(3)女王と悪魔からのお誘い

 三月も半ば過ぎて仕事に忙殺されながらも、沙織は時折薫の事を思い出しては、不安を覚えていた。


(あれ以来、薫が何も言って来ないのが不気味過ぎる……。一体何をやってるのかしら? もう本当に勘弁してよね。年度末でただでさえ、忙しい思いをしているのに)

 ここ暫くの間では珍しく、定時に上がった沙織が、心の中で悪態を吐きながら最寄り駅に向かっていると、斜め前方から声をかけられた。


「関本沙織さんかしら?」

「はい、どちら様ですか?」

 反射的に足を止めて声の主に目を向けると、三十代半ばに見える背の高い美人が、好意的な微笑みを向けながら名刺を差し出してきた。


「初めまして。柏木真澄と言います。あなたの上司の松原友之とは、従姉弟同士の関係になります」

「はぁ……、どうも」

 反射的に受け取った名刺に目を走らせた沙織は、そこに《柏木産業 企画推進部第二課課長 柏木真澄》の表記を認めて、無言で考え込んだ。


(いきなり何? 確かに柏木産業の創業家は、社長の実家の筈だけど。そうなるとこの女性が、本当に真由美さんが言っていた『華やか女王様』なのかしら?)

 顔を上げて目の前の女性を改めて観察していると、彼女は笑顔のまま話を続けた。


「実は友之には内緒で、あなたに少し話があるの。急で申し訳ないけど、こちらに乗って貰えるかしら?」

 そう言いながら、傍らに停車してある黒塗りの車を手で示された沙織は、微塵も迷わずにその要求をはねつけた。


「お断りします。それでは失礼します」

「……え? あの、ちょっと待って!」

「何でしょう?」

 横をすり抜けて駅に向かおうとした沙織を、真澄が慌てて呼び止めた。それに応じて面倒くさそうに振り返った沙織に、彼女が焦ったように言い募る。


「そちらの都合を考えずに、不躾に申し出たのは悪かったわ。だけど、少々事情があるものだから。今日これから予定があるなら、改めて都合の良い日を」

「課長とは従姉弟だと名乗りながら、その課長には内緒と言っている段階で、怪しさ満点です。それに名刺なんてどうにでも作れますし、自己申告を鵜呑みにする程、馬鹿じゃありません。あまり見くびらないで貰えますか?」

「……さすがは友之の彼女。なかなか手強いわね」

 問答無用で切り捨てた沙織を見て、攻めあぐねた真澄が難しい顔になる。それを冷静に観察しながら、沙織はスマホを取り出した。


(見た感じは本物っぽいけど。直接確認すれば早いわよね? 取り敢えず、騙りかそうでないかは分かるし)

 そこで沙織は真澄に視線を向けたまま、まだ職場に残っている筈の友之に電話をかけた。


「課長、残業中にすみません。少々お尋ねしたい事があるのですが」

「何だ?」

「課長の従姉妹さんの柏木真澄さんは、運転手付きのベントレーを足代わりにする、顔は一見完璧にカバーしていますが、首筋と手首の小じわの入り方から推察するに36±2歳の、ヒールを考慮すると身長169から173cmの、威圧感のある美人でしょうか?」

 その問いかけに、電話の向こうと真正面で、驚きの声が上がった。


「は? あ、いや、確かにそうだが……、どうしてそんな事を?」

「え? ちょっとまさか、本当に友之に電話してるの!?」

 しかし一応、本人には内緒でと言われた事に配慮して、友之に対しては嘘八百を並べ立てる。


「会社を出た所で、すれ違いざまにぶつかって転んで、お互いに名乗りまして。本当にそうなのか、ちょっと確認を取ってみただけです。お邪魔しました、失礼します」

「おい、さ、関本! ちょっと待て!」

 あまりにも胡散臭い話に、沙織と叫びかけて踏みとどまったらしい友之の声を無視して通話を終わらせ、ついでに五月蝿くないようにスマホの電源を落とした沙織は、真澄に向かって軽く一礼した。


「どうやら本当に課長の従姉妹さんのようですが、課長は全くこの遭遇について関与していないみたいですし、失礼します」

「ちょっと待って! え? ああ、もう! ……もしもし、友之? ……いいえ、本当に何でも無いの! 偶々歩いていてぶつかっただけで!」

(何なのかしら? まあ、私には関係ないけど)

 どうやら沙織のスマホが繋がらない事に業を煮やした友之が、真澄の方に電話してきたらしく、彼女が狼狽しながらスマホを取り出して応答しているのを横目で見てから、沙織は再び歩き出そうとした。しかし何歩か歩いたところで、背後から聞き覚えのある声が響いてくる。


「まだ用は済んでない。あいつから聞いていた話以上に、掴み所の無い女だな」

 翔に纏わり付かれていた時に遭遇した時は、相手はサングラスをかけていたが、それが無い位で見間違える筈もなく、沙織はうんざりしながら友之の義理の従兄である柏木清人に向き直った。


「……お久しぶりです。いらっしゃったんですか」

「ああ。妻が『女同士の方が警戒心を抱かせないから、まず私が声をかける』と言うので、車の中で待っていたんだがな」

「やはり基本的な所は、お嬢様っぽいですね。誘拐犯の共犯者に、女性がいるわけ無いとでも思っているんでしょうか? そこら辺を一度きちんと、奥様に言い聞かせた方が良いと思います」

 真顔で意見を述べた沙織に、清人は苦笑してから、顔付きを改めて乗って来た車を指し示した。


「忠告は素直に、受け入れるべきだろうな……。それはともかく、友之には内密にお前に話がある。さっさと乗れ」

「嫌です」

「一応、お前の耳に入れておいた方が良い話だと思うが?」

「例えそうでも見ず知らずの人間の車に乗せられて、どこへ連れて行かれるか分からない状況なのに、『はい、分かりました』と頷く人間がいるとは思えません」

「用心深いのは結構だが、時と場合に寄るな」

「あなたがなかなかの危険人物だという事は、既に存じ上げています」

 双方一歩も譲らず数秒が経過し、呆れ顔になった清人が妥協案を口にした。


「それなら勝手に来い。場所は《くらた》だ。貸切にしてある。友之と一緒に顔を出した事があるよな?」

「はい。それでは現地集合と言うことで。そちらは奥様を回収して、優雅に車でどうぞ。お先に失礼します」

 沙織はそれ以上抵抗しても状況がこじれるだけだと察し、了承した後、一礼してその場を去った。


「あいつ、女の趣味が変わったな。その分、相当面白いが」

 そんな事を呟きながら清人が苦笑いしていると、漸く友之との通話を終えた真澄が、夫の元にやって来る。


「もう! どうしてあの場面で、いきなり電話をかけるわけ?」 

「友之に相当不審がられたか? 彼女からも、結構辛辣な意見を貰ったぞ?」

「笑っている場合? 彼女、帰ってしまったじゃない!」

「安心しろ。それなりに道理は弁えている女らしい。《くらた》で現地集合だ」

 淡々と告げた清人に、真澄が訝しげな視線を向ける。


「……本当に来るの?」

「俺達を敵に回して良いかどうか、判別できる程度の頭はある女だと思う。ほら、早く乗れ。ホスト側としては先に着いて、きちんとお出迎えしないとな」

 そして清人は笑いを堪える表情で真澄を促して後部座席に乗り込み、当初の予定通り《くらた》へと向かった。

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