2022年 6月
わりと暇な日(午前)
湿気たっぷりな空気が漂い、何となく風の心地よさが薄まるとともに梅雨入り宣言が発表された。
「じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
出がけのチューをしたリツコさんがレインコート姿でリトルカブに乗り込んでエンジンをかけた。毎度のことながらセル一発で始動するのは乗り続けているからだろう。長期放置車だとこうはいかない。
「あ、そうそう」
「忘れ物?」
何の事は無い、「今夜は冷麦がいいな」って夕食のリクエストだった。梅雨入りすればすぐに夏が来る。リツコさんは夏になると冷たいものを食べてビールを呑んで、エアコンの効いた部屋ですっぽんぽんで寝てはお腹を壊す。ある程度の要望を聞きつつ、彼女が体調を壊さないように調整しよう。
「やれやれ、今日はお客さんが少ないぞ」
今日は一日中雨の予報が出ている。雨降りだと来客が少ないし。車に乗らない志麻さんはウチまで来るのが大変だろう、連絡をしたら膝が痛いので丁度良かったと返事が来た。
「レイ、今日はお父ちゃんと一緒な」
「ととと?」
急ぎの修理も無い事だし、今日はレイの世話をしながら仕事をしようと思う。
◆ ◆ ◆
雨降りの午前中に自転車やバイクに乗って店へ来る客は少ない。レイはお客さんに出すお菓子を食べたり、バイクの部品を見ては「これなぁに?」と聞いて来たり。ついこの前産まれたばかりな気がするのに、子供の成長は早いものだ。
「レイ、それは触ったらアカンよ」
「なんで?」
好奇心旺盛な幼児はあちこち触るので気が気でない。エッジが立った金属製の部品を触ったりすれば可愛らしい手にけがをさせてしまう。
「子供が触るとな、バイクの神さんに叱られるんやで」
「ととはいいの?」
カブに限らずメーカーに無い組み合わせや部品の流用などをしていると「バイクの神様、俺はどこまでやって良いのですか?」と問いたくなる。「ととは大人やからエエの」と答えた。
「なんでおとなやとエエの?」
「大人になるとな、お手手が大きくなるからやで」
何でと言われると困るのだが、ここで「他人の命を預かるから」とか「万が一があっても責任が取れるから」と答えたところで幼児には理解できないだろう。
「おててがおおきいとエエの?」
「大きいお手手やとな、ほ~ら」
ヒョイとカブのシリンダーを持ってみせると「レイちゃんもっ!」と、レイがシリンダーに触ったその時。
「?……ふえぇ~ん!」
「あ、えらいこっちゃ!」
部品のエッジがレイの柔らかな手に傷をつけてしまった。
「びえぇぇえ! とと!」
「ほら見てみぃ、神さんが怒らはったわ!」
実際に体験してみないとわからない事は多い。最近の親御さんは子供から危ないものを遠ざけようとするが、触ってはいけないものや触る時に気を付けなければならない物を知らずに成長するのは怖い事だと思う。
「レイ、お父ちゃんの仕事場で遊んだらアカンで、神さんが怒るで」
このあと傷を消毒して絆創膏を貼ったのだが、消毒液が沁みたのかレイは再び大声で泣いたのだった。
◆ ◆ ◆
幼児の面倒を見ながらバイクを修理するのは難しかった。難しいというよりも無理だったので来客以外の仕事は保留してレイの面倒に専念していた。とにかくわが娘はは活発で、放ったらかしにしておくと妙な所に登ったり隙間に入り込んでホコリまみれになったりで目が離せない。好奇心旺盛だが怪我をして懲りたのだろう、バイクの部品や工具には近寄らない。
「とと、だっこ」
抱っこをねだる仕草がリツコさんによく似ている。抱っこ好きなのは遺伝するのだろうか? リツコさんもよく抱っこをせがんでくる。
「テレビ見よっか」
「うん」
レイを膝の上に乗せてテレビを点けると、コメンテーターが某国の軍事侵攻や別の国がミサイルを発射したとか物騒な話ばかりしていた。こんな番組を子供に見せてもぐずるだけなので、幼児向け番組にチャンネルを変える。
「昔はな、『チャンネルを回す』って言うたんやで」
「まわすの? くるくる?」
平成生まれな高校生たちは「チャンネルを回す」なんて昭和臭いと笑うが、令和生まれのレイはどう思うのだろう。
「そう、クルクル~ってな」
「くるくる~!」
幼児向け番組に飽きたのか、レイは膝から降りて店の中をちょこまかと歩きはじめた。
「とと、おとそにいきたい」
「レイ、『おそと』な」
微妙に嫌な言い間違いだ。娘が妻みたいな大酒呑みになりませんように。
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