Ⅱ-1 熟達者の親昵

 冬を越して太陽の光が一層強くなってきたある日、わたしはライフルを担ぎながら早歩きで進んでいた。


 ずっと前にドックスおじさんから受けた釣りの誘いを思い出し、日時を調整して迎えた今日。ベルトラン町長への手土産も考えておかなければならず、新鮮な魚を手土産とするのにも好都合だと考えた。


「ドックスおじさん。来たよ」


 八百屋の前に辿り着き扉を開けながら呼びかけた。ドックスおじさんはちょうどベストを着ている最中だった。


「おお、マルールのお嬢。早かったな」


「早く魚釣りしたくて早起きしたんだ」


「感心感心。ところでそのライフルは」


「釣りついでにウサギなんか見かけたら、捕ってやろうと思って」


「そいつはいい。秋は動物たちも目が覚めてわんさか見かけるからな」


 じゃあ、もうちょい待っててくれ。まだ準備に時間がかかりそうなんだ。


 そう言って店の奥へと消えるドックスおじさん。返事をして適当な木箱の上に腰かけて待っていることにした。


 そんな時ノック音が響き、店の扉がひかえめに開いた。中に入ってきたのはまだ十歳にも満たなそうな小さな女の子。手には似つかわしくない大きさのバスケットが握られている。おつかいでも頼まれたのかな、と思ったわたしは、店の中に入ってわたしをちらっと見たあと、慌てて野菜を見比べるその女の子に話しかけた。


「おはよう、こんな朝早くにおつかい? 偉いね」


 手持ち無沙汰の合間を縫うため「欲しいもの言ってくれたら、一緒に野菜探してあげるよ」とにこにこ顔で提案してみた。すると、少しもじもじしながらメモらしき紙とわたしを交互に見たあと「えっと、これ……」とおしとやかでかわいらしい声を出しながらその紙を手渡してくれた。


 メモに書かれているのは、タマネギ、トウモロコシ、ニンジン、グリーンピース、パセリ等々、エルネスティーがよくスープに入れてくれる野菜が書かれていた。


「これならお姉ちゃんにもわかるよ。じゃあ、お姉ちゃんはこの上半分を探すから、君は……えっと、名前は」


「……ソフィ」


「ソフィね。わたしはマルール。じゃあ、ソフィはここから下半分を探してくれるかな」


「うん」


 メモの下半分を指さして言うと、ひかえめな返事をしながらこくりと頷く彼女。


 わたしが集める野菜はタマネギ、トウモロコシ、ニンジン、グリーンピース、パセリだ。だが、こんなにも大量の野菜をクランより小さな女の子が運んでいけるのだろうか。


 野菜をすべて集めるとカウンターに置く。ソフィのもとへと行き、残りの野菜を集めるのを手伝ってあげた。それらを集め終え、カウンターの上に並べたところで、ちょうどドックスおじさんが戻ってきた。


「おや、お客さん来てたのかい。呼んでくれりゃすっ飛んで来たのに」


 持ってきた二本の釣り竿と肩に下げられる紐が付いた箱を適当な場所に置きながら、そう言うドックスおじさん。


「大丈夫大丈夫。選び終わったとこだから。ね、ソフィ」


「う、うん」


 ほお、と感嘆のため息を漏らすドックスおじさん。どうかしたのと訊ねると、いやな、なんだかクラン嬢に雰囲気が似ているなあと思って、と洩らす。


「おっと、さっさと会計済ませなきゃな。ちょっと待っててくれよ、お嬢ちゃん」


 ドックスおじさんが計量器で野菜を計り、計り終えた野菜をソフィと紙袋に入れていく。そうしていくつかの紙袋をバスケットに入れると、とても重そうな荷物がひとつ出来上がった。


「大丈夫? なんだか一人で持てそうもないけど」


「だいじょうぶ。これぐらい、ひとりでできるよ」


「おお、自分で運ぼうってか。偉いぞ」


 ソフィは重そうなバスケットを両手で持ち上げると、わたしたちを向いてあらたまった様子で「ありがとうございました」と丁寧に一礼してから、重さでよちよち歩きになりながら店の外へと出ていった。


 帰り道大丈夫かな、そんなわたしの心配をよそにドックスおじさんが言う。


「おう、おれたちも魚釣りに行くぞ。さっさと釣り堀に着いて魚釣り始めねえと、昼飯無しだからな」


「あ、うん」


 こうしてわたしたちは魚を釣りに店を後にした。


 

━━━━━━━━

 


 森の中はところどころ芽吹きの青が見え、春らしい季節の訪れを感じた。


 とは言っても、アンルーヴの町周辺の気候は年中秋と冬を繰り返すようなもので、厳密には春と呼べるほど暖かくはない。空から差し込む太陽の光を浴びた木々は、たった数ヶ月の間だけ生きるために最低限の光合成を行ない、栄養を蓄え、再び訪れる冬に備える。この地域の特殊な環境に適応した特殊なブナの樹なのだと言う。


「世界中探したってこんなブナの樹は無いよ。とても珍しく進化したんだ。アンルーヴの町章にも用いられてる」


 わたしに少し顔を向けながら、それでも歩は軽快に前へ前へと進んでいる。相当慣れた様子で歩き、この森の樹について語るドックスおじさんに、二重の意味で尊敬の溜め息を漏らした。


「おかげで成長も速いから、アンルーヴの町の暖を担うのにもってこいの樹って訳だな」


 そう言えば、八千人の町の人の暖をこの森だけでまかなってるってことだもんな、と以前木こりもこの町には多いのだと言ったエルネスティーの言葉を思い出しつつそう思う。


 ドックスおじさんの蘊蓄語りも終わり、黙々と足を動かし続けていると、ようやく目的の場所に着いたのか、おじさんの足がぴたりと止まった。小高い岩を登って、顔を上げる。


「きれい……」


「だろ。俺が見つけた穴場」


 森の木々に覆われ隠されたように存在しているそこは小さな滝壺になっていた。水面で反射した木漏れ日のゆらめきがこの場を覆う木々たちに映し出されて、すごく幻想的な風景。水中に視線を移してみても、魚の影が確認できる程その水は澄んでいる。


 思わずドックスおじさんより先に歩を歩ませ、その岸辺に屈んで両手で杓を作ってから、ゆっくりと澄んだそれを掬って口に運んだ。途端に繊細な冷たさが喉を滑り落ちて、歩き疲れた体に染み渡ってゆく。


「美味しい」


「そうだろ。おれ以外でこの場所を知っているやつなんていないんじゃないか」


 得意げにそう語るドックスおじさん。わたしは適当に感心しておくと、再び滝壺の水を掬って飲んだ。このお水はエルネスティーにも飲ませてあげたいと思い、持ってきた水筒の水を木箱に入れ、代わりに滝壺の水を汲んで入れる。


 さてそろそろ始めるか、と動き出したおじさん。釣り竿と糸を伸ばし、糸の先端に釣り針を結びつけ、手の平サイズのブリキ缶を取り出した。


「それは?」


「エサだよ」


 そう言って缶の蓋を開けると、丸々肥え太った無数の乳白色の蠢くものが中を埋め尽くしていた。


「うねうねして気持ち悪い……」


「活きがいいと言えよ。ここの魚はこれぐらい大きくて新鮮なエサじゃないと食べてくれないんだ。贅沢なやつら」


 わたしの分の釣り竿はドックスおじさんに教えてもらいながら自分で用意し、各々適当に腰掛けられそうな位置に着いた。ドックスおじさんは入り江の辺り。そして、わたしは滝壺のちょうど真ん中辺りに糸を垂らせる位置に座る。経験者のドックスおじさんはその場所が定位置なんだろうけど、水中を覗き込んでも魚の影は多く、おそらくどこに座っても余程でない限り同じ結果になるはずだ。


 そうしてわたしたちは釣りを開始した。


 目を瞑り、そよ風の流れと音に合わせるように、ゆっくりと深呼吸を繰り返すと、まるで自分がこの場所と一体になったような感じがして心地がいい。こんなに気持ちのいい場所ならエルネスティーも連れてくればよかったなと思うけど、結構ハードな山道だったし、果たしてエルネスティーが辿り着けるだろうか。


 多分無理だな、とひとり苦笑いしていると、不意に竿に伝わる感覚。エサに食いついた感覚をその手に感じると、竿をしっかり握ってリールをまったりと回した。水面から糸の先が露わになり、そこそこの大きさの魚が糸の先にぶら下がっている。そのまま手元に寄せて確認しようとすると、水を飛ばして激しく暴れまわった。


 そんな早々な収穫に、二度見をしたドックスおじさんが驚いたように声を上げた。


「速いなおい。しかもイワナ……」


「わたしの方が一歩リードしたみたいだね」


 負けらんねえ、と張り合いに精を出し始めたドックスおじさんを尻目に、わたしは釣ったイワナを木箱に入れると、再びエサを付け直して自然と一体になる感覚に身をゆだねた。


「おっと」


 今度はものの数分で魚が食いつく感覚。わたしは先と同じ要領で魚をひょいと釣り上げた。今度はニジマスがかかる。


「また釣れたよ、ドックスおじさん」


 そう言うわたしにドックスおじさんがくやしそうに反応した。


「くそう……! いつもはこんな調子じゃないのに」


 睨みながら歯ぎしりするドックスおじさんに圧倒されて、わたしは思わず「場所、替わってみる?」と提案してしまう。だが、それはドックスおじさんのプライドが許さないのか「いいや。いつもここで入れ食いなんだ。今更場所変えるなんておれにはできねえ」と言う。頑ななおじさんの態度に「そっか。わかった」とわたしはその気持ちを尊重してあげる事にした。


 けれども、その後もわたしの入れ食いがやむことはなく、気付けばわたしたちはお昼ご飯も摂らずに、一日中水面と魚を見つめながら過ごすことになった。


 

━━━━━━━━

 


 魚釣りの世界から現実に引き戻されたのは、夕暮れの赤色が水面を色づかせるほど鮮やかに映る時間だった。先に気づいたのはわたしで、ドックスおじさんを見てみると、まるで魂が抜けたように猫背になりながら俯いてしまっている。ちらりと見える木の箱の中には五匹の魚が泳いでいた。わたしの箱に視線を向ければ──気の毒に感じたので、あえて見ないことにした。


 ひとつ溜め息を吐いたわたしはドックスおじさんに呼びかけた。


「ドックスおじさん。そろそろ帰らないと暗くなっちゃうよ」


「お……ああ」


 呼びかけて魂が戻ってきたのか、ゆっくりとした動きで返事をされる。何匹釣った、十匹くらいか、と訊ねてくるあたり、途中から本当に魂が抜けてしまっていたのかもしれない。なんだか悪いことをした気がして、乾いた笑いをしながら適当にはぐらかした。わたしが釣った分を入れた木箱の蓋を閉め、中を見えなくする。


 それからすぐに帰る準備は整った。わたしたちは滝壺を後にし、夕暮れの赤い木漏れ日に染まる森を急いだ。


 帰り道、ドックスおじさんは終始無言で話しかける隙を与えてくれない。わたしに負けたのが相当ショックだったのだろうか。


 それでも、あまりにしょげきった背中には痛々しさすら感じる。


「あの、ドックスおじさん」


「なんだい……」


 弱々しい返事が背中越しに返ってくる。


「ほんと。ごめん」


「謝る必要ないよ。慢心なんだ……」


 負けたことを慢心と決めつけてしょげかえってしまっているが、そういう風に決めつけられてしまってはもはやわたしの立つ瀬がない。まさか魚釣り勝負に負けてここまで落ち込んでしまうだなんて、誰も思わないだろう。


 そうしておじさんのますます丸まった背中を見続けていることに胸が痛み、思わず視線を逸らした先の向こうには、小さくて白くて丸くてふわふわした何かが蹲まっていた。


 ウサギだ──。


 そう気付いた瞬間、わたしは考えるより先に荷物を下ろし、背中のライフルを取り出して片膝で立ち、弾を装填するとライフルを構えた。照準をしっかりとウサギに向け、無駄な力を抜いて引き金を一気に引く。ずどんと大きな音が森に反響し、照準の遠い向こうでウサギがぱたりと地に伏した。


「びびび、びっくりさせるなよ!」


「あ、ごめん。つい」


 ドックスおじさんはそんなわたしの一連の動作に全く気付いていなかったらしい。いきなり大きな音が真後ろから聴こえたことに、体を震わせながら近寄って来た。


 それでも、ドックスおじさんはがっくりと肩を落としたあと、撃ち取ったウサギの方へ駆け足で向かい、耳を引っ付かんでこちらまで持ってきてくれた。やっぱり相変わらず太股を撃ち抜いている。


 ウサギを持ってきたドックスおじさんにそれあげようかと言うと、彼は目を丸くして黙り込んだ。意気込んでいた割に収穫が少なく、その上わたしからそんなことを言われてプライドが許さないのだろう。余計に機嫌を損ねちゃったかなと訝るも、それはどうやら杞憂に終わった。


 ドックスおじさんはウサギを自分の顔の横あたりまで持ち上げると、にっと笑い、


「ありがとうな。今晩のメインディッシュになる」


 と愉快そうに言ってみせた。


 そんなドックスおじさんの様子に、わたしもようやく肩の荷が下りたような軽い気分になった。


「よかった。でも、毛皮は返してね。お金にしなきゃならないから」


「ミゼットのばあさんだったか。わかったさ。傷めないように返す」


「うん。じゃあさっさと帰っちゃおう。お昼ご飯も食べてないし、お腹空いた」


「そうだな」


 おそらくまだドックスおじさんのプライドは完全には修復しきっていないのだろうが、これで少しでも気持ちが楽になったなら幸いだ。


 日が降りきる前に町に着き、わたしたちは別れた。 


「エルネスティー。ただいま」


「遅かったわね」


「最初から入れ食い状態でさ。あんまり夢中でお昼ご飯も食べないで釣り続けてたら二十匹も釣り上げちゃったんだよ」


 わたしは肩に下げた木箱の蓋を開け、まだ元気いっぱいに水の中を泳いでいる魚たちをエルネスティーに披露した。中を覗き見ながらエルネスティーが言う。


「二十匹もあれば、手土産以外にマルールの夕飯の材料にできるわね」


 今夜は釣った魚でスープ煮でも作ろうかしら、と提案してくるエルネスティー。大歓迎で頷いて二人して準備を始めた。


 滝壺で手に入れた綺麗な水を渡し、数十分して出来上がった川魚のスープ煮は、新鮮なだけあってすごくおいしい。わたしは釣った二十匹を全部食べちゃいそうな勢いで平らげて、エルネスティーに呆れられそうになったのだった。

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