Ⅲ-22 朝日と起きて、夕暮れに帰ろう

 眩しい。


 鳥の声。温かい。


 呼吸。木の香り。


 指が動く。


 誰かいる。すぐ側に。


「っ……」


 声を出さなきゃ。声を出して伝えるの。


「っ……?」


 出てくれない。違う。忘れた。体は動くのに、喉をどう震わせたら言葉を出せるのか。


 マルール。


 あなたの名前を呼ばせて。


「……?」


 視線を向けた。亜麻色の髪の毛を一本にまとめ、絞ったタオルを手に立ち尽くす女の人。


「エル姉……目、覚めたの?」


 必死に頷いて僅かに首が動く。途端にクランは目に涙を溜め何も言わず抱き着いてきた。それがあんまり強いものだから、少し腕が痛い。


 なおも声を出してみる。しかし、掠れたような息が漏れるだけ。クランがその様子に気付いて水差しとコップを持って来てくれた。彼女の手を借りて首を傾け、少しずつ飲ませてもらう。喉が湿り気を帯びると、微かに声が出せるようになった。


「あなた……クラン……」


「うん。クラン。目が覚めていきなり知らない人がいたらびっくりするよね」


 エル姉、と呼ばれるまで確かにわからなかった。それでもよく見ると面影がある。


「私、どれくらい」


 酷く跋の悪そうな顔をして押し黙る。彼女の姿を見るに三年や五年で済むような年月ではない。


「マルールは、今どこ」


「お仕事中。プリシラさんの家……て、わかんないか。急用だからってあたしに任せて慌てて出て行ったの」


 そこまで聞いて私は全身に力を込めベッドから出て床に足を着けた。歩けない訳ではなさそう。マルールに会わなければ。会って、私の気持ちを伝えないと。


「駄目よエル姉! 起きかけの体じゃ体力も」


「クラン行かせて。行かなきゃ」


「落ち着いて。色んな事が変わったの。町も人も。ここはどこかわかる?」


 私はクランに支えられながら周りを見た。住んでいた地下ではない。日の光が窓から射し込む、ここは地上だった。


「私と、マルールの、家」


「うん、そう。ここにいれば夕方頃には一旦帰って来る。だから」


「お願いクラン。案内して。今すぐマルールに会いたいの」


「そんな事言われても」


 そこまで言ってクランは目を瞑った。しばし考えるように唸ると、意を決したように目を開けた。


「わかった! じゃあ連れていくからちょっと待ってて」


 それを言うとクランは部屋を出て行った。帰って来ると真新しい見た目の木製の車椅子を引いていた。クランの手を借りてベッドから移ると、私たちは家を出る。日射しから目を逸らし、少し首を捻って家を見ると、玄関扉にパンダの顔を象った木工プレートが掲げられていた。


 クランに車椅子を押されて目的地を目指す間、初めに気付いたのは体だった。マルールの言っていた通り、目に見える部分の模様は消えて肌色に戻っている。店先のガラス窓に顔を向けると、目の周りにあって一際目立っていた黒も綺麗に無くなっていた。飾り気の一切無い本来の私の顔。本当に自分なのかと思うほどの変化には妙に不安な気持ちになった。ずっと消えて欲しいと願っていたはずのものがいざ消えてしまうと寂しくなるのは、今だ自分に燻る身勝手さの表れかもしれない。


 もうひとつ気付いた事があった。町の人の様子だった。あの頃とは別種の視線を感じる。蔑みや侮蔑の目ではなく、優しげに微笑みを湛えた目。その変わりようもまた慣れないからか不安な気持ちになった。


「着いた。ここだよ」


 そうこうしてクランが車椅子を押す手を止めた。目の前には煉瓦造りの一軒家。玄関近くには男の人がそわそわした様子で家を見上げたりうろついたりしていた。


「イリヤさん、焦ったってどうにもならないよ」


「うわビビった! なんだクランさんか。その人は?」


「あ、この人がエル姉。今日目が覚めたの」


「マジか……良かったじゃん! すっげえ、今日で俺死ぬのかな……」


「それは言い過ぎ。あ、この人はエル姉が眠ってから知り合った人なの。婚約者がいて、今日は──エル姉?」


 マルールに会いたい。この中にいる。車椅子から立ち上がり、両脚が自然と地面を踏み締めた。振り返るとクランは意を決したような表情で一度大きく頷いてくれる。ゆっくり倒れないように歩き、扉の前に立って数度ノックした。


 その時、中から激しい子どもの喚き声。


 私は弾かれたように扉を開けた。もっと奥から、その声は聴こえる。部屋を跨いで、最後の扉を開いた先に──


「よーしよしよしよし! 大変だったねえ、頑張ったねえ! いないいなーい──ばあー! ほーらこっちがママだよー、わたしじゃないよー? わーい、ママだいちゅきー! なんちゃって!」


 ──泣き叫ぶ赤ん坊を抱いてあやしている。


「あ、ちょっと待って! ごめん今立て込ん──で……て……」


 マルールの姿。


「……エルネスティ……?」


 顔には黒い、蔦の模様。


「……おはよ。エルネスティー」


 私も返した。「ええ、マルール」と。


「うん──今日もいい天気でしょ」


 その笑顔は、とても眩しかった。



━━━━━━━━



 マルールの仕事が終わったのは日が落ちてすぐの頃だった。私たちは人の少ないガス灯照らす帰り道を二人で歩んでいる。懐かしむように少しずつ、マルールが車椅子を押す、その手を借りて。伝えたい事、話したい事は山ほどあった。それでも私たちの間に会話は無かった。


 どこかぎこちない感じ。マルールの仕事が終わるまで別室で待っている間、クランから色々な事を聞いていた。私が今日目覚めるまで二十年の歳月が経過していた事、町も店も人の顔ぶれも、二十年前とはだいぶ変わっている事。


 ミゼットおばさんは七年前に肺癌で亡くなっていた。原因はやはり煙草の吸い過ぎ。最期には贔屓にしていたお客が大勢集まり、気難しい性格ながらも愛されていた彼女の一面が窺えたという。ドックスおじさんもその後ほど無くして八百屋を畳み、今は同い年の女性と余生を過ごし、イゾーはウスティーク孤島という場所に移住し妻子と共に過ごしている。病気の完治後ジャックとエリーヌは結婚して子どもを三人もうけ、クランとソフィも下手物店での知識を活かし、数年前に二人で病院を開業した。人間の患者を診るだけでなく、馬車でやって来る貿易商の馬の健康診断をしたり、森で怪我をした動物や町の人のペットを治療したりと、多忙な日々を送っているらしい。


 そして、マルールは────助産師としてやっていた。


 あのマルールが、とクランから聞いた話はにわかに信じ難かったが、扉を開けてすぐの光景はそれと信じざるを得ない。文字を書く事もままならなかった彼女はギヨームさんを家庭教師としながら周囲の人々の助けを借りて習得し、町の医師たちに頼み込んで勉強を始めたのだと言う。なるほど、とそれで合点がいった。彼女の決意とはこれの事だったのか、と。


「ねえ、マルール」


「あ、うん。何?」


「どうして助産師になろうと決意したの」


「それは」


 ややあって口を開き──人を殺して生きていた日々はどうにもならないし、忘れようとしても胸の痛みで思い出してしまう、だからという訳では無いけど、見捨てて来てしまった命は忘れずに、見守る命を増やしていきたい──ぽつぽつと語られたのはそんな素朴な言葉だった。


 彼女らしい、と思う。


「マルール」


「ん?」


「私、もっと早くあなたに出会いたかった。あなたと出会って、もっと早く、楽しい事や辛い事を分かち合えていたら、私……」


「エルネスティー」


 遮るように名前を呼ばれ、目の前にゆっくりと回り込まれた。私の視線より低く屈んで心配そうな表情で顔を見上げてくる。顔の右半分に鋭い蔦の這ったような黒い模様が浮かんでいた。私の模様とは全然違う。


「私、目が覚めてからずっと不思議な気分がするの」


「うん」


「たった一度瞬きしただけなのに、私の目には変わった事も、変わっていない事も、はっきりと両方見える」


 そう言うと彼女は微笑んだ。この笑顔だ。二十年前と同じ、困った人を安心させるために力の抜けた笑顔を見せる。


「そう。君がほんの一回、瞬きしてた間にね──大切な事は変わらないように、悪かった事は良くなるように、町の皆で頑張ったんだ。エルネスティーの事悪く言う人、もうほとんどいないよ。それに、この辺りに戦線が近付くのもまたしばらく心配しなくて良さそう」


 そう言って僅かに顔を逸らした。


「戦争は」


 問うと、今度は苦々しい表情。


「何度か町に戦線が近づいて飛び火した。怖い人も危ない人も、怪我をした人も沢山来た。つらい思いをしてまで、どうして戦うのって聞いたけど」


 それが自分の生き方なんだって。


 他の生き方がわかんないって。


 皆揃って同じ事言うんだ。


「マルールは」


「ん?」


 きょとんとした顔。それを見届けて私は意を決して訊ねた。


「マルールも、変わってない?」


 この二十年、私はあなたとの距離が離れたとは思っていない。けれどあなたはどうなのか、逸る気持ちを抑えられなかった。


 マルールは泣きそうに顔を歪ませてから体にゆっくりと腕を回し、少し痛いくらいに抱き締めると耳元で言った。


「二十年間、眠っている君に話し掛けてきた。何の反応も無かった君に。もうやめなよって言われた事もある。たぶん、傍から見るとちょっとだけ気味悪かったんだろうね。でも諦め切れなかった。生きている限り声を掛け続ければ、何かの拍子に起きて返事してくれるって信じてた。だから今はただ、何だか本当に、お伽噺みたいに、ふわふわした気持ちでいっぱい」


 その声も、手も体も微かに震えていた。確かにこの瞬間はお伽噺のようにふわふわしているけど、でも、何があっても決して壊されない。


「マルール」


「なぁに?」


「大切だから永遠であって欲しい事もある。だから、これはそのしるしにしましょう」


 そして私は腕を解いて向かい合ったマルールに「おはよう」と言って口付けた。


 呆気に取られた表情で私を見るも、その顔は真っ赤になってどんどん調子に乗ってくる。


「あ、あのさ、エルネスティー」


「ええ」


「わたしからキスするの、目標だって言ってた事も忘れてないよね?」


「……ええ」


「じゃあ今ここで二十年分のキスしていい?」


「唇が腫れ上がるわ」


「じゃあ二十年分のハグしていい?」


「夜が明けてしまうわ」


「じゃあ……」


「?」


「……家に帰ったら二十年分、キスもハグもしていい?」


「……」


「えへへ……今日の夜は、寝かさないぞ?」


 圧を感じる笑顔を向けられて一瞬たじろいだ。こういう人を揶揄う性格は本当に変わっていない。


 それから二人、家路を再び歩み出した。


 そしてマルールの冗談じみた言葉が本気だったのに気が付いたのは、おやすみ、と告げてからすぐの事だった。

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