72話 母の報復
冬翔くんが布をめくると、そこには柔らかな色遣いのパステルで、風に髪をなびかせながら微笑む私の胸像画が描かれていました。キャンバスには『Natsuki K.』のサインとともに、『with love』の文字。
その途端、堪えていた悲しみが、涙とともに堰を切ったように溢れ出し、階下にいる大人たちに声が聞こえないよう、ふたりで声を押し殺して泣いたのです。
しばらくして少し落ち着いた後、冬翔くんが言いました。
「この絵は、こうちゃんが持っててよ」
「え? でも…」
「多分、夏輝もそれを望んでると思うからさ」
「いいの?」
私の問い掛けに、彼はこっくりと頷くと、瞳に涙をいっぱい溜めたまま微笑んで見せました。
その笑顔に、夏輝くんの面影が重なります。
「一生、大切にするね」
「頼んだよ」
「ありがとう、ふうちゃん」
「うん」
そうして、遺作となった夏輝くんの絵は、私が譲り受けたのです。
その晩、帰宅した私を待っていたのは、母の心無い言葉の攻撃でした。
先日の一件で、余程
「ま、千鶴子さんにしても、散々私を悪く言ってたんだから、心臓発作で倒れたのだって、きっと罰が当たったのよ。ホント、いい気味だわ~」
いくら母が千鶴子さんを嫌っているにしても、病気で倒れた人に対し、その言い方はないだろうと思いましたが、何か言えば待ってましたとばかり、さらに激高するのが目に見えています。
これ以上は聞くに堪えず、無言でその場を離れようとした時でした。
「罰が当たって病気になるなんて、そんな非科学的なこと、あるわけないじゃん!」
小馬鹿にしたように、母にそう言ったのは、弟の桃太郎でした。
「え? 何、どうしたの、桃太郎?」
「だから~!
「あのね、そういうことじゃなくて…」
「ママも、あんまり変なこと言うと、みんなに馬鹿にされるよ?」
すると突然私のほうに向き直り、桃太郎に対する優しい口調から一転、怒りをあらわに怒鳴りつける母。
「こうめ! あんたが桃太郎に、そんなこと吹き込んだの!?」
「私、何も…」
「嘘! あんたが言わなきゃ、桃太郎が私にこんなこと言うわけないじゃない! ねえ、そうなんでしょ、桃太郎? おねえちゃんにそう言えって言われたから、ママにあんなこと言ったのよね?」
「え? あの、僕は別に…」
溺愛する息子の言葉が余程ショックだったのか、必死で私を陥れようとする様子が滑稽で、反論する気も起きず、居間を後にした私。ですが、その態度が余計に母の神経を逆撫でしたのでしょう。
そして、事件は起こったのです。
冬休みに入ってからも、祖父母はずっと北御門家に泊まり込み、私も毎朝一番に訪れ、冬期講習がある聖くんとバトンタッチ。木の実ちゃんも、時間の許す限り、お料理を作りに来ていました。
その日は、今年最後のごみの回収日で、それに間に合わせようと口が開いたままのごみ袋が並び、どのお宅もひっきりなしに人が出入りしています。
年明け早々に、千鶴子さんをこちらの病院へ転院させる手続きが進められる中、ずっと臥せったままだった保さんも、とうとう昨日から入院していました。
「こうちゃんも、お泊りの準備をしておいて頂戴ね」
「うん、分かった」
というのも、明日から両親と弟妹は、予定通り母の実家へ里帰りするため、まだ中学生の私一人を自宅に残すわけにも行かず。
当初は、祖母が自宅に戻り、北御門家に通う予定でしたが、保さんが入院したことで、私も一緒に泊まることになった次第です。
準備のため自宅に戻り、自分の部屋のドアを開けた瞬間、室内の様子が変わっていることに気付いた私。誰かが物色したのか、勉強机の上には出した覚えのない文房具類が散らばり、どの引き出しも中途半端に開いた状態になっていました。
どうせまたゆりの仕業だろうと思い、引き出しを閉めようとした瞬間、いつになく軽いことに違和感を覚え、慌てて中を確認すると、小学生の頃から書き溜めていた日記が、ごっそり無くなっていたのです。
「嘘、何で…?」
それだけではありません。
ベッドの横に飾ってあった夏輝くんの絵も忽然と消えており、急いでゆりの部屋へ飛び込むと、明日の準備をしていた妹に詰め寄りました。
「ちょっと! 私の日記と絵、どこにやったの!?」
「ゆり、知らないよ?」
「あんた以外に、誰がそんなこと…」
そう言い掛けて、言葉が止まりました。
まさかと思いながら、居間にいた母の所へ行き、恐る恐る尋ねた私。
「ねえ、私の日記と絵、どこにやったか知らない?」
その問いかけに、無表情で答えた母。
「捨てたわよ」
あまりにも冷酷なその言葉に、思わず全身から血の気が引きました。
こうしたことはこれが初めてではなく、以前にも母には、コンクールで受賞した作文や、努力してやっと手に入れたトウシューズなど、度々大切にしていた物を捨てられたことがあったのです。
「何で勝手に捨てたの?」
すると、苛立った様子で舌打ちし、
「あんたがいつまでも、死んだ子のことばっかり考えてるからでしょ!」
「だからって、何も捨てること…」
「何、あの日記? 二言目には『友達』『友達』って、馬鹿じゃないの? あんたみたいな利用価値もないような娘、誰も友達なんて思ってないから!」
「そんなことない…!」
「だいたい、死んだ子が描いた絵なんて、念が籠ってそうじゃない! そんな気持ち悪いもの、家の中に置いとかれるこっちの身にもなって欲しいわよ!」
私だけならまだしも、みんなや、とりわけ夏輝くんに対し、人としてあまりにも酷い言動に、怒りを通り越し、吐き気を覚えました。
まだ独り立ち出来ない年齢の子供にとって、親は絶対的な存在であるからこそ、一番の味方であり、理解者であるべきにも関わらず、これほどまでに打ちのめされた状況において尚、容赦なく痛めつけようとする母。
力では適わず、抵抗も反抗も出来ず、大切なものを守ることすら叶わず、ただただ一方的に、精神的・肉体的暴力を甘受せざるを得ない自分の無力さを、嫌と言うほど痛感した私。
この瞬間、母は私の心に、恐怖と絶望の象徴『インナーペアレント』となって君臨し、僅かに残された小さなプライドまで、ズタズタに引き裂いたのです。
私が最も危惧するのは『虐待のチェーン』と呼ばれる負の連鎖。以前私は、妹ゆりに対し暴力を振るった際、それに快楽を感じたことがありました。つまりそれは、母と同じ凶暴な因子が、確実に私の中にも存在しているということに他なりません。
いつか自分より弱い立場の存在に対し、何の躊躇も罪悪感もなく、虐待を加える可能性も否定出来ないのです。そう、母が私にしているように。
そんな母に対する嫌悪や軽蔑といった感情を、私の心の中に具現化した、この最悪かつ最凶である『
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