102.姉弟の終焉
あまりにあっさり告げられた取り消し宣言に、あたしはもう罵倒する気力も失せてしまった。
アインスが、真っ直ぐこちらを見つめる。
月の光が陰影を作る顔は、随分と大人びて見えた。けれど、ブルーグレーの瞳は変わらない。
そしてそこに、変わらずあたしの姿を映している。
二度と会えないと思っていた、あたしの大切な弟。
弟として以上に、誰よりも大好きだと気付いた存在。
好きで好きで、会いたくて会いたくて、泣いて泣いて願った、アインス。
そのアインスがあたしを見ている。あたしの傍にいる。
そう思ったら、胸が潰れそうなくらいぎゅうっと詰まった。
今までに感じた悲しみとか切なさとか寂しさとか、何もかも塗り潰すくらい、嬉しい。嬉しくて嬉しくて、堪らない。
また涙がこぼれた。
これまで流した中でも一番熱い、初めて経験する火傷しそうな涙。恋心に熱せられた熱湯みたいな涙が、瞳を灼く。
また見えなくなってしまうのが怖くて、あたしはアインスにしがみついた。
「……っアインスぅ! 会いたかった、会いたかったのに……もう、会えないかと思って、すごく、辛かった……。バカアインス! 全部お前のせいだ! お前が会わないなんて言うから…………もう、どこにも行かないでよぅ……アインスぅ、アインス、アインス、アインスぅぅぅ……」
アインス、と呼べるだけで嬉しくて、でもこの腕に感じられるのはもっと嬉しくて、あたしは泣いた。
泣いて泣いて、それしか知らない子供みたいにアインスの名前を呼んだ。
アインスがあたしを抱き締める。あたしもアインスを抱き締める。
固い筋肉の感触と、温かい体温。甘い体臭に、時折耳を打つピアスの音。アインスだ。アインスは、ここにいる。あたしの傍に、あたしの腕の中にいる。アインスがいる。
その存在を確かめるように、もう逃さないように、あたしはアインスを固く強く、しっかりと抱き締めた。
泣いて名前を呼び続けるあたしの頭を撫でながら、アインスは耳元に優しく囁いた。
「もう、どこにも行かない。エイルの傍に、ずっといる。エイルが好き。大好き。世界で一番好き。エイルより好きな人なんていない。何たって、エイルと一緒にマジナで暮らすために、マドケン一級取得しようとしてるんだからな」
「……え? そんなバカみたいな理由で?」
思わず身を引いて、あたしはアインスに『ここまでバカだったとは気の毒に……さぞや生きるのが大変でしょう』という生温かな哀れみを気持ちを込めた目を向けた。
「そんなって何だよ! じゃあエイルは俺のためにマギアに来てくれんのか!? 一回しか家に来てくれなかったじゃん! 永住できる資格も持ってるのに!」
これまでのしおらしさはどこへやら、アインスはガブガブと激しく噛み付いてきた。
こいつ、何言ってんだ?
何で怒ってんのか、意味わからん。
「何であたしがお前の家に行かなきゃなんねーんだよ? 何もねーしクソ寒いし、いいとこ一つもないじゃん! 旅行にしたって、もっとマシなとこ選ぶわ! 遊びに来てほしいなら、街中ぬっくぬくにしてみせろ! 話はそれからだ!!」
「お前って! 本っ当に! バカだよな!? いつか結婚したいっつってるんですけど、意味わかってます!?」
「…………は?」
…………は?
大事なことだから、心の中でも言ってみたよ!
結婚だって! バカにして!
いくらあたしでも、結婚の意味くらい知ってるよ!
いや、うん、結婚の意味はわかるけど…………は!?
「は、じゃねえよ! ねええええ、マジで言ってんの……? 俺、昔から好きだっつってたよな? さっきも言ったよな!? 記憶力ある!? 俺が誰かわかりますかぁぁぁ!?」
「いや、聞いてたし覚えてしお前がアインスだってこともわかるんだけどさ…………ずっと弟の戯言だと思って、お猿のお家芸見る感じで華麗にスルーしてた」
あたしの言い訳を聞いて、アインスはがっくりとうなだれた。
そして俯いたまま、低く漏らす。
「……ありえねえ、本気でありえねえよ。戯言とか、弟とか、猿とか、まだ言う? そりゃキレても仕方ねえだろ……姉貴面すんなって言いたくもなるだろ、いい加減! キスまでしてさ、それでも気付かないって……何? 何でそんなに鈍いんだよ!?」
「あ、キスな。あれ、挨拶だと思ってた」
「俺、他の奴に挨拶だっつってチュッチュチュッチュ、チュッチュのチュとキスしてましたっけねぇ?」
「こそっとしてるのかと……じゃなきゃ、お姉ちゃん限定なのかと」
「…………お前限定じゃ! ボケぇ!!」
アインスはそう叫ぶと、また三角固めを極めてきた!
「ぐえっ! 何すんだよっ!? バカの一つ覚えみたいに!」
「うるせえ! 俺の十五年、踏み躙りやがって! このいたいけな少年の成れの果てに謝れ! 詫びろ! 許しを乞えええええ!!」
十五年!?
こいつ、あのマスコット猿ん時から、あたしをもう姉として見てなかったの!?
てかあんなガキの頃から、想い続けてきたってか!?
すげえ、なんてしつこさだ!
ど根性猿だ! とんでもないバカ猿だ!!
喉を絞められる苦しさも忘れて、あたしは笑ってしまった。
『皆より一番、エイルちゃんが大好き!』
やだな、あれ、本気だったんだ。
確かにいつも、憎まれ口の合間に好きだってよく言ってたけどさ。
あたしはそれに対して、『うるさい』『うざい』『死ねよ』『言ってろ』『はいはい』なんて軽々しくあしらってた。
でも――そんなに嫌じゃなかった。
嫌じゃなかったのは、アインスが嫌いじゃなかったから。
好きだったんだろうな、ずっと。いつから弟として、じゃなくなったのかはわからないけど。
一緒に暮らすのが嫌だったのも、五年も顔を合わせないようにしていたのも、きっとそれに気付きたくなかったから。傍にいたら、もっと好きになってくって心のどこかでわかってたから。
こんな十歳も年の違う頭の悪いバカ猿が、三十路手前のくせに甘ったれた子供みたいなあたしを、相手にするわけないって、ずっと無意識に、気持ちをセーブしようとしてたんだ。
「悪かった、悪かったってば! 謝る謝る謝ります!!」
「何笑ってやがる!? 笑い事じゃねえんだよ!」
「ごめんってば! あたしも…………アインスが好きだったよ」
アインスは絞め上げる腕を、緩めた。そして、くっつかんばかりに顔を寄せる。
「……ちょ、何で過去形!? 今は!? 今はどうなんだよ!? 弟としてなんて抜かしたら、マジで殺すぞ!? オラ、答えろ! 返答次第じゃアインスパンチ、アインスキック、アインスバスターだからな!!」
すげえがっつきようだな。しかも後半、脅しになってるじゃん。
それでも、あたしは笑いながら頷いた。何回も頷いた。
「あたしだって、弟だなんて思ってねーよ! 今はもっと好き。皆より一番、アインスが好き!」
途端に、世界が沈黙に包まれた。
アインスが、無表情かつ無言になったせいだ。
そのまま奴は、そっとあたしから手を離し、ゆっくりとベッドに立ち上がった。
え?
まさかまさかの全部嘘でしたあテヘペロ、引っ掛かってやんのバーカバーカってパターン?
恐ろしい想像を巡らせたところで――――アインスが、いきなり高く飛び上がった!
「ぃやっりぃぃいいい! やった、やったああ! やったよ、やったよ、やりましたあああ! 夢じゃねえよなあ!? いや、もう、夢でもいいいいいい!! え……マジだよな? うわ、どうしよ? どうしよどうしよどうしよ!? 皆にお知らせしなきゃ…………いや、待て! その前に」
ベッドのスプリングを踏み抜く勢いで激しくばいんばいん跳ねまくっていた曲芸猿は、思い出したように唖然としてるあたしの前に座り込んだ。
そして顔を寄せて、そっとキスをする。
思い出しては泣いた、アインスの優しいキス。
挨拶じゃないってわかっても、やっぱり嫌じゃない。まこと、恋とは不思議なものなり。
名残惜しそうにくちびるを離すと、アインスは輝くばかりの笑顔で叫んだ。
「よし、エイル! 服脱げ! 体で愛を確かめ合うぞ!」
…………ちょっと待て。
ど、う、し、て、そ、う、な、る!?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます