Ⅲ-15 人間の深い業
「僕はコーヒー。君は」
「ミルクティーで」
「じゃあ、それで頼む」
喫茶店の角の席に座り、ウェイターへと注文したのち切り出したのはエリクだった。
「さて、どこから話そうか。質問形式にしよう」
「どうして私の前から消えたのか」
「そうだな、まずはそこからだろう。だけどその前にひとつ確認しておきたい事がある」
エリクはふっと溜め息を吐いた。
「君は今でも僕と共にあると思っているか」
喉の詰まる感覚がした。「どうしてそんな事を」
「僕も君も多くの事が変わった」
そう言われて言葉が喉の奥へ引っ込んでしまう。けれど、彼の口から直接知らされなければならない事情は、彼の感情以上に山ほどある。
「エリクは死んだ。そう思ってこれまで生きてきた。その気持ちは変わらない」
「そうか」
エリクは景気づけなのか外套を脱ぎ、背嚢をテーブルの傍らに立てかけた。
「……僕が君の前から消えたのは記憶を思い出したからだ。僕は僕が何者なのかを思い出した。そうして自分がCold Boarだという事を知った。君と過ごしてきたままの僕で」
Cold Boar。その名は彼が遺してくれたハンカチの刺繍からも、ドリィの話からも窺えた。彼は世界で最も高度な殺人能力を有した遊撃隊のひとりなのだと。
「あなたもまた、私を殺すために依頼されて来た」
「ああ、目的は君の身体の中にある何かだと聞かされていた。でも依頼者は多くを語らなかったし、僕が多くを知る必要も無かった。僕がするべきは依頼された内容を成し遂げるだけだったんだ」
私は返事をしなかった。彼はもともと非情な人で、エリクは彼の本当の姿ではなかった。
「だからこそ過去の記憶と自身の思いとに気付いた時、酷く苛まれた。あんな感情は初めてだったよ。これまで感じた事はあれが最初で最後だ」
「それは」
「殺すべきか、愛するべきか、共に生きるか、死に別つか」
一瞬、彼の顔が険しい色を帯びた。
「僕はそのどれもできなかった。だからCold Boarと呼ばれていた僕はもうこの世にはいない事にした。それが君の前から消えた真相だ」
「エリク、あなたは」
「何だい」
「あなたはそれでも、私の事が」
その問いかけをした直後、ウェイターがやって来て注文の品をそれぞれの前に置いてくれた。私たちの雰囲気を感じ取ってくれたのか一礼だけでそそくさと引っ込んでしまう。エリクはコーヒーを一瞥すると間を置くように一口飲み、言った。
「そうだな、それは当然だ。昔のそれとはだいぶ違うが」
カップを置くほんの一瞬、視線がちらと注がれた。
とても複雑な気持ちがする。どんなに賢くても簡単には答えなんて出せない、難しい問題。けれど、今の私の胸には彼女の気持ちが収まっている。
「この長い年月、ひとつやふたつ諦めてもあなたは怒らない」
その心意を汲み取ってくれたのか、エリクは小さく笑むと観念したかのように頷いた。
「そうか。じゃあ次は何を聞きたい。教えてくれ」
「Cold Boarの名前を聞かなくなった」
「なるほど……いいだろう」
この話は少し長くなるけど、という前置きからエリクの話は始まった。
彼が私の前から消え、彼はそれでもかつての仲間に別れを告げようと、いつも
しかし、廃れた町や滅んだ村を補給地としていたその歩みの途中、彼は燻りのまだ残る比較的新しい瓦礫の中で、赤ん坊のような鳴き声を聞いた。声を頼りに瓦礫を取り除いてみると、やはりそこには赤ん坊の姿。機械仕掛けのへその緒がついたままで、生まれたばかりの子だとわかった。見渡しても母親、あるいは母親だったものの姿すらなく、そのまま捨て置く事ももはやできなかった彼は、その赤ん坊を抱いた。そして再び仲間の元へと急いだ。
彼は一週間かけてようやく野営地に着いた。休息を取っていた一人の仲間が彼の姿を見るなり、亡霊でも見たかのような恐ろしい表情を浮かべたという。しかし次の瞬間にはその腕に抱える赤ん坊の姿を見て、驚きの表情に変わった。
「この子は」
「拾った」
「なぜ」
「見捨てられなかった」
「何があったの」
彼はぽつぽつと一年間の事を話した。崖から落ちて記憶を失い、助けてもらった女に世話になった、殺しの無い穏やかな生活が心底楽しかった、そんな生き方をして不意に記憶を思い出し、過去の自分と現在の自分との差に苛まれてしまった。
そして、一度愛してしまった女を殺す事ができず、殺さなければ生きていけない生活にももう戻る気力が無くなった、そのために、ここへ来たのはみんなに別れを告げるためだった。
「Cold Boarの名前を捨てるっていうの」
「エリク。それが俺の新しい名前なんだ」
「あなたはリーダーよ。あなたがリーダーなの。そのリーダーが辞めるって事は、Cold Boarは解散するって意味なの?」
「解散するとは言ってない。俺が抜けたらお前たちはまた新しいリーダーを決めて今まで通り生きればいいんだ」
「どうしてそう身勝手なの。Cold Boarはあなたが集めたんじゃない」
Cold Boarは訳ありの孤児たちが寄り添い、集まって出来た。それもエリクを筆頭として。
「あなたが消えてCold Boarは一度離散しかけた。イェクは仲間を置いてひとりで抜けがけしたんだって。でも、トワイズがまとめてくれた」
「トワイズが……」
トワイズはエリクの兄弟分で、エリクの右腕だった。エリクの補佐役として、仕事でエリクがいない間を取り繕ってくれた人物だった。仲間内でも信用できたし、エリクもまた彼との絆は断てるものではないと思っていた。
「あなたがCold Boarを辞めるなんて言ったら、彼どうなるかわからない」
「でも、これは」
私と出会ってから、人の生き方は定められたものではないと知った。自分を悲劇に陥れた運命でさえ、まったく異なる生き方をさせてくれるのだと悟った。それが自分にとって良いか悪いかは別として、運命は思っていたより気まぐれである事は納得した。そして、彼は自分の人生を生きたいと思った。もしかするとまた悲劇的な運命になってしまわないとも限らないけれど、もし選択できる余地があるのなら、選ばせて欲しいと願った。そしてその選択を仲間たちにも理解して欲しいと迫った。
けれどもそれは孤児としてつねに共にあったトワイズによって、儚い願望であったのだと知った。
「Cold Boarを辞める? どういう意味だ」
「言葉の通りだ。俺はCold Boarを辞める」
「イェク、自分が何言ってるかわかってんのか」
彼は静かに放った。自由になるための言葉を。
「僕は、エリクなんだ」
赤ん坊を腕に抱えたまま告げると、トワイズは今まで見た事も無いような怒りの表情をあらわにした。あるいはそれはCold Boarとして抱いていた世界への恨みが、一心に表れたかのような恐ろしい表情だった。
「イェク。てめえ前から腑抜けた事ばかり言いやがる軟弱野郎と思っていたが、ここまでだったとはな。驚きだぜ」
「トワイズ。今まで僕は、てっきりお前の事を俺の右腕かと思っていたけど、そうではなかったんだな。悲しいよ」
怒りと悲しみの視線が交わり合い、その狭間に生まれて間もない赤ん坊がいた。その子が突然泣き始めて、エリクとトワイズは互いにその子に視線を逸らした。それが決別の証だった。
それから準備のため三日ほどは野営地で過ごしたという。しかし、イェクはそんな短い期間でも日に日に増す精神的な軋轢に苛まれていった。ふと見てみればトワイズが怒りの眼差しを向けていた。抗いようのなかった全ての運命を憎んでいたかつての自分を、まるで関係無い場所から眺めているような心持ちになっていった事に、耐えられなくなっていった。
だから、イェクが野営地に帰還してからちょうど四日が経った朝、仲間全員を前にしてイェクはこう話した。
「僕はCold Boarを辞める。でも、その子はここに置いていく。Cold Boarも最初は人殺しなんてやってなかった。ただ身寄りの無い奴らを寄せ集めて生きる方法を一緒に探していただけだったろ。子どもでも、生き残るのに一番効率のいい方法が人殺しだったから、それが最適解になっていっただけだ。それは僕にとってもう違う」
そこで彼は溜息を吐いた。
「その子にはそれがやっぱりこの時代で生き残るに最も適した手段だと教えてやってほしい。でもその手段を手放せる可能性も同時に教えてやってほしい。他の生き方があるかもしれないと──運命の神は思っていたよりずっと気まぐれなんだ」
エリクは確かにそう言った。しかし、仲間の目から注がれる感情は自身が感じているそれよりも猜疑的で、とても伝わったとは言い難いものだったという。その中でトワイズだけは変わらず怒りの目でイェクを見ていた。
誰よりも長く共にいて、誰よりも長く生を分かち合ったと、エリクはその時に実感した。
しかし二人の別れは既に訪れていて、それもまた覆しようのない運命だった。
「さよならだ」
別れの言葉を告げるエリクに誰も応えなかった。そのままエリクは踵を返し、二度と振り返らず野営地を後にした。
「それから僕は世界中をさまよい歩いた。その過程でこの戦争の発端や君の事を詳しく知る機会に巡り会えた。僕が狙っていた、君の身体の中にあるものの正体も」
私は俯いた。世界中を
「君の事はもしかすると君以上によく知っているかもしれない。愛する事はできないが好きでいる事はできる。それに君が苦しむ必要なんて無いんだと、僕はそう願うようになった」
「どういう意味?」
「君を苦しめるものを殺す方法」
ここまで聞いて今まで知ろうとしなかった事のほとんどに理解ができた。善意でも悪意でもなく、ただそれこそが彼の言う運命だというのならそれも納得できてしまう。
かつて私は人間性を失わせた存在を造ろうとしていた。それは次世代の労働力として、夢ある惑星開拓の最初の一歩なのだと謳っていた。実際その研究は不老不死の手法を確立するための研究のかたわら、片手間で行なっていた暇つぶしのようなものだった。不老不死のメカニズムさえ解明・実現すれば、強化された人間を造る事は造作も無い。だからこそ不老不死の事実上の手網を私が握った以上、Legion Graineに頼らない強化された人造兵器の研究成果だけでも、充分過剰に戦争遂行のための大義になりうる。
「ひとつ、訊いていいかしら」
「なんだ」
「あなたが見つけた赤ん坊、今どうしているの」
エリクは目を細めた。そして次に悲しい目をしてみせた。
「何も知らない。僕が抜けた後のCold Boarはトワイズが仕切っていただろうから、生きているなら彼が知っている。でも、僕はトワイズの生死すら知らない」
「そう……」
話を聞いていてぬるくなってしまったミルクティーに口を付けた。
エリクが見つけたという赤ん坊はきっとマルールなのだろう。機械仕掛けのへその緒が示すのは、その赤ん坊が機械的に育てられたものであり、その点で自然に生まれてきた子とは異なる性質を有している事を示唆している。考えられるのは戦闘に特化した肉体を持つ人造兵器だという事。
とりわけマルールについては崖から落ちて大怪我を負ったのにすぐに快方へと向かった驚異的な回復力、ラスカシェロスで知った尋常ではない体力が、それを最も合理的に説明できる根拠だった。彼女は戦争に加担していたひとりなのではなく、まさしく戦争の当事者のひとりだった。Cold Boar離散後にトワイズという人間がマルールと共に過ごしていたのなら、マルールがその人の事をパパと呼んでいる可能性も十分に考えられる。
「もうひとつだけ、聞いていい」
「ああ」
「どうして今さらアンルーヴに戻ってきたのか」
「その聞き方は少し違う」
未練がましい事を訊ねてしまって一瞬ながら後悔してしまった。彼はコーヒーをぐっと飲み干すと、きっぱりと私に告げた。
「アンルーヴに来たのは君に会いに来たからじゃない。僕はあれから──何度も町に訪れている。僕はこの人生をやめたくは無い。アンルーヴに立ち寄るのは別の目的のためだ。わかるだろう」
なぜなら彼は、私に会うための道で私と再会した訳ではないから。
そう思い至って私はようやく彼の言いたい事が理解できた気がした。彼の言った通り彼は私が好きで、それは間違い無いはずだ。
けれど、愛していると本当に言えるのは、運命の女神だったのだ。
「ごめんなさい」
「俺のほうこそ」
エリクを忘れられなかった事が、やはり確かな事実のひとつだったのだろう。しかし今となっては足跡のようなそれが音も立てず消え去って、後に残ったのは、そこに何かがあったとわかる大きく穿たれた虚無感だけだった。
ずっとずっと消え去って欲しいと願っていたのに。
本当に消えてしまうと、悲しくなってしまうのは。
それも、本物の気持ちだったからに違いない──。
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