閑話 リツコの一日① 一日の始まり
去年は春からの新型肺炎騒動で中さんの店は売り上げが激落ち。とはいえ生活すれば光熱費はかかるし食費もかかる。娘が生まれてからは新しく揃えなきゃいけない物がたくさん。出費がかさんで「出ていくばっかりやで」と苦笑いしている。実際はヤバいと思ってるんじゃないかな? お料理が苦手な私だけど、お弁当のお肉が牛から鶏になってるのはわかる。
「は~い、レイちゃん『ママいってらっしゃ~い』しようね」
「マ、マ?」
「レイちゃん、いい子にしてるんだぞ?」
昨日は雨ふりだったけど、今日は晴れて少し暖かい。だから
「(レイが)何とか(リツコの)お化粧した顔に慣れたな」
「これでも(メイクは)抑え気味なのよ?」
私にお弁当を渡す夫。抱っこしている娘は徐々に喋れるようになって、もう一息で『ママ』と言えそうな感じ。夫は何とか先に『パパ』とか『とと』と呼ばれたいみたい。だけど残念だったね、多分だけど私の方が先だ。
「はい、お弁当。忘れもんは無いな。いってらっしゃい」
「こーら、大事な物を忘れてるぞっ♡」
近頃忙しいのか娘に気を取られているのか、
◆ ◆ ◆
藤樹商店街から東に少し走って国道一六一バイパスに乗る。実家で独り暮らしをしていた頃と比べて決まった時間に出発して決まった時間に同じ場所を走っている。中さんが朝のタイムスケジュールを管理してくれているからだ。愛車のリトルカブ改は歯切れの良いエキゾーストサウンドを奏でながら車速を伸ばして時速……何キロとは言えないけれど交通の流れに乗ってる。
ヴロロロロロ……ガチャコン……ヴロロロロ……
「三速で引っ張って、四速にポン」
蒼柳北の交差点を曲がって数百メートル走ると安曇河大橋。ボアアップの八十八㏄と比べるとストロークアップで排気量アップされた愛車は吹け上がりは穏やかだけど粘りが有る実用重視のエンジン。スピードを出したいときはトルクで車速を伸ばして、ゆったり走りたいときにはズボラなシフトチェンジでも大丈夫。組んでくれた中さんみたいな私の我儘を受け入れてくれる優しくて力強い心臓だ。
「三速が良い仕事してるよね~」
古いスーパーカブのエンジンは四段ミッションにするだけで実用車から一気にスポーティさが増すと思う。学生の頃ノーマルのスーパーカブに乗ったことが有るけど、カブは三速で走りっぱなしだと思う。
「やっぱ暖かい日はバイクが良いなっ♪」
淡々と燃費重視な四速ギヤで走ること数キロ、国道一六一号バイパスを降りて湖岸道路へ降りる。なるべく今都町の旧道を走らないようにするのが身を守る方法。旧道はパンクしてバイクを降りた途端に襲ってきたり、進路に猫の死骸を放り込んでわざと轢かせて賠償金とか慰謝料を要求してくる連中が居るから要注意だ。
「湖岸道路までが遠いんだよね~」
そもそも今都町は湖周道路をメインに発展させようとした時点で失敗している。街の中心から離れて建設された国道バイパスのおかげで今都町は車で行くには少々遠回り。蒔野町の住民は今都を通り過ぎて安曇河で買い物をする。京都方面からの旅行者は今都町を通り過ぎて福井方面へ。
「今都は何回通っても不便だわ」
そのせいか今都町に在る高嶋高校へ赴任したがる教員は少ない。まだ時期は確定していないけれど、高嶋高校は移転が検討されている。もしも移転が本決まりになれば、私が定年になるまでには移転するだろうと思う。
ゴチャゴチャした汚い市街地を抜けて職場に到着。JR近江今都駅から高嶋高校までは比較的治安が良いけれど、高嶋高校から北は麻薬の密売や殺人事件が起こる物騒な地域が広がっている。通学路より西側も危ない。湖西線になる前の江若鉄道時代に形成された町並みは進化を拒むのか、寂れて崩れかけた廃屋が並んでいる。
「さて、今日も頑張るぞっと」
もうすぐ年度が替わる。夫の店に来る学生も入れ替わる時期だ。去年と違って卒業式も無事にできるだろう。新型肺炎の騒動がおさまって本当に良かった。
◆ ◆ ◆
新型肺炎騒動の時は感染拡大予防で大忙しだったけど、ワクチンや治療薬が普及してからは穏やかな日々が続いている。最近多いのは一・二年生の二輪免許取得許可と三年生の普通自動車免許取得許可の申請。成績や素行不良の生徒には許可は出せない。けっこう気を使う仕事なのだ。
「さ~って、お弁当っ♪ お弁当っ♪ コンビニじゃないお弁当♪」
昼休みを知らすチャイムが鳴り、私もお弁当タイム。今日のお弁当は鶏の照り焼きとそぼろ卵のご飯。ご飯に色がついてるからお出汁か何かで炊いたのかな? もう一つのタッパーにはサラダが入ってる。野菜も食べなさいって事だね。
「いただきまぁす、にゃああ~ん」
同僚の竹原が「嬉しそうに食べますねぇ」とか言ってるけど実際に嬉しいんだから仕方がない。お付き合いしているミトちゃんのところへ行くように言って追い払う。竹原はウチで三輪バイクを買ってから気が向くと学校に乗ってくる。三輪バイクは珍しいからかミトちゃんとの会話が弾み、仲も深くなったみたい。
もぐもぐもぐ……おお、照り焼きソースで茶色に染まった皮と白い肉がハーモニーとなって私の胃袋を攻めてくる。美味い、これは嬉しい攻撃。口直しのサラダが口の中をサッパリとさせ、そぼろ卵がお出汁で炊いたご飯に華を添える。
「すっかりコンビニ弁当じゃ満足できない体になったわね」
春休み前の三学期は短いおかげで慌ただしい。来年度はお隣の安曇河高校の普通科が廃止される。安曇河高校へ通うつもりだった学生が高嶋高校に流れてくるかもしれない。となれば今都の生徒が増えるかもしれない。私は来年もバイク通学関係を担当する予定だ。竹ちゃんは来年度は新設されるボクササイズ同好会の顧問になるからバイク通学関係の担当を外れる。来年度の相方はミトちゃんだ。女の細腕では厳しいものが有るけれど何とか乗り切ろうと思う。
「さて、忙しくなるけど頑張るか」
元気が有れば何でもできる、元気を出すにはご飯が大事。私は最後の鶏の照り焼きを噛みしめた。
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