜め息を吐いた。


(駄目だわ。一人で悶々と考え込んでいても、ドツボにはまりそう……。だけど由良を初めとする《愛でる会》の皆の耳に入れた日には、暴動が起きそうだし、滅多な人には相談できないもの。どうしたものかしら)

 それから二日程、仕事の合間に密かに悩んでいた沙織は、結局、普段であれば向こうから連絡してくる兄に自分からメールを送り、その週末に彼の自宅を訪問する事となった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る