第344話 リツコの悩み

 このところお酒を呑まず元気が無いリツコだが、体の調子が悪い訳ではない。ただ、なんとなく気分が重くて食事が喉を通らない。事の始まりはバイク点検の後の出来事……。


「竹ちゃん大丈夫?」

「はあ? 何がですか?」


 生徒の親に殴られた竹原を心配して声をかけたリツコだったが、竹原は機嫌が悪かった。


「竹ちゃん、キレてるの?」

「今、『キレてるの?』って聞きましたか?」


 竹原は怖い顔だが愉快な男だ。機嫌が良ければ人差し指を軽く振って『キレてないですよ』と言うだろう。だが、今日は不機嫌だった。


「キレてますねぇ」

「キレてるんだ、殴られちゃったもんねぇ」


 誰だって殴られれば機嫌が悪くなるのは当然だ。殴った方の手が骨折してしまうほど強靭な顎を持つ竹原だって例外ではない。人を殴っておいて「殴ったけれど怪我をしたのはこっちだ! 損害賠償! 慰謝料払え!」と騒いだ保護者にうんざりしていた。だが、竹原は殴られた事自体は気にしていなかった。


「いや、あの手の『いかにも今都』ってのが先輩の御主人が今都を嫌う原因かと思いましてね」

「まぁ、今都の人が好きってのは珍しいけどね。それと六城君みたいな子もね」


 高嶋高校卒業生で今都出身と言えば人生を踏み外しているのが普通だ。高嶋高校の都落ちと呼ばれるBコースでは特別カリキュラムを組んで今都出身の生徒を構成させようと努力している。まぁ実を結ぶことは稀だが。


「その六城ですけどね、バイクに乗ってるんですよ」

「ふ~ん、そうなんだ。何てオートバイ?」


「あの形ならホンダでしょ、生徒が通学で使うみたいなバイクです。少し大きく見えますけどね」


 今都町では小型オートバイに乗るのは貧乏人とされている。今都町住民の場合、成人してからオートバイに乗る場合は例外なく大型自動二輪だ。これはオートバイに乗って楽しむのではなく、『大型自動二輪免許を取れる優秀な自分』と『大型自動二輪を持てる経済的余裕』を周囲に自慢する為。決して乗って楽しんだりするわけではない。ガレージの飾り物だ。


「じゃあミニバイクだ、どこで買ったのかしらね」

「あのホラ、退学になった……名前を忘れたな、ああ、田谷ですよ、田谷ギョヴュヲからみたいですよ」


「え~? 田谷って六城君と殴り合ってなかったっけ?」


 六城が乗っているオートバイはギョヴュヲが修理途中で投げ出した物だった。六城はご近所のよしみで修理を手伝おうとしたのだが、ギョヴュヲがキレて放り出し、六城が引き取って修理したのだ。


「何か田谷が乗っていて壊れたのを引き取ったみたいですねぇ」

「壊れたらポイなんて、田谷ってやっぱり最低な奴だったのね」


 しかも田谷ギョヴュヲはキレた後でバイクを引き取った六城を逆恨みして木刀で襲っている。ギョヴュヲだけでなく、喧嘩で負けたギョヴュヲを両親は利用しようとした。親子共々ロクデナシで下衆の極みだ。


「しかも、自分でコツコツ直したみたいな事を言ってましたよ」

「自分で修理したんだ、六城君は器用ね」


 今都町の住民に人気なのはアメリカ製やドイツ製の大型バイク。ミニバイクに乗るだけでも貧乏人と笑われる今都町。自分で修理まですると変人扱いされて村八分にされかねない。


「いや、六城が言うにはバイク屋に出入り禁止になったから必死で覚えたみたいですよ」

「へ~、珍しいね」


 以前リツコはウインカーが点かないだけでバイクを買い替えた生徒を見た。その生徒は『なぜ自分が手を汚して直さなければいけないのか?』と言った。今都町で修理・整備に携わる者は下賤な者と蔑まれているからだ。


「先輩のお家でも出入り禁止になったみたいな事を言ってましたよ」

「私は聞いてないよ?」


 六城と言えば、リツコが赴任した当初はとんでもない暴れん坊だった。竹原に締められた後は真面目になったがクラスでは虐められる対象となり、喧嘩(と言っても六城は身を守るだけ)をしては保健室に来ていたのを覚えている。


「保健室に来た時は真っ赤になって可愛かったよ」

「そりゃ先輩、あの頃の先輩と言えば学校のマドンナでしたからね」


 その頃のリツコは二十代半ば。綺麗なお姉さんとして男子生徒の憧れの存在だった。邪な考えで近寄って来る男性教師や『お姉さま』と慕う女子生徒も多く、モテてはいたが、何故か恋人は出来なかった。


「六城は反省して、出入り禁止になった店に謝りたいみたいな事を言ってました。御主人の伝手で謝る機会を作ってもらえませんか」

「ふ~む、出入り禁止ねぇ……」


 後輩の竹原が言うのだから何とかしてやりたい。だが、夫には今都絡みで辛い過去がある。後輩の頼みは叶えてやりたい。だが、夫の気持ちも考えると「うん」と言えないリツコだった。


◆        ◆        ◆


 竹ちゃんのお願いは聞いてあげたい。でも中さんには言い辛い。どうしようかと考えるとお酒を呑む気にならない。今日のブロッコリーと鶏肉のお料理だってさ、本当ならお酒と合うんだろうけど……。


「リツコさん、リツコさん?」

「ん? なぁに?」


 ぼんやりしていたから気が付かなかった。


「お酒は?」

「今日はいいや」


 中さんは心配そうにしてるけど、どうしよう。お願いしても良いのかな……。

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