101.バカ無限大

「…………何か、用?」


 あたしは恐る恐る尋ねた。


 アインスが黙る。

 重い沈黙が、落ちる。


 その間にも、あたしはブランケット越しに伝わるアインスの体温に泣きそうになって、堪えるのに必死だった。



「……ミクルに、部屋代わってもらった。エイルに、話があるから、って」



 長い無言を経てやっと吐き出された言葉は、あたしが尋ねたこととは全く関係のないものだった。


 あたしと話をするって、何をだよ?

 いきなり最初から噛み合ってないじゃん。


 別れを告げるのも一方的なら、来るのも一方的、話も一方的。何もかも、アインスからの一方通行。


 要するに、あたしには何の権限もないってことか。


 アインスはそれからまた、口を閉ざしてしまった。


 無音が、耳に痛い。

 最後に聞いたあの言葉ばかりが、頭を巡る。なのにこんな状況になっている矛盾に、激しく気持ちが揺さぶられて目眩がする。


 殴るなら、さっさと殴って帰ってほしい。罵るだけ罵ってくれていいから、早く消えてほしい。


 でないと、苦しくて苦しくて――泣いてしまう。せめて、惨めな姿だけは晒したくない。



 耐え切れなくなって、あたしは身を竦めたまま声を発した。



「用があるなら、早く済ませてくれる? 今無理だっていうなら、携帯電話……は失くしたから、家の電話の留守録に……」


「携帯電話なら、持ってきた。財布も。バッグごと」




 一気に、全身から血の気が引いた。



 

 だって、バッグはカミュの部屋に置きっぱなしで――アインスの手にあるってことは、つまり。




「…………シファーさんに、渡された。返しとけって言われて」




 ――――カミュが?


 絶縁したこともあたしの気持ちも知ってる、カミュが?



 わざわざ、このアインスに――?



 それと気付くや、凄まじい怒りが脳を焼くのを感じた。




 あんの、クソ野郎……あたしに逃げられたから、アインスにあの日のことを全部ブチ撒けやがったんだ!


 あたしを無理矢理襲おうとしたことも、泣いてアインスを呼んで、好きだって叫んだことも!




 こいつがわざわざこんなところまで出向いて来たのは、それを笑うため……だとしたら。




 今までに感じた事のない強烈な憤りは、感情を一瞬にして冷却した。




 あたし、こんなクズ野郎が好きだったってか?

 こんなカス野郎のために、あんなに泣いたって?


 ありえない…………本当に、冗談じゃない!



「そんなこと言うために来たのかよ、呆れた野郎だな。シファーさんには、残念でしたねって伝えておいて。あたしみたいなジャンクに涎垂らしてたくらいだから、お腹ペコペコだったみたいよ? なのに皿にまで乗っけて、食えなかったんだもん。さすがに可哀想だったなあ」



 あたしは小さく身体を揺らして、笑った。嘲笑ってやった。カミュも、アインスも、自分も。



「くっだらねえ、バッカじゃねえの。あんな奴の話、真に受けてたんだ? あたしより頭悪いな、お前」



 笑った。もう笑うしかなかった。


 一生分泣いたんじゃないかってくらいの涙は、枯れた。枯れてなくても、こんなバカのために流すなんてもったいなさすぎる。



「そんで? お前の用って結局何だったの? あたしをバカだって笑いに来たの? じゃあ笑えば? 笑うだけ笑えばいいよ。お前のバカっぷりに、あたしも笑わせていただいたし」



 あたしは最後の最期に、弟でも好きな人でもなくなったクソ野郎の面を拝んでやろうと、枕元に置いていた眼鏡を装備してから、振り向いた。



 振り向いて、愕然として、また固まった。






 至近距離で待ち受けていたのは――――今にも涙を溢れさせんばかりに灰青の瞳を悲しみに揺らがせた――――あたしが最後に幻の中で見た、アインスだった。






 形良いくちびるを震わせて、かつてあたしの弟だった少年は、苦しみに喘ぐように言葉を零した。






「…………ごめん、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」






 半分体を向けた半端な姿勢で呆然としていると、アインスはその悲しみに満ちた顔を隠すように俯き、ついに泣き出した。



「…………何を、謝ってんの?」



 見慣れたプラチナベージュの踊る毛先が、嗚咽で震える。それを眺めながら、あたしは小さく尋ねた。



「頭に、血が昇って……エイルに、ひどいことした。エイルに、言われてたのに……間違ってたのに。あんな、姿……見られたくなかった。見せたくなかった。間違って、ばっかりで……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………」



『あたしは間違ってると思うから殴ってんだよ! 正しいと思って、てめえを殺そうとしてんだよ!』



 謝罪内容はまるで要領を得ないけど、ニールが死んだ時にあたしが吐き捨てた言葉を、こいつがまだ覚えていたってことだけは何となく理解できた。



「……いいよ、無理に謝らなくて。もう、家族でも何でもない、他人以下なんだし」



 アインスが、激しく頭を横に振る。


 色素の薄い髪は、月明かりに仄白く透けて――ニールみたいに見えた。でもこれは、ニールじゃない。あたしが愛し育てた、可愛いニールじゃない。


 そう言い聞かせて自制するあたしに、元弟は涙に濡れた顔を向けた。




「嫌だ、絶対嫌だ。死んでもやだ。何でもする。何でもするから、もう……さよならなんて、言わないでよ。エイル、お願い、何でもするから」


「…………何だよ、それ……」




 アインスの哀願に、いろんな感情が一気に混じり合って吹き上がって溢れて――――ついに爆発した!




「ふざけてんのか、てめえ!? そっちが先に言ったんじゃん! 姉貴面するなとか、つけあがんなとか…………おまけに、二度と会わない、って答えたじゃん!」



 こんなバカのためになんか泣いてやるもんかと誓ったのに、封印はあっさり解かれた。


 怒鳴りながら、涙があふれた。火山から流れる溶岩みたいに熱い涙は、悔しさのためだ。

 悲しいとかムカつくとかそんなもん振り切れて、頭の中は悔しい一色に染まった。


 とにかくもう、悔しくて! 悔しくて! 悔しくて!!




「バカにも程があんだろ! このバカの毛に覆われたバカ猿王国のバカ猿王子! 人間以下! 類人猿以下! 鳥類以下! 消えろ、ハウス!!」


「やだ! ここが俺のホームだ! 消えない!」


「ああ、そうかよ! じゃあ一生この腐れホテルに住まえ! オバケさん達と達者でな!」


「何でそうなるんだよ!? このオンボロ宿じゃなくて、エイルの傍! エイルの傍が、俺のホームだっつってんの! そのくらい普通に理解しろよ! やっぱ頭も筋肉かよ、脳筋バカ!」


「細胞レベルからバカで構成されてるバカバカしいくらいのバカくせに、偉そうに抜かすな! てか、勝手にホーム認定すんじゃねえ!」


「やだっつうの、わかんねえ女だな! これだから三十路甘えっこの寂しん坊は扱いにくいんだよ!」


「誰もお前に扱えなんて言ってねえだろ! 二度と会わない話はどこ行ったんだよ、ええ!?」




「あ、それね! ええと…………うん、取り消しでお願いします」




 一気に、全身から力が抜けた…………。




 ありえない、ありえない、ありえない!


 何それ!?

 あたし、あんなに悩んで泣いて……あの時のあたしは何だったの!?


 てか、何こいつ!?

 どこまでバカなわけ?

 無限? 無限にバカなの!?

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