10話 ソウルメイト

 そんな中、おもむろに亜妃さんのピアノに歩み寄り、曲を奏で始めた朋華ちゃん。


 ショパン、シューマン、リスト、モーツァルト、ベートーベンなど、普段あまりクラシック音楽を聞かない男子たちも、一度は聞いたことがある選曲に、作曲家当てクイズの始まり。


 彼らに掛かると、何でも楽しい遊びになってしまう様が、また楽しくて仕方ありませんでしたが、何曲目かにドビッシーの『亜麻色の髪の乙女』が奏でられた時、それまではしゃいでいた空気が一変しました。


 そのメロディーは、朋華ちゃんの奏でる美し過ぎる音色と相まって、切ないほどに優しく心に響き、演奏が終わるまで、誰もが言葉も発せずに聞き入っていたのです。


 しばしの静寂の後、口を開いたのは夏輝くんでした。



「ねえ、他の曲も聞きたいな。弾いてくれる?」


「いいわよ」



 そう言うと、軽く深呼吸し、『夢』『月の光』『アラベスク』を奏で始めた朋華ちゃん。


 彼女の演奏は毎日のように聴いていたし、それらの曲もこれまでに何度も聴いていたのに、なぜか突然、溢れそうになる涙を慌てて抑えた私。周囲を見回すと誰もが同じ様子でした。


 いつもなら淡々と鍵盤に向かう朋華ちゃん本人までが、自分の演奏に陶酔しているかのような表情で、そんな彼女を見たのも初めて。演奏し終えてもまだ、余韻に浸ったまま、皆の盛大な拍手でようやく我に返ったという感じです。



「何かさ、神秘的っていうか、上手く言えないけど、凄い感動した」


「私も。今、この時間と空間にいる私たちのためだけにある、みたいな?」


「僕もすごく癒された」


「ホント、私、涙出そうになったもん」


「朋ちゃん、素敵なピアノをありがとう。また、弾いてくれる? 僕たちのために」



 その言葉に、思わず朋華ちゃんの瞳から涙が零れ落ちました。


 これまで、技術の高さを評価されることが課題で、それに付いては誰にも負けない自信がありましたが、毎日毎日、母親の厳しい指導の下、自分の目的すら見失いかけていました。


 どんなに技術を向上させても、OKを出さない母親。その意味も意図も掴めず、大好きだったはずのピアノが、最近は見るのも嫌になるほどで、いったい何が正解なのかも分からなくなっていたのです。


 いっそ、ピアノなんかやめてしまいたいとまで思い詰めていたところに、こんなふうに言われたのも初めてなら、自分と聞き手との垣根がなく、同じ感情を共有したのも初めてでした。


 ピアノの技術を褒められることにもまして、生まれて初めて、自分が奏でるピアノにより、自分自身が受け入れられた気がしたと同時に、心の一番深い部分で感じたその喜びは、将来ピアニストとして生きるための大切な礎となったのです。



「みんな、ありがとう…! 私、すごくパワーを貰えた気がするわ」


「何言ってんの。あんな素敵なピアノを聞かせてもらって、お礼を言うのはこっちのほうだよ」



 すると、冬翔くんがカメラを持ち出し、



「ねえ、せっかくだから、皆で写真撮ろうよ」


「いいね~!」「撮ろう、撮ろう!」



 そう言うと、ピアノに腰かける朋華ちゃんを囲むように集まり、タイマーをセット。



「はい、いくよ~!」


「急げ、冬翔!」


「うわ~、僕、どこに入ればいい??」


「ふうちゃん、こっち、こっち!」



 カシャッ!!



「しまった! 目を瞑ったかも!」


「何で聖は、いつもそうなんだよ!」


「頼む、もう一枚、撮り直して~」


「仕方ないな~。じゃ、もっかい並んで。いくよ~」



 二枚目の写真では、朋華ちゃんと私が目を瞑ってしまい、三枚目は、戻る途中で足がもつれた冬翔くんが転倒、四枚目は、代わりにタイマーを押した聖くんが脚立を倒しと、もうてんやわんやでしたが、そんな状況までもが楽しくて仕方なく。


 全員のOKが出るまでに、いったい何枚のフィルムを使ったことか。まだデジタルではなかった時代、写真が焼き上がるまで、出来栄えを確認することは出来ず、それを待つのもまた、楽しみの一つでもありました。





 そうこうしているうちに、あっという間に時間は過ぎ、午後五時が近づいて来ました。


 絶対に怪我をさせてはいけない夏輝くん(全身)と朋華ちゃん(指)を除いた4人で、手際よく洗い物などの後片付けを済ませ、さすがにあれだけ大量にあったジュースすべては飲みきれず、未開封で残った分は、また次回に繰り越しです。


 名残惜しくはありましたが、帰り支度を整え、玄関に向かう私たち。



「今日は、ホントに楽しかったな!」


「また近いうちに、必ず『ジュース・デー』やろうね!」


「じゃあ、気を付けてね!」「バイバイ!」「またね~!」



 さっきまで降っていた雨は上がり、庭先に咲いたピンクや水色の紫陽花が、雨に濡れた頭を重そうに垂れ、灰色の雲間から差す鈍い夕日に照らされています。


 そんな梅雨の景色すら、今の自分たちには春のように心地よく、所々に出来た水たまりに、傘の先で水紋を作りながら家路につきました。


 その夜、昼間の高揚した気分も冷めぬまま眠りに就いた私。海のように広がる膝ほどの深さの透明な水の中を、人の背丈よりも大きな金色の魚が、音もなくゆっくりと泳ぐ夢を見たのです。





 ですが、そういつまでも幸せな時間ばかり続かないもので、浮かれた気分に冷水を浴びせられるような出来事が起こったのは、その翌週の始めのことでした。


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