第433話 80万PV突破記念その②・本田サイクル
妻と出会ってから二十五年以上になる。出会った頃の妻はホンダが大昔に売っていた小さな小さなバイクに乗って元気に通学する女の子だった。楽しそうにバイクに乗る姿に惹かれ、話しかける切っ掛けになればとホンダモンキーに乗り始めたのが事の始まりだ。
「その頃、今都に酷い店があってね……」
店を覗いたら強引に買わされたホンダモンキー。すごく程度が悪かった。修理を依頼すれば『旧いバイクだから保証は効かない』と何でもかんでも有償修理。妙な部品を『修理を兼ねたカスタム』と取り付けられ、バイトで貯めた貯金はどんどん減って行き、いつの間にかモンキーは原形をとどめ無くなった挙句、金の切れ目は縁の切れ目とばかりにクレーマー認定されて出入り禁止にされてしまった。
「それで同期の佐藤、ほら、レイちゃんも会った事が在るでしょ? トゲトゲした髪型の奴。あいつとあいつの嫁さんは僕の同級生でね、理恵を紹介してくれたんだ」
金欠の僕は大島のおじさんに『金が無いなら自分の手を汚せ』と言われ、整備のイロハを習いながら今も乗り続けている愛車を修理した。あの頃の経験が僕をオートバイの道へと歩ませたのだった。
「で、色々あってお付き合いを始めて一緒の大学に通って……」
高校を卒業した僕たちは同じ大学に通い、自動車部に入部してキャンパスライフを送った。予想外だったのは理恵ちゃんの御両親がハウスシェアを提案した事だった。普通は年頃の女の子が男と一緒に住むのを望む親なんていない。
「ところが理恵と来たら寝坊助でね、僕は目覚まし代わりだった訳だ」
「その節はお世話になりました」
とにかく毎朝起こすのに一苦労。一番効果的な起こしかたは食パンを焼くトースターの『チン』って音を聞かせる事だった。そうそう、一緒に暮らしていて驚いた事が在った。大学に通い始めて早々に妻は全身の痛みを訴えたのだった。
「一緒に暮らして早々に『体中が痛い』って言いだして、医者に連れて行ったんだ」
「そしたら『成長痛です』って言われてな、一週間で十センチ以上伸びてたんや」
そんな僕たちは徐々に距離が近付き、ついに結ばれ、幾度となく体を重ねたりしたのだが、その辺りは話すのをやめておこう。このお嬢さんにはまだ早い。
「で、卒業後は僕が三重で、理恵は高嶋市内で就職して三年間遠距離恋愛して結婚。おじさんとリツコ先生に仲人をしてもらったのはレイちゃんも知ってるよね?」
「うん、ケーキの上半分を食べてお母さんに叱られた」
小学生だったレイちゃんは引き出物のケーキを上半分だけ食べて両親に叱られたらしい。特におじさんには『お母さんと同じ事をすなっ!』って叱られたらしい。
「で、理恵と三重に戻っての新婚生活だったんだけど、僕が体を壊して戻って来たのが四年ほど前だったかな……あの時は驚いたよ。まさか親父さんが……」
三重県にあるバイクパーツメーカーに勤めた僕は順調に昇進したまでは良かったのだが、役職に就いて以降はストレスと過労による体調不良に悩まされた。ストレスの影響だろうか、子供も出来ず不妊治療も効果が出なかった。倒れた時に妻から「滋賀に帰ろう、高嶋市に帰ろう。お金は大丈夫だから」と説得され、僕は会社を辞めて高嶋市に戻って来た。四年ほど前の話だ。
「おっちゃんが病気になってた時は驚いたで」
「あの頑丈なおっちゃんがガリガリに痩せてたもんなぁ」
滋賀に戻った僕たちは仲人をしてもらった大島夫妻に挨拶をしようと店を訪れた。ところがシャッターには『しばらく休業します。バイクは売りません/店主』との張り紙。
「おかあちゃん、ねむい」
「ちょっと
「おねえちゃん、ばいばい。おかあちゃん、かたい……スゥ……」
「アンタも何時かこうなるんやで……」
お菓子を食べ続けてお腹が一杯になった理生は眠ってしまった。理生を抱っこして寝かしに行く理恵。彼女はすっかり母親になった。ひょいと理生を担いで住居に連れて行ってしまった。
「で、お見舞いに行ったら親父さんが『店を買い取って引き継いでくれ、安うしとく』って言ってくれてね。商売の事は親父さんに、経理の事は億田不動産の今津さんに習って今に至ると。会長さんにも厄介になったんやで」
大島のおじさんは僕に店を託して数ヶ月後、癌でこの世を去った。バイク修理で出る有害な物質はおじさんの肺の奥深くまで達し、肺腺ガンを引き起こしておじさんの身体全体を蝕んだのだった。
「新装開店の前日にね、親父さんは『俺の命もそろそろかな』って言ってたよ」
リツコ先生とレイちゃんはおじさんには伝えなかったみたいだけど、おじさんの身体は僕たちが帰って来た時点で余命数ヶ月と言われていた。百分の数ミリを指先で感じるおじさんがそれをわからないはずが無かった。それでも『治ったら旅行に行こう、温泉が良いな』なんて二人に言ってたのは安心させるつもりだったのだろう。
店を引き継いでからは慌ただしい日々の毎日だった。あの日の事は今でも覚えている。そろそろ慣れてきたかって時に電話が鳴った。電話を取った理恵の声がトーンダウンして行くのを嫌な予感がしつつ聞いていた。
「余命宣告より長く、燃え尽きるまで生きたってリツコ先生から聞いた。親父さんは予備タンクの燃料まで使い切って人生をフルスロットルで駆け抜けたね」
大島のおじさんは親戚・縁者が少なかった。葬儀はいろいろ大変だろうと集まった車輪の会のメンバーやご近所の助けを借りて執り行われた。みんな葬儀の最中にリツコ先生がニコニコしていたので不思議に思っていた。
「出棺の時にリツコ先生が大泣きしてたね。『どうしても我慢できない』って」
おじさんの遺言って言うか最後のお願いは『笑顔で見送って』だったそうだ。おじさんはリツコ先生の笑顔が大好きだった。だから笑顔で見送って欲しかったんだって。レイちゃんは我慢できずに最初から泣いていたけれど、リツコ先生は必死で笑顔を作っていたのだろう。
「火葬場に着いてからは泣きっ放し。『泣かさないって言ったのに』って大変だったね。でもその後で我が家も大変な事が在ってね……」
葬儀や火葬が終わった後、今度は僕たち夫婦に大事件が起こった。理恵が真っ青な顔をして気分が悪いと訴えたのだ。リツコ先生のお家で片づけを手伝っていたらトイレに駆け込んで戻していた。どんぶり飯を毎食二杯食べる妻が吐くなんて何か悪い物を食べたのか、七個ほど食べた仕出し弁当が悪かったのか、その割にはみんな平気なのは何故だとか大騒ぎになった。
「まさか四十歳を手前に授かると思わんかったからビックリしたで」
理生を布団に寝かせた妻が戻ってきた。滋賀に戻るまで不妊治療をしていた僕たちだったが、何と十年以上も授からなかった子供を授かったのだ。諦めていた所へ嬉しい不意打ちとはこの事。
「あれから三年か、僕が初めて来た頃の親父さんと同じくらいの歳になったなぁ」
「遅くに授かった子供やから、おっちゃんの気持ちはよく解るで」
大島のおじさんはもう居ないけれど、おじさんの直したバイクは大半が現役で走り続けている。おじさんが愛した二人も店に来てくれる。そして、僕と妻を結びつけたこの店と小さなオートバイを愛している。
僕は妻と一緒にこの店を体が続く限り続けて行こうと思う。
「さてと、明日にでもバ……母さんを連れてミントを取りに来ますね。ばいちっ」
「よろしく」
レイちゃんが帰った後も仕事は続く。ご近所の奥様や高校生、中学生や小学生も自転車・ミニバイクが壊れるとウチに持ってくる。そろそろ免許を取った学生が通学に使うバイクを買いに来る時期だ。そんな事を考えていたら亮二と綾ちゃんの愛娘がやって来た。亮二に似たヤンチャな感じのする元気な女の子だ。
「おっちゃん、バイクが欲しいんやけど何かお勧めはある?」
この前産まれたばかりだと思っていた同期の娘がオートバイを買いに来た。
「学校に許可はもらったかな?」
「うん、ほら」
僕が初めて大島サイクルを訪れてから二十五年くらいが経つ。そうか、もうそんなに時が過ぎたのか。僕も妻も歳を取る訳だ。
「ふむ、じゃあOK。親父さんのエイプを貰って乗るかと思ってたぞ」
滋賀県と言えば何が思い浮かぶだろう。もちろん琵琶湖が思い浮かぶだろう。その他の名物と言えば長浜楽市・彦根城・ゆるキャラ・バームクーヘン・軽音部のアニメ・信楽焼き……基本的に湖の東側ばかりだ。
「お父さんは『これは母さんとの思い出やからアカン』やって」
では琵琶湖の西側は何があるだろう。特に何も無い。昔は蒔野にメタセコイヤ並木なんて在ったけど、寿命が来たのと台風で倒れたり伐採されたりで無くなってしまった。自衛隊が演習場を廃止して以来、北部にあった旧今都・蒔野町は財政難にあえいでいた。十年ほど前には官公庁が撤退。高嶋高校も真旭町へ移転した。その後、自衛隊からの基地周辺地域環境整備費や迷惑料で成り立っていた今都市は財政破たんしてしまった。今では栄光は何処へやら、ゴーストタウンと化しているらしい。
「高校生の頃から亮二は綾ちゃんの尻に敷かれてたんだよ」
「目に浮かぶわ~」
「フッ……亮二は相変わらずか」
ここは琵琶湖の西側、滋賀県新高嶋市安曇河町。特に名物は無いが田舎なりに楽しい暮らしがある。
「私はマニュアル車に乗りたいんやけど、クラッチ操作の無いスクーターも楽で良いかなぁ。荷物が積めるし、電気式やったら家で充電できるし」
そうそう、名物って程じゃないけど真旭に移転した滋賀県立高嶋高等学校は全国でも珍しいバイク通学が可能な高校だ。
「足が付かんバイクはしんどいで、取りあえず跨ってピンと来たのにしとき」
「バイクって言っても色々あるよ。新車からジャンク、機械式や電気式」
そんな街で店を引き継いで三年余り。妻は女性目線でバイクのアドバイスをする接客担当。僕は主に修理担当。二人三脚の経営はしんどい時もあるけれど、病気になってしまうほど忙しくは無い。
「でもなぁ、機械式も可愛いんやなぁ……」
どんなベテランライダーも免許を取ったばかりの頃は全員初心者だ。初めて大島サイクルを訪れた時を思い出して、僕は先代と同様に問いかける。
「予算は? どんな風に使う? ……条件を聞こうか」
※終わらへんで!
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