Ⅰ-7 解放の日は苦難の始まり

 崖から足を滑らせた日からきっかり一ヶ月間の長く苦悶の日々にも、ようやく終わりの訪れる日が来た。


 リビングのソファにゆったりと二人で腰かけながら、ギプスとガーゼを外しにかかっている。脇腹の怪我は縫い糸とガーゼを取るだけなので良いとして、問題は左足のギプスだ。固定度を増すためにベニヤ板から石膏に変えたギプスは固く、簡単に切って取り外すことはできない。だったらなんで取り外すのと尋ねたら。


「これ」


 と小さな糸ノコギリを取り出して無表情で答えた。


「そのノコギリで切るってこと?」


「そうよ」


「待って。失敗したらどうなるかわかってるよね」


 わたしが問うと、彼女は言う。


「あなたの左足の肉がこそぎ取られる」


 ここぞとばかりに生々しい言葉を返してきたエルネスティーに対し、ぎゃあぎゃあ暴れた。よもやエルネスティーに失敗などあり得ないのだろうが「うっかり手が滑っちゃった」時に痛いのは嫌だし、恐いのも好きではない。


「先生、他に方法は無いんですか」


 真面目にそう聞いてみるも、これも彼女の無慈悲な言葉で一蹴された。


「ない。一生そのギプスを付けたまま生きていたいのかしら」


 すばやく首を横に振ってそんな気は毛頭無いと示すと「じゃあ我慢しなさい」とぴしゃりと遮られ、もはや黙るしかなかった。


 糸ノコギリがゆっくりと往復し、ギプスにギザギザの刃が食い込んでゆく様は、なんというか「えぐいことされてるな」って気分。まるでまな板の上で抵抗する気を失った生きた魚の気分だ。そんな境遇にあって気づくこともある。糸ノコギリが往復するたびに揺れる潤いのある長い黒髪や、伏し目がちで強調される長いまつ毛と憂い気に見えるその視線に。


 魔女──まさに魔性の女とも言える人が目の前にいた。


 いけないいけない、と首をかすかに振り、糸ノコギリで切断されてゆくギプスから目を逸らすことに集中した。やがてわたしの心配も杞憂のまま彼女は途中まで切り終え、残りのガーゼ部分をハサミでちょきりと切ると、数週間ぶりの左脚があらわになった。


 すっかり筋肉が落ち、それこそそぎ取られたかのように細くなってしまっていた左足。右足と比べた時の差など歴然で、まるでつまようじと巨木ぐらい違うように見える。


「これ、元に戻るまですごいリハビリが必要なんじゃないの」


 わたしは自分の足を指差しながらエルネスティーに尋ねた。


「たった一ヶ月でボロ雑巾から人間に復帰したあなたなら明日には元に戻ってる」


「それ皮肉だよね?」


 彼女は聞こえない振りをして脇腹のガーゼと縫い糸を取り除いた。歪な形で塞がっているはっきりとした傷痕。木の枝が貫通して空いた風穴を皮膚を引っ張って無理やり縫い合わせたのだから仕方ない、とエルネスティーが言う。


 縫い痕の部分だけ他と違いみみず腫のように浮き上がっていて、なんだか治ったような気がしなかった。しょうもない事故が原因で体に傷痕が残ってしまったこともまた納得がいかないというか、やるせない感情に苛まれる。


「ひとまず立ってみるよ」


「そうね」


 松葉杖を手にするとそれを支えに立ち上がる。左足に体重をかけてみて立つだけならできそうと思ったわたしは、松葉杖をゆっくりと壁に立てかけた。左足に少しずつ体重をかけ、両足に同じだけの体重をかけて立つ。


「エルネスティーの言うとおり、これなら明日には走ることもできそうだよ」


 自分の体の驚異性に自分自身が驚いてしまって、ついそんな言葉が出てきてしまった。エルネスティーによると、しばらく筋肉を使っていない人は立ち上がることさえ難しいと言う。


「本当にその体の強靭さには舌を巻かれるわ。やっぱり記憶を失う以前は猟師で野山を駆けていたのかしら」


「そうだね。たぶん猟師……をしてたんだと思う。初めてライフルを触った時も、手にしっくり馴染んでるような感覚がしたし」


 もし体力を完全に取り戻したらきっと美味しいものを捕りに行けるよ、と言う。


「気持ちだけ受け取っておくわ」


「そう? じゃあエルネスティーっていつも何食べてるの? 好きな食べ物知っておきたい」


 わたしは自然に舞い降りてきた疑問をそのまま口に出した。


「私は……」


 彼女は少し顔を伏せてから言う。


「消化機能が低下していてまともには食べられない」


「え」


 何それ。どういうことだろう。わたしは焦りながらも続ける。


「えっと、だって生きるためには食べなきゃいけないよね。エルネスティーは生きてるんだよね。そもそも生き物だよね?」


「そうね。でも私は化け物だから」


 うっ、と言葉に詰まった。大きな墓穴を掘ってしまった。


「なんでそうなっちゃったの」


「マルールに関係あるのかしら」


 エルネスティー、怒っていらっしゃる、とわたしの本能が盛大に警鐘を鳴らし始めた。


「ご、ごめん」


「どうして謝るの。私のこと知らないでしょうし、仕方ない」


 口ではそう言っているが、視線が零度のように冷たいし、態度はそっけないし、とてもじゃないが信用できない。それに、この間クランとお茶した時も漠然と思っていたけど、どうしてそんなに自分のこと隠そうとするんだろう。


 やがてつんつんしていた雰囲気を纏わせていたエルネスティーが「はあ」と大きな溜め息をひとつ吐くと「じゃあ」とあらたまった様子で言った。


「足の怪我は治ったし、立ち仕事を任せてもいいかしら。洗濯物を干すのと実験器具の洗浄。全部こなせたら許してあげる」


 がばっ、とわたしはうな垂れていた頭を勢いよく上げた。そして、そのままの勢いでエルネスティーに抱きつく。


「ありがとーお!」


 びくっと体を震わせるエルネスティーを抱き込むように覆いかぶさった。


「離しなさい」


 そんなわたしの軽卒な行動によって、洗濯物を干すのと実験器具の洗浄は、未来永劫わたしの仕事になってしまった。何度呼びかけてもエルネスティーはその日一日、口を利いてくれなかった。


 大怪我からの解放の日は、自由になったがゆえの苦難の始まりってことなのだろうか。洗濯物をひとりで干しながら、真面目にそんなふうに思った。

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