楓君が来て三週間(中)
買い物に出た二人が思いの外早く帰って来た。どうやら買い物の順番を間違えて、先に生ものを買ってしまったようだ。
「お刺身は氷温庫に、鰤カマも一緒でイイか」
「お酒は倉庫に置いておくよ~」
冷蔵庫を開ける音がしたと思ったら、二人は再びバタバタと出掛けてしまった。
「レイちゃん、後ろに乗る?」
「私のお尻は見た目より大きいんや、ジョルカブで行く」
今度はバイクで出かけたらしい。空冷単気筒の長閑な排気音が遠ざかっていく。
(やれやれ、バイクでデートか)
独身だった頃、晶ちゃんを男性と勘違いしてデート気分であちこち出掛けていた事を思い出した。旧高嶋市内の甘味処巡りだけじゃなくて東近江の酒蔵まで行って日本酒を買って来たり……言っとくけど呑んでないよ。そもそも白バイ隊員と一緒に出掛けて飲酒運転なんてする訳が無い。
(そうそう、晶ちゃんを理想の王子様と思って告白したんだっけ……)
晶ちゃんに『私は女性です』と言われてその足で大島サイクルに寄り、中さんとご飯を食べて、そのあと酔って中さんと一夜を過ごしたのだった。あの夜の事を中さんは多くは語らなかった。ただ、日記には事細かに書いてある。そりゃぁもう事細かに酔って壺に(大変汚い話なので略)たり、大暴れして中さんに(極めて暴力的表現)った様子が書いてある。こんな恐ろしい女をよく嫁に貰ってくれたもんだ。えらいぞ中さん。
(何と言うか、中さん、すまんかった)
私は今五十代後半。あと数年で定年だ。定年後は悠々自適な生活を送る事になるだろう。
(定年後はどうやって過ごそうかな?)
最近の私は呑んでばかり、ゼファーちゃんに乗る事が減ってしまった。どうしてこんな事になったのだろう? 若い頃はゼファーちゃんを駆って何処までも走れたのに。お婆ちゃんになっても乗ると決めていたゼファーちゃんなのに。
(よし、お酒はやめよう。体を労わって中さんの分まで生きよう)
だが待て、たしかレイが「鰤カマも~」みたいな事を言ってたな。鰤カマなら塩コショウを強めに効かせてビールを合わせたいところだ。いや、焼酎をロックでいくべきか。
(よし、お酒は少しだけ控えよう。今後は明るいうちは呑まない方向で……いや待て、バーベキューの時は呑みたいな)
酔っているせいか考えがまとまらない。とにかく、休日に寝起きでビールを飲むのはやめておこう。でもって今夜の鰤カマの為にお腹を空かせておこう。料理上手な娘で良かった。
◆ ◆ ◆
安曇河町にある我が家……じゃなかった、本田サイクルへ行くのは国道一六一号バイパスに乗るより旧国道を走る方が安心だ。普通に走ればバイパスの方が早く着くけれど、私たちみたいに小さなバイクに乗っていると大型車に巻き込まれそうで怖くてたまらない。
「レイちゃん待って~!」
「へっへ~んだ! ついておいでっ!」
最高速はカブ一一〇全然勝てないけれど、加速はジョルカブの方が上。これはお父さんが「加速が鋭くてもスピード違反にはならん」と改造してくれたおかげだ。
「もちろん付いていく!」
楓ちゃんが喰らいついてくるのも無理はない。バイク店と言っても電気式しか扱わないお店もある昨今、本田サイクルと言えば『機械式原動機付自転車を扱うお店』として湖西地方だけではなく、県外でもそこそこ名の知れたミニバイク専門店だからだ。楓ちゃんは両親のカブを幼い頃から見て育って来た。彼にとってバイクの基準はスーパーカブ。そんなカブだが専門店は少ない。理由は簡単、自転車屋さんでも直せるバイクだったからだ。じゃあバイク専門店なら上手く扱うかと言われるとそうに有らず。スーパーカブはバイクで有ってバイクではない。唯一無二のスーパーカブなのだ……とおばさまが言ってたんだとか。
で、旧国道をトコトコ(というにはハイペースだったけど)と走り続けて今では数少なくなった機械式原動機付自転車を扱うお店・本田サイクルへ到着。
「こんにちはっと、お客さんを連れて来たで」
ちょうどおやつタイムに来たらみたい。淹れたてのコーヒーの香りがする。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁっ! またタイムスリップしたぁっ!」
「え? リツコ先生と葛城さん?」
私達を出迎えたおじさんとおばさんの反応が面白いのなんの(笑) おばさん、タイムスリップて何やねん。おじさん、よく見ろ私の眼元には黒子が無いぞ。でもって楓ちゃんにオッパイは無いぞ。
「おじさん、おばさん。レイや、レイ」
「葛城は母の旧姓ですが、初めましてですよね?」
アタフタする二人に対して看板娘の理生ちゃんはいつも通り。
「おねえちゃんだっこ。おにいちゃんはだあれ?」
ここで楓ちゃんが理生ちゃんに「浅井楓です。ヨロシクね」と自己紹介。微笑む楓ちゃんの顔を見ているとドキドキするのは何故だろう? 何かの特殊スキルだろうか?
「浅井さん? もしかしてパン屋さんの?」
「葛城さんの息子さんか、は~、そっくりだなぁ」
晶おば様は若い頃は大そうイケメン(日本語として変な気がするけど)で、大島サイクルに来る女性客を魅了しまくる(女性なのに)男前だったらしい。投げキッスやウインクでファンを気絶させたとか……
「まぁいいや、用件を聞きましょうか」
「えっとですね、駆動系のリフレッシュとスロットルを大径に……」
男たちが難しい話をしている間、おばさんと理生ちゃん、そして私はコーヒーブレイクだ。
「私が二十五歳若かったらアタックしてるなぁ、もしかしてレイちゃんの彼氏?」
「下宿してるだけなんやけど、見てるとドキドキって言うか、モヤモヤする」
「おねえちゃんはおっぱいあるからドキドキがきこえな~い! おかあちゃんはないからきこえる~!」
そう、楓ちゃんを見ているとドキドキしてモヤモヤするのだ。幼い頃の楓ちゃんを御守りしていた時に条件反射になったとしか思えない。
「理生、アンタもこうなるんやで……」
「ギャ~! ペッタンコいや~!」
いや、残念やけど理生ちゃんはおばさんの血を引いてスレンダーになると思う……そんなんどうでもエエねん。
「それはさておき、レイちゃんのドキドキとかモヤモヤは『恋』やと思うで」
「ん~?」
そう言えば、今まで恋なんてした事が無い様な気がする。何故か私には彼氏が出来なかった。お母さんには内緒だけど、告白された事はある。でも付き合おうかな~って気にはならなかった。
「おばちゃんもな、ウチのと遊んでたらモヤモヤしてな。で、何やかんやでお付き合いすることになったんや』
おじさんとおばさんが付き合うに至った経緯は高嶋高校生の間で伝説となっている。そして、おばさんと付き合う事になったおじさんは『猿回しの本田』と呼ばれたとか。だとするとおばさんが猿だ。ちなみにおばさんは『湖岸のお猿』って呼ばれてたんやって。
「
母は『男と女は解らない、ロジックじゃないから』みたいな事を言ってるが、何かのアニメやマンガのセリフを気に入って言ってるだけだ。
「まぁ、顔は及第点やけど……気も合うしお料理も上手やし」
「気が合って好みのタイプやったら問題無いやん、優良物件やで」
優良物件と言われれば優良物件かも知れない。カブのチューンアップについて熱く語る本田のおっちゃんと、「その辺りは予算があるんで」と苦笑いする楓ちゃんを見ながら私たちのコーヒータイムは過ぎるのだった。
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