(9)思いがけない出来事

「それでは、こちらのお部屋になります。先にお飲み物をお伺いしますが、いかがいたしましょうか?」

 襖で仕切った隣の部屋に客が通されたらしく、女性店員の声が微かに聞こえてきたが、最初友之は聞き流していた。しかしそれに応じて客が発した声を聞いた途端、飲んでいた酒を噴き出しかける。


「取り敢えずビールと、和洋さんは烏龍茶で良いわよね? 飲めないんだし」

「沙織、一言余計だよ」

「かしこまりました。少々お待ちください」

「うっ、ぐっ、ぐはっ!」

「おい、友之、どうした?」

 いきなりむせた友之を見て、正彦が心配そうに声をかけると、友之は隣と仕切っている襖を指差しながら、声を潜めてその理由を告げた。


「今の声……。続き間に沙織と、さっき話した沙織の父親が来ている」

 それを聞いた正彦は、驚いて勢い良く襖に顔を向けながら尋ねた。

「はぁ? お前、まさか知ってたのか?」

「知るわけ無いだろう。偶然だ」

「凄い偶然だな……。挨拶しなくて良いのか?」

 そう尋ねた正彦だったが、友之は苦渋の表情になりながら、呻くように告げる。


「本来なら、挨拶するべきだろうが……。沙織の両親は離婚して、彼女は母親に引き取られて育ったんだ。滅多に会えない娘との二人っきりの団欒に割り込んで邪魔をしたら、それだけで確実に怒りを買う筈だ。今日は気付かないふりをして、万が一顔を合わせる事態になったら挨拶する」

 友之が神妙な顔でそんな事を口にするのと同時に、隣の部屋から上機嫌な和洋の声が聞こえてくる。


「沙織とゆっくり顔を合わせるのは、実に久し振りだからな! 本当は今日は接待を受ける予定があったんだが、しっかり豊に押し付けてきたぞ!」

「他人に迷惑をかけていながら、偉そうに言わないの。全く……、今度豊に謝らないと」

 うんざりした感じの沙織の台詞を聞いて、正彦は小声で友之に確認を入れた。


「豊って、誰の事なのか分かるか?」

「父親の会社で役員として勤務している、沙織の兄の名前だ」

「確かに邪魔したら、恨まれそうだよな。難儀な奴」

 正彦から完全に憐れむ目を向けられ、友之が憮然とした表情になる。しかしそんな事とは知るよしもない隣室では、沙織と和洋が早速乾杯してお通しに箸を付けながら、呑気に語り始めた。


「ところで沙織。最近、変わった事は無いか?」

「変わった事? 特に無いけど」

「それなら、職場でセクハラとかパワハラとかモラハラとかで、一人密かに悩んでいるとか! 沙織! お父さんには何も隠さなくて良いんだぞ!? そんなに職場が嫌なら、いつでも俺の所に転職しろ! 俺はいつでも大歓迎だからな!」

 声高に和洋が叫んだ為、沙織はうんざりしながら父親を窘めた。


「あのね……。一滴も飲んでないのに、錯乱して叫ばないでよ。他のお客さんに迷惑でしょうが。店から文句を言われたらどうするのよ」

「だって沙織ちゃん! もうお父さん、心配で心配で! あんなセクハラ暴力男の下で働いているなんて!」

 その叫びをしっかり聞いてしまった友之と正彦は、引き攣った顔を無言で見合わせつつ、襖ににじり寄って二人の会話に聞き耳を立て始めたが、そんな事は夢にも思っていなかった沙織は、語気強く訴えられた内容について、溜め息を吐いて弁解した。


「だから、人聞きが悪過ぎるから。あの時は偶々、意志の疎通に問題があったと言うか、ちょっとした誤解と行き違いがあって」

「誤解と行き違いで、女を押し倒す上司なんて安心できるか!」

「普段職場では、普通に上司と部下の関係でしか無いから、本当に安心して」

「本当かい? 職場で迫られたり」

「くどい!」

「それなら良いが……」

 しつこく追及されて、さすがにイラついた沙織が一喝すると、和洋は不満そうな顔をしながらも引き下がった。それを見た沙織は安堵しながらも、少々後ろめたい気持ちになる。


(付き合ってはいるけど、職場では上司と部下の立場を守っているもの。嘘はついてないわよね)

 そう自分自身を納得させていると、和洋が彼女の顔色を窺いながら、恐る恐る言い出す。


「だけど沙織ちゃん……」

「まだ何かあるの?」

「本当に、いきなり結婚とかしないよね?」

「……しないんじゃない?」

 いきなり脈絡の無い事を問われた沙織は、僅かに動揺しながらも傍目には素っ気なく答えたが、和洋はしつこく食い下がった。


「本当に? もし万が一、あの男と結婚するなんて言ったら、お父さん泣いて怒って闇討ちするからね!?」

「だから、どうして素面で錯乱してるのよ……。本当に勘弁して」

「沙織! お父さん、信じて良いんだよね!?」

「しつこい! あのね、この先誰かと結婚するとしても、課長とは結婚しないわよ!」

 そんな事を沙織がきっぱりと言い切った途端、それがしっかり聞こえてしまった隣室内の空気が凍りつき、和洋が訝しげに問い返した。


「どうしてそこまで、あの課長と結婚しないって断言できるんだ? 逆に怪しいんだが」

「邪推するのもいい加減にしてよ。だって課長とは、直属の上司と部下の関係じゃない」

「はぁ? それは当然じゃないか」

 困惑しきった表情で頷いた和洋に、沙織が辛抱強く説明を続ける。


「確かに、『社内恋愛禁止』とか『同部署勤務者同士の結婚禁止』なんて、社内規定で制限されてはいないわよ? 今時は色々五月蠅いから、すぐ『人権侵害だ!』って騒がれかねないし。それに関しては、れっきとしたCEOの和洋さんだって分かるわよね?」

「それはそうだろうな」

「でも実際には、同部署勤務同士で結婚した、もしくはするのが公になった場合、大抵女性の方が他部署に異動しているのよ。そのままの配置で勤務する事って、これまでの例ではありえないわ」

「うん、まあ……、確かにお互い色々とやりにくいだろうし、そういう事もあるよな」

 実例を挙げて沙織が説明すると、和洋も考え込みながら頷く。


「だから、仮に私と課長が結婚する事になった場合、どう考えても年上で管理職の課長を動かす筈は無いし、私が異動させられる事になるじゃない?」

「なるほど。それはそうだ」

 そこで納得顔で相槌を打った和洋に、沙織は少々腹を立てながら話を締めくくった。


「なるほど、じゃないわよ。本当に冗談じゃないわ。仕事が面白くて、営業二課に骨を埋める気満々なのに。そんなデメリットしかない結婚を、私がわざわざ好き好んですると思うの?」

 そこまで懇切丁寧に説明された和洋は、忽ち上機嫌になって頷いた。


「しないよな。沙織ちゃんは本当に、仕事が大好きだし」

「そういう事。そういうわけだからつまらない話なんかしていないで、どんどん飲んで食べるわよ?」

「うんうん、沙織ちゃんが一生独り身でも困らない位の財産を、ちゃんと残してあげるからね? 寧ろ、お嫁になんかいかなくて良いから!」

「……はいはい、分かったから。老後は左団扇で暮らせそうで、とっても嬉しいわ」

「うん、お父さん頑張って働くからね!」

 気のない口調で応じた沙織だったが、和洋はこの間の懸念が払拭されて嬉しいらしく、満面の笑顔で食べ進めた。


(全く……。あの時の話を何度も蒸し返す上に、しつこいんだから……。確かに友之さんに、良い印象を持っていないのは分かるけど。これで「実は付き合っているけど」なんて打ち明けたら、発狂する事確実ね)

 すこぶる上機嫌な父親を眺めながら、沙織は密かに考えを巡らせた。


(でも、結婚か……。確かに現状では有り得ないんだけど……、友之さんはどう考えているのかしら? あっさり別れる事になるかと思ったら、なんとなくズルズル続いているし)

 沙織が呑気にそんな事を考えている頃、隣の部屋では顔を青ざめさせた正彦に促されて、少し前から無表情になっていた友之が、重い腰を上げていた。

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