Ⅲ-13 いつか巡って還る言葉
バジーリオさんの家から馬を走らせ、アンルーヴに着いたのは一日と半分経った夕暮れ時だった。馬を返そうとベルトラン町長の邸宅へ向かったものの、今日はもう遅いからとそのまま乗って帰るよう促され、家路に着いた。
「エリーヌ、ジャック。どうしたの」
「あ、おかえりなさい。マルールが……」
家の扉の前で明かりも持たず、心配そうに立っていた二人。聞くと、熱に浮かされていたマルールが二人とも帰るように強く言い出したのだという。そういう訳にはいかないと引き下がらずにいたら、突然ベッドから立ち上がって書庫へ向かい、眠っていたシュトートをつまみ出して籠城してしまった。
「誰にも会いたくないと言ってた。中へ入ろうとすると大声で入って来るなって。あんなマルール初めてだよ、どうしたんだ」
「まだ熱は下がってないし安静にしなきゃいけないけど、どうする事もできなくて」
「それで私を待っていたのね」
日が落ちてきた兼ね合いから、看病してくれた礼を言いつつ彼らも家へ帰るよう促した。後ろ髪引かれるような様子の二人を見送り、馬を近くの空き家に入れる。
「長旅お疲れさま。少し待っていて」毛並みを撫でて落ち着かせると心地良さそうに嘶いた。後で飲み水を持って行ってやらなければ。
家へ入り広い空間を抜け、私たちの居住区へと向かう。キッチンに貰った薬草の籠を置き、食べ物と毛布を準備してから書庫へとまっすぐ足を進ませた。
書庫の前には忙しなく歩き回るシュトート。私の姿を見るなり駆け寄って来て、屈んで手を差し出すと甘えたい風に体を擦り付けてきた。それから不意に書庫の扉を見て悲しそうな声を上げた。
「大丈夫。私が説得してみる」
キッチンに行くよう伝えると彼は手を離れて駆け出し、一度振り返って廊下の角に姿を消した。
立ち上がり、扉を開けてもそこは真っ暗だった。制止の声も無い。そして、奥の暗がりの中にうずくまった影。廊下の蝋燭から借りた火でランプを灯し、私は彼女の元へ歩み寄った。
「マルール、ただいま……」
様子がおかしい。
乱れたままの寝間着を正そうともせず、本棚を背にして俯き、小さくうずくまる彼女からは、おおよそ生気というものが感じられなかった。その姿はいつか路地裏で見た彼女の姿そのもので、私は屈み込んで肩に手を置いた。
「ジャックとエリーヌから話は聞いたわ。こんな所にいないで、ベッドで休まないと」
僅かに顔を上げた彼女の顔は、いつもの快活なそれではなくなっていた。空虚──そんな感情だけが残ってしまった抜け殻そのものだった。
その彼女が、赤らんだ眼と乾いた唇で囁くように呟いた。
「ね、エルネスティ……」
「……」
「からだ……どこもケガしてないよ……」
「マルール?」
「からだ、どこも、ケガしてないのに……」
そこまで言って彼女は虚ろな表情のまま、大粒の涙をこぼし始めた。
「どうして……からだのど真ん中、こんな……痛いのかな……」
掠れた声を出した。弱々しく枯れ果てた声を。胸の真ん中に手を当てて、震えるほど強く、着崩れたシャツを握り締めて。
今まで見た事も無いほど痛々しい姿を見せるマルールに、つい早口で問うてしまった。
「一体何があったの。教えて」
尋ねると、彼女は唇を震わせるも、すぐに噤んで首を振った。
「言えない」
「どうして」
「だって言ったら、エルネスティー、嫌いになっちゃう」
「そんな事無い。絶対に。だから言って」
そう言った瞬間、彼女はすっかり腫れ上がった瞼をきつく下ろした。
「っ……言えないったら、言えないんだってば!」
突然そう叫んで私を突き飛ばした。身構えていなかった体が後ろによろけて尻餅をつく。
「マルール……?」
「ごめん、ちがうごめん。そんなつもりじゃない。ごめん。エルネスティーじゃない。ちがう……」
気持ちの整理がつかないのか、声を震わせて取り乱す、彼女。
「お願いだから落ち着いて。落ち着かないと、きっと何も解決しない」
「解決……?」
その言葉を口にした途端、彼女の目が不安に駆られたように色を変えた。
「解決なんてっ……解決なんてできっこない……だってそしたら……今までみたいに……っ」
そう言って彼女は視線を、傍らに落ちていた本棚を固定する錆びついた金属片に素早く向け、それをぞんざいに掴み取った。ぐっと逆手に持ち替えて自らの喉元に押し当てた。
それはかつて私が抱き、駆られていた感情そのものだ。百年以上前に食んだこの禁断の果実を、今、彼女が口にしようとしている。
「やめなさい!」
尻餅をついた状態から起き上がって止めようとするも、彼女の力は強かった。私を弾き飛ばし、シャツを握り締めたのと同じ彼女の手に握られた金属片が、その喉を一気に引き裂いた──はずだった。
確かに首は引き裂かれた。しかし、ほんの僅か一瞬だった。引き裂いた瞬間にその傷は癒えてしまい、後に残るのは滲み出る程度の血の跡だけだった。
「レギオン、グレーヌ」
痛みすら一瞬のものでしかなかったのか、呆然と呟いたのは彼女だった。絶望に満ちた目と表情をして錆びた金属片を見やっていた。
その目が、ゆっくりと私へと向けられた。
「見てよ、ほら……」
これが、私が犯してしまった事なのだろうか。たった一瞬の気の迷いが、彼女にこんな残酷な仕打ちをさせてしまったのだろうか。
どうして私はいつも間違ってしまうのだろう。
「エルネスティ、だいじょぶだよ」
その声で我に返った。
「エルネスティーは悪くない、だいじょうぶ、嫌いになんか……」
自分に言い聞かせるような彼女の表情はそれでも虚ろだった。
「あなたはレティシア?」
「その名前聞きたくない」
「じゃあ、マルール……」
「そうだったらよかった」
「あなたは一体、誰なの」
もう嫌なんだ、と彼女は囁いた。そして眠そうに何度か微睡むと、そのまますっと目を閉じて前のめりに倒れ込んだ。彼女の身体は力を失い、私は咄嗟に身を差し出して自分の体をクッションにし、巻き込んでもたれ掛かった。眠ったのではなく、気を失ってしまったらしい。
いつか路地裏で見た時とまったく同じぐったりと疲れ果てた表情で、彼女は静かに細い呼吸を繰り返していた。
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「ここは」
「あなたの部屋」
深夜、彼女が目を覚ました。半身を起こしても変わらず疲れ果てた表情と不安な目をして問うてきた。
「ねえ、どうしちゃったの……」
私は首を振った。「わからない。でも、きっと疲れているだけ」
私の返答に彼女は応じなかった。そうしてまた三角座りになり、片手で両目を覆い、項垂れて肩を震わせながらこう言った。
「こわい」
「何が……」
「何にも。わかんない」
あなたはマルールだから、心配しないで──そう言いたかった。言いたかったがそれを言うと今までのマルールを否定してしまいそうになって、それがさらに彼女を苛んでしまう事が怖くて、結局返せなかった。
「私がいない間に何があったの」
そう言うと彼女は顔を上げ、不安に駆られたままの目でこう言い放った。
「エルネスティーこそ何かあった……?」
胸が高鳴った。しかし、彼女が問いたいのは今日の事では無いだろう。
「私は」バジーリオさんから聞いた話を今のあなたに言ったところで、あなたはきっとそれを悪く受け止めてしまう。だから「何も無いわ」とそれだけを言った。
けれど、そこで出てきた言葉は意外なものだった。彼女は緊張した面持ちのまま、震えた声で紡ぎ出した。
「記憶って、さ」
「ええ」
「記憶ってある日突然、何の前触れ無しに、降ってくるように思い出すんだって、ずっとずっと思ってた。でも違った」
言われてみれば彼女にとって記憶とは何だったのだろうか。記憶を取り戻したいのかどうか以前から事あるごとに尋ねてはいたが、毎回曖昧な答えしか返ってこなかった。思い出した方がいいけれど、思い出したくない、と。
「本当は少しずつ思い出してた。ただマルールじゃ……ないって、思って。ほんとなら、銃の撃ち方や革の扱い方なんて知らなかった。でもまるで、それが当然できてたみたいに。初めから……。それってマルールじゃなくて、レティシアだったからでしょ」
沈黙を返すと、彼女が続けた。
「君を抱きしめた腕も、呼ぶ声も、見る目も、握った手も、君を……好きだなあって思ったのも……ほんとはまるっきり、マルールじゃなかったんだよね」
「そんな」そんな悲しい事言わないで欲しい。けれども、どうやってそうではない事を証明したらいいのかわからない。それでまた、何も言い出せなくなってしまう。
「嫌なんだ」彼女が言った。「最初に目が覚めてから、わたしだってずっと思ってたのに、レティシアに奪われた気がして……」
ねえ、エルネスティーはレティシアとマルールの、どっちが好き──紡いだ言葉の端で、彼女がそう呟いた気がした。彼女がマルールだったなら即座に答えたかもしれない問いに違いなかっただろう。しかし今となっては、それに答えてしまうのがどうしても憚られた──いいえ、私はあなたの事が。
そうした苦渋の感情が彼女に見られてしまったのか、彼女は再び不安を纏う虚ろな表情になった。もしかするとマルールと出会うまでの私もこんな顔をしていたのだろうか。感情がすっぽり抜け落ちてしまったかのような、この長かった百年の全てを消し去りたいと、それだけ願って過ごしていた私のように。
残るのは空虚さや寂しさや悔しさばかりで、どんなに足掻いたって取り戻せない過去を否応無しに思い出してしまう。そしてまた、昔の自分を呪うばかりになってしまう。
しかし、それは違うとマルール自身が言ってくれた。忘却の彼方にレティシアを置き忘れ、私と過ごしてくれて、今こうしてレティシアを思い出した彼女自身が私の背中を確かに押してくれた。私だけでは成し遂げられなかったことが彼女と出会ってから幾度となく訪れた。私の知らない事は、彼女が知っていた。
「……マルール」
私はあえてその名で呼んでみた。彼女が返答する事は無い。
それでよかった。
「私の知っているマルールは、どんな人だと思う」
「知らない……」
「でも、知りたくはない?」
彼女は息を呑んで怪訝な表情をしてみせた。それで理解し私は続けた。
「マルールは出会った時からずっと不思議で、楽しい人。それに、考えるより先に生きてるんじゃないかってほど活発な人。羽目を外したり人を茶化したりする時もあるけど、それは誰かを喜ばせたり励ましたりするため。悪い事をしたと思ったらすぐごめんねって言ってくれる、何度謝られたかわからない」
そんな事無い、と微かに彼女の首が横に振られた。
「……好奇心は人一倍強いのに、怖いものは私の後ろで弱音を吐くほど苦手。それなのに、私が危ない時は真っ先に前に出てかばってくれる。弱っている人を見ると放っておけなくて、自分がつらい目に遭っても何でもないよって強がりを言う、とても、優しい人」
マルールと過ごした毎日を思い出しながら、私は抱いた感情をなるべくたくさん話すように努めた。
「マルールは確かに銃の扱い方を知っていた。狩猟の仕方を知っていた。動物の捌き方も、ミゼットおばさんを驚かすくらい革の扱い方も知っていた。それと同じくらい、クランやソフィの手懐け方も、人との接し方も知っていた。釣りをしたらドックスおじさんに勝つくらい、その腕は確か。ベルトラン町長に直談判しに行ったり、病気の原因を突き止めようとして、ひとりで森へ向かったり……」
怪訝な表情のまま俯いて、マルールは私の話に耳を傾けてくれていた。
「マルールはいつの頃からか、好きだよ、って言ってくれるようになった。最初は悪ふざけだと思って気にしないようにしていたけれど。マルール、私は──あなたがそうして私と毎日過ごしてくれた事が嬉しくて、いつの間にかそれが当たり前になっていた。マルールが離れていく姿が想像できないまま毎日過ごしていた。いつか記憶を取り戻したらマルールは私の元から去っていくんだってずっと思っていたのに、私はそう思っていた自分を忘れていたの」
記憶を取り戻したらマルールは私の元を去る。それは確かなのかもしれない。きっとマルールは私の元を去った。
だからここで、きっぱりと決めなくてはならないのだと思う。私の気持ちも彼女の気持ちも、もうどっちつかずでいられる事なんてできないから。
「マルール。レティシア」
二人の名前を呼ぶと、ややあって彼女が返してくれた。
「……うん」
「これは二人できちんと考えてから、答えを出してほしい事」
「……うん」
怯えたようにこちらを見る彼女の目を、しっかりと見定めて告げた。
「もしできるのならあなたに──私の最期を見届けて欲しい」
不安げで俯きがちだった目が丸く見開かれた。
「それ、なに。意味わかんない」
「言葉の通り」
彼女は口を何度か開けたり閉じたりさせて二の句を紡ごうとした。けれど、それはついにできないまま、彼女はまた顔を隠すように俯いてしまった。
「すぐに答えが聞きたい訳ではないわ」
「なら何で……」
掠れた声。
「レティシア、あなたはきっと私を殺すために来た。マルール、あなたは私とずっと一緒にいたがっている。どちらにしたいか二人で決めなさい」
「どうして」
「もう私の問題ではないから」
病気を治し、自分を殺す──それは呪いだった。百年も前に私が選んで、私で決めて私に科した呪い。死ぬまで続く呪い。死ななければ決して解かれない呪い。今までは憑かれたようにそう思っていたけれど、もしかするとそれもいつの間にか変質していたのかもしれない。死ぬまで続く、生きる原動力。そして生きる原動力に変えてくれたのは彼女だった。マルールかレティシアかもわからない、あなた。
「だってマルールは君を殺せない。レティシアだって、殺しても殺しても殺せない事くらい今さら知って……」
「そうね。じゃあ、あなたみたいに言い方を変える。死ぬまで一緒にいる覚悟はある?」
「永遠にいたちごっこをしろっていうの」
私は首を振った。
彼女に会ってようやくわかった。君は化け物じゃないって、マルールが一緒に過ごしてきてくれたから。
彼女はそれきり黙ってしまった。無理も無い。今の彼女はマルールの考え方とレティシアの考え方が混在し合っている。それは互いに矛盾している部分もあるかもしれない。けれども、こんなに難しい問題をあなたに決めて欲しい意味を、わかってくれているだろうか。
「簡単な事ではないって、私も思ってる。だから」
彼女を後押しするように、私はいつかマルールが放った言葉を静かに受け取った。
「私は選んだ。次はあなたが決めるの」
彼女は俯いたまま、私のように静かに応えた。
「今はまだ……できない。だけど、ちゃんと決めるから、少しだけ待ってて」
その言葉を聞いて私は頷いた。
それから、何も言わず部屋を後にした。
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